第3章 動乱の勃り 常陸国府の攻防 5
「――為憲は討ち漏らしたか」
血糊も生々しい長鉾を肩に辺りを見渡しながら、将門が呟いた。
「は、土壇場の乱戦の最中に上手く落ち延びたようにございまする。しかし、その他の敵勢は残らず討ち果たしましたぞ!」
破顔する経明に頷きながら、遂高も深い息を吐く。
「……よもや、我らが勝つとは、な」
周囲は地を埋め尽くすほどの国府兵の亡骸が見渡すばかり。
それに対し将門勢の損失は極めて微々たるものであった。
兵力は優に三倍、最新鋭の兵具を備えた常陸国府軍に対し将門は圧倒的な勝利を収めたのである。
方々からは常陸志願兵らの咽ぶような歓喜を孕んだ勝鬨が聞こえてきていた。
「天下に弓引く覚悟で挑んだ戦じゃ、これ程の圧勝でなければ割に合わぬわい!」
興世王もまた三人と馬を並べながら満足気に大笑した。
やがて、将門らと同じ平氏の赤幟を掲げた一群が近づいてくる。
「若殿、この度の国府相手の勝利、目出度き事にござるな!」
「親爺殿、お久しゅうございまする!」
馬から降り両手を広げて喜ぶ真樹に、将門もまた下馬し涙を浮かべて肩を抱き合った。
「申し訳ござらぬ。この度は有難き助太刀なれど、親爺殿らにまで逆賊の汚名を着せてしまうことになってしまった」
「何を言われるか。儂らは下総の同胞とは一心同体、若殿が起つ時は即ち我らが起つ時じゃ。最後まで一蓮托生であろうぞよ!」
「我ら新治の民も都人らの増上慢は腹に据えかねておりました。御覧じろ、最前の戦にて見せた常陸の民らの勇猛振りを! これはまさに日頃我らを東夷と蔑む国府への憤怒の発奮にございまするぞ。若様、我らはこの度の勝利によって、見事天下に東人の意地を示して見せたのじゃ!」
未だ勝利の興奮冷めぬ様子の白氏も意気込んで答える。
他の互いの手勢達も馬を降り、見知った者達を見つけては抱擁を交わしながら勝利を祝い合った。
そこに美那緒の姿を見つけた真樹が「おお!」と声を上げた。
「これは御前殿、挨拶が遅れてしまったわい。先程の戦い振り、改めて感服仕ったぞ! さすが上総夜叉姫の名は侮れませぬのう」
見知らぬ老将らに笑顔を向けられギクリとたじろぐ美那緒であったが、
「おや、そういえば御前殿は新治郡の平真樹殿と白氏らにお会いするのは野本の調停以来でございましたっけ。思えば随分昔の事のようにございますな」
そこへ咄嗟に遂高が助け舟を出し、美那緒は目で頷き返しながら深々と礼を返した。
「……お恥ずかしき事にございまする。永の御無沙汰をお許しくださいまし」
常陸国府の門前にて、帰順を示した国府守備隊らが門を潜ろうとする将門勢を揃って膝をついて出迎え、そのうち一人の武将が歩み出て将門の前に低頭した。
「将門様。この度の見事な勝利、常陸の民の一人として心よりお祝い申し上げまする! ――そして、御館様。我ら郎党皆、お帰りをお待ちしておりましたぞ!」
顔を上げて玄明を見つめる武将の態度を訝しみながら将門らが当人を振り返ると、玄明は重々しく頷きながら応じている。
「貴公は何者じゃ?」
将門に問われた武将が再び首を垂れてそれに答える。
「藤原玄明が従類、玄茂にございまする。我ら一門、国府より受けた主の謂れなき無体な仕打ち、我が身の屈辱の如く耐え忍んでおりましたところ、将門様決起の噂を聞き、一門の者共とともに国府守備隊に志願し雪辱の機会を伺っていたのでござる」
ちらり、と遂高が玄明に視線を向ける。お尋ね者の一門の者らが、簡単に府内の警備に就けるはずはあるまい。或いは初めからこの合戦を見越して、逐電の前に予め仕込んでおいたのかもしれぬ。
(……やはり一筋縄ではいかぬ男じゃ)
遂高の疑念を余所に、将門は跪く玄明郎党らに声を掛ける。
「玄茂よ、皆よ。まことに大義であったな。この合戦の戦功は皆の働きによるものである。心から礼を申そう」
将門の言葉に、玄明一門らは涙を拭いながら再び深く首を垂れた。
国衙の一室にて。
常陸国府長官藤原維幾は、この時たまたま国府を訪れていた中央からの詔使藤原定遠と共にぶるぶる震えながら将門の前に膝を折っていた。
「将門殿よ、この度の合戦は予の意に非ず。不幸な行き違いがあったのじゃ。予は初めから貴殿と争うつもりなどなかったのじゃ! 貴殿らの主張、まことに尤もな事。常陸国府の名において全て認めて進ぜよう。だから後生じゃ、どうかこの度の諍いは水に流してはくれぬであろうか?」
縋りつかんばかりの維幾の懇願を前に、(おいおい、「合戦すべし」と仕掛けてきたのは何処のどいつじゃ?)と呆れたように興世王が小声で零した。
そんな長官達の目も当てられぬ様子を、将門は思案気に腕を組んで見下ろしている。それを不吉と感じた定遠も必死の形相で額付いた。
「麻呂も長官殿の意見に賛同いたしまする。この度の貴殿の決起は叛乱には当たらず、至極真っ当な動機によるものにおじゃる。中央にもそのようにお伝え申そう。だからどうか、命ばかりは助けてくりゃれ!」
「――信用できぬ!」
無言を通す将門の代わりとばかり背後から上げられた声に「ひいっ!」と定遠は縮こまり、維幾に至っては文字通り将門の膝に縋りつこうと号泣しながらにじり寄る始末。
そこへ、
「……その通り。そ奴らの語る言葉は人語に非ず。到底信用できぬ」
間を分かつように二人の目の前へドサドサっと真っ白な反物を一抱え投げ落とした玄明が蔑みを込めて吐き捨てた。
「これは?」
流石に驚きを隠せぬ声で将門が反物の一つを手に取った。坂東ではまず手にすることは出来ぬであろう見事な純白の絹布の反物である。この一疋だけでどれだけの良田を購うことが出来るであろうか。
「常陸国府の官僚共が都への官納の上前をせっせと撥ねて貯め込んだもの――言うなれば常陸の民らの流した涙と血で染まった反物じゃ。真っ白に見えるがな」
玄明のこれ以上ない侮蔑の眼差しの先で、蝦蟇の如き脂汗を落として官僚二人は口籠る。
「国府の営内には、民らを犠牲にして得たような代物を山にして仕舞い込んだ私倉が幾十もありまするぞ。この詔使へも車を連ねて坂東土産に持たせる腹積もりであったろうよ――国介よ!」
玄明の表情が憤怒のものに豹変する。
「よく聞けよ。領民が飢えに苦しみ野盗に怯え、その為に田畑を手放し、非情にも父子妻娘が分かたれぬ地獄の辛酸を呑んでおる時世というのを、おぬしら国府これが如くに私の腹をばかり太らせ猶顧みぬか!」
怒声と共に反物を投げつけられた二人は悲鳴を上げて再び震え上がった。
じろりと玄明の視線を受けた詔使が「ひ!」と引き攣った声を上げて仰け反った。
「貴様は中央の犬ころじゃ。いくらこの場凌ぎを弄したところで生かして帰さば我らが決起を御上への謀叛として上申することじゃろうて。そうはいかぬぞ!」
「決してそのようなことは致しませぬ。誓って約束いたしまする。どうか助けてくだされ!」
詔使も声を張り上げ涙ながらに訴えた。
(この度の募兵にて、常陸からの志願兵が多い理由はそこにあったか……)
成程、と将門は心中で頷いた。
遂高もまた、何故玄明が出奔の最中に不動倉を襲うような事をしたのか、疑念の一つが晴れたように思った。
やがて、事の決裁を求めるように皆の視線が将門に集まり出す。
暫し瞑目の後、将門は腕を解き額づく維幾を見つめ口を開いた。
「……両君よ。御命まで頂戴するつもりはござらぬ。しかし印鎰は我らに渡してもらおう」
維幾と定遠は驚きに色を失い顔を上げた。
「そんなっ⁉ あまりに無体なことではないか!」
維幾が悲鳴じみた悲痛な声を上げた。
そもそも国府印鎰とは、国府が発する公文書に捺印する印章であると同時に米穀物は勿論貢物や貴重な物品を管理する正倉の鍵としても機能する。いうなれば中央より国主に託された領地領民の一切を統べる権威の象徴であった。これを敵に預け渡すという事は過去将来の全ての官位を失うことに等しい。いずれ中央からも公職を追放されることになろう。まさに残るのは己の命一つばかりである。この一大事を只傍観するばかりであった定遠もまた無沙汰では済むまい。
「よく聞こえたか。そも、お前達が私してきた米も貢物も常陸の民らの為にあるものじゃ。もうお前達の好きにはさせぬ。命が残っただけ、せいぜい将門殿の恩情に感謝することじゃ!」
鼻を鳴らす玄明の足元で、命の次のものを絶たれたに等しい維幾が定遠と共に声を上げて泣き崩れた。
「……これで、一段落ですかな?」
ほっと息を吐いた遂高が誰にともなく呟いた。
そして、未だ義憤の紅潮が引かぬ玄明の横顔を改めて見直した。
元はと言えば、この男が下総に転がり込んで以来続いていた常陸国府との諍いである。
思えば、なんとも長い諍いであった。
「とはいえ、我らが御上に弓引いたことに変わりはないがな」
と、肩を竦めながら興世王がそれに答える。
結局、この諍いは最悪の形でその結末を迎えることとなったのであるから。
「見事な御裁量でございました。将門殿、某は改めて感服いたしましたぞ」
おいおいと二人抱き合って号泣する維幾らに背を向けて座した玄明が、居住まいを正して一礼する。
「彼の国介は一国を治めるに能わざる御仁であった。……図らずも、この度の決起が隣国の民の為になったというのならば、俺も逆賊を被った甲斐があったというものか」
ふ、と将門が小さな笑みを浮かべてみせる。
今一時ばかり悪代官から印鎰を取り上げたところで、程なく代わりの似たような腹積もりの役人が遣わされるであろうし、その前に自分は首を討たれていることであろう。或いは、郎党皆に累が及ぶかもしれぬ。
(我が首が繋がっているうちに、せめて美那緒や弟達、家来達を陸奥にでも逃がしてやれれば良いが……)
思い悩む将門の胸中を余所に、うんうんと玄明は頷く。
「然り、将門様は我ら常陸の民に希望を与えて下すったのじゃ。その上、あの憎き人非人共の命まで見逃すとは、まことに慈悲深い。やはり、某が主君と仰ぐに他ならぬ御方。……しかしのう、我が主殿?」
不意に、玄明の唇端が、すうっ、と釣り上がった。
「――果たして、民はそれだけの仕置きで納得するであろうか?」
「……何?」
顔を上げて問い質そうとする将門の元へ、「申し上げますっ!」と火急を告げる配下の兵が勢い込んで駆け込んで来たのである。
「国府市街に我が兵らが乱入、家々で火付け、狼藉を働いておりまするっ!」
「何だとっ⁉ まさか、我が配下が……っ⁉」
顔色を変えて立ち上がった将門達の脳裏に真っ先に浮かんだのは、かつて筑波山麓を火の海に変えた伯父国香襲撃の夜であった。
あの惨劇以来、将門は自身の郎党達に戦火に乗じた掠奪は厳に戒めたはずである。
「否、狼藉を働いている兵の大半は……常陸の兵であります!」
その報告を耳にしながら物見に登った将門達が目の当たりにしたのは、彼らが今までに見た悪夢を遥かに超える凄まじい地獄絵図であった。
――三百余の宅の烟は滅びて一旦の煙と作る。屏風の西施は急に形を裸にするの媿を取り、府中の道俗は、酷く害せらるるの危ぶみに当る。
国府府下の住居三百余りは、主に国府の役人か将兵らの住まいであり、その殆どは将門勢を相手に討死したか、或いは国府に囚われていた。護る主のいない邸宅に、怒りに眼を血走らせた兵達が続々と押し入り、次々に火を放った。
市街はたちまち火の海となった。
屋敷の奥で怯え震えながら屏風の影に隠れていた高官の娘は忽ちに引きずり出され、高価な着物を剥ぎ取られた上、裸身で縛められ街路に晒し物とされた。炎に追われ逃げ惑う市井の者達は悉く捕らえられ、酸鼻極まる殺戮の餌食となった。
――金銀を彫れる鞍、瑠璃を塵ばめたる匣、幾千幾万ぞ。若干の家の貯へ、若干の珍財、誰か採り誰か領せむ。
ここに暮らす者達は国府と強い繋がりのある者、いわば支配階級に属する者達である。自分達の血と汗の上でぬくぬくと暮らしていた者であれば、たとえそれが無垢な相手とて許すことのできぬ憎しみの対象となった。
「……こりゃあ、この世の地獄だぜ」
流石の僦馬の盗賊たちも、目の前で繰り広げられる嘗てない阿鼻叫喚の光景に思わず立ち尽くした。
戦の気配に火事場の掠め取りを目論んでいた彼らは、常陸の募兵に紛れ込み府内に潜入していたのだが、焦土作戦に便乗し分捕りを働いていた今までの兵士達とは明らかに目の色が違う、ただただ憎しみに駆られるがままの破壊と掠奪、そして情け容赦ない暴虐に、フジマルは堪らず抱えていた戦利品を放り出すと、「けっ!」と唾を吐いて踵を返した。
「やめた、やめた! こんなけったくそ悪ィ連中なンかに混じって仕事なんぞできるかい!」
悪態吐きながらその場を去る大男の背中を見送り、何を目撃したか蹲って嘔吐する娘盗賊の背中をさすってやりながら、シロは何処かで同じ光景を目の当たりにしているであろう頭目の心中を思った。
「お頭……」
――定額の僧尼は頓命を夫兵に請ふ。僅かに遺れる士女は酷き媿を生前に見る。
尼僧でさえも兵達の毒牙の餌食となり、焼かれゆく仏閣の中では泣き叫ぶ悲鳴を背後に年配の高僧が兵の前で伏し拝みながら命乞いをする始末であった。
逃げ遅れた国府将兵の妻女たちは捕らえられ、死よりも辛い辱めを受けることとなった。
この光景に、流石の美那緒も思わず顔を伏せた。
「――とくと御覧じろ! これが幾星霜に亘り東夷と虐げられし者達の怒りの
呆然と立ち尽くす将門達の前で燃え行く府下を背に、まるでそれを誇示するかのように両手を広げた玄明が呵々と哄笑を上げる。
「この赤き炎は、まだ走り火に過ぎぬ。今に坂東八国が激しき朱に染まろうぞ! 既に西国、奥羽では火の手が立ち上っておる。将門殿よ、とくと御覧じろ! 遂に坂東にも、この常陸を先駆けとして朱の炎が上がったのじゃ!
この東人らの怒りの発起、今に天と地を逆さにしようぞ!」
その有様を、国衙の一角より俯瞰していた維幾が、はらはらと落涙しながら崩れるように膝を落とした。
「ああ、……常陸が。……我が、国が――」
――悲しむべし、国吏は二の膝を泥の上に跪く。
その様子は、まるでほんの一刻の内に幾十歳も齢を経たようであった。
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