第3章 動乱の勃り 常陸国府の攻防 2



 双方の陣から立て続けに嚆矢が飛び交うとともに、国府陣地から地を轟かさんばかりの鬨声をあげながら最前列の盾隊、弓隊が一斉に武具を鳴らし合戦の構えを見せる。


「皆よ、我らは既に放たれた嚆矢じゃ。此処を退くこと能わぬ一大決戦と心得よっ!」

 応おおおおおおお! と将門勢一千の将兵が木立を震わす迫力を以て大将の檄に応じた。

(止んぬるかな、此処に我らは朝敵と決まった。最早賽は投げられたのじゃ! これより只斬り進むのみ!)

 ぎり、と金棒を携える右手に力を込めながらもう片手の手綱を握り直し、我こそいの一番と興世王が馬を乗り出す。それに遅れてはならじと経明、好立、美那緒がこれに続いて陣を飛び出そうとしたところを、将門の右手が遮った。

「っ⁉」

「将門殿⁉」

 勢いづいていた馬の前足が嘶きと共に空を切り、寸でのところで振り落とされそうになった興世王が非難の混じった驚きの声を上げる。

「盾隊前へ、騎馬隊は次列にて控えよ!」

 この期に及んでも至極冷静な将門の指示に「ほう!」と玄明が心得顔で感心したように頷いた。

「敵は多勢で守りについておる。無暗に打って出るな!」



(逆賊共め、灌木の影から微動だにせぬか)

 正面を盾で固め、その場から退く様子を見せぬ将門陣の様子を睨むように伺いながら国府陣指揮官の為憲が馬上で思案を巡らせる。

 将門に弓引かせ朝敵とする彼らの目論見は既に達成された。後は数町離れたところでとぐろを巻く用済みの敵勢をさっさと追い散らしてしまうだけである。

 しかし鳥か野良犬でも追い払わんばかりに打ち鳴らされる国府兵の銅鑼や鉦の喧騒にも一向に動揺を示さぬ相手の様子に隣の副将が舌打ちを漏らした。

「御大将、こちらから仕掛けましょう!」

 参謀の意見に為憲は腕を組む。

(……啄木鳥きつつきの待ちを決め込むつもりか。しかし、こちらの方が圧倒的多勢、無意味な戦法じゃ。だが、相手はあの将門。何か企みがあるのかもしれぬが……)

 やがて顔を上げた為憲は副将に頷くと、指揮杖を振って声を上げた。

「前列盾隊弓の射程まで早駆け、弓隊は後に続け。――前へ!」

 指揮官の号令の下、最前線の国府将兵達が将門陣を目指し足音を揃えて前進を開始した。

 将門勢を矢の射程まで捉えるには、少なくとも一町(約百メートル)以内の距離まで前線を詰める必要がある。



「主様っ⁉」

 俄かに駆け足で距離を詰め始めた敵の前線の動きに目を剥いた美那緒が思わず傍らの主を振り返るが、将門は真っ直ぐ前を見つめたまま動こうともしない。

 ふと周りを見ると、皆がその無心の表情を固唾を飲んで見つめていたが、誰一人としてその視線の先に一抹たりとも疑念を抱く様子の者は見当たらなかった。

 美那緒もまた、己が総大将の横顔を見つめているうちに、次第に心持の静まりを取り戻していった。

 ……信じよう。我らはただ主の命令を待つのみじゃ。



「前列配置宜しい!」

 配下の報告を受けた為憲は屹と敵陣を改めて睨み据える。

(すでに我らの目的は果たされておる。その上、仮に真正面から鬩ぎ合うたところで不覚を取るような兵力差でもないが、既に勝負の決まった戦で無駄に兵を損ないとうはない。往生際の悪い負け犬は、矢を射かけて追い払ってしまうまでじゃ)

「前列弓隊、一斉掃射の用意。後は盾隊共に敵陣へ距離を詰めながら只射続けよ」

「宜候! ――弓隊構え!」

 ずらりと居並ぶ盾隊を前に立て、千を超える弓手が一帯の空気を震わせながら一斉に弦を引き絞る。


「放てェっ!」



 タァンっ! と音を立てて将門陣最前列の盾に幾本もの弓が突き刺さった。

 有効射程にはまだ遠いとはいえ、際どい所まで無数の矢が及んだ将門将兵も流石にどよめきが広がる。

「どうなさる、このまま退くか、いっそ斬り込みまするか⁉」

 陣に走る動揺に遂高が指示を仰ぐ。

 興世王も歯軋りしながら何か言いたげに手元の金棒を握り締める。

 それでも猶、将門は前を見据えたまま振り返ることなくそれに応える。

「……この場を退いたところで後に待つものは同じ。我らは既に退路を断たれておるのじゃ」

 その言葉に興世王はぐっと言いかけた言葉を飲み込んだ。

 よしんば此処で撤退したとしても、いずれ国府に弓引いた逆賊として間を置かず中央より討伐令が下されることになるであろう。先に述べた通り、合戦の嚆矢が放たれた時点で既に勝敗の決まった戦なのである。

「このまま敵の矢が届く寸前の距離を維持し、寄せるに合わせ後退する。無駄矢は撃つな。最小限の牽制に留めよ!」

 大将の命令に、嬉しそうな笑い声を上げたのは経明であった。

「ありがたい、やっと弓の許しを頂けたわ!」

 そう言いながら待ちに待ったとばかりに矢を番えると渾身の力を込めて弦を引き、放たれた矢は敵前線より更に後方の将と思しき馬上の武者の頭を見事に射貫いた。

「やい見たか下手糞共! もう矢の届かぬ間合いではないわ!」

 経明の囃子声に、一瞬ながら将門陣地からドッと歓声が上がった。



「者共奴、流矢一本で何を臆しておるか! 相手は東夷あずまえびすの小勢ぞ、貴様等の千万の矢雨で煩い山猿共を追い散らしてしまえ!」

 神業ともいえる遠距離からの狙撃を受け、馬から崩れ落ちる自軍の騎馬の姿に顔色を変える将兵らを叱咤する副将を横目に見ながら、為憲は再び腕組みして考え込んだ。

(どうも将門の魂胆が読めぬ。退くならとっとと陣を引き払えば良いものを。なぜあの灌木の辺りから未練がましく離れようとせぬのか。何かあの周囲に拘るものでもあるのか。いや、それとも――)

 この状況において、為憲もまた将門の手腕を侮っていたわけではない。自らの膝元で幾度も繰り広げられた平氏一門の私闘において、いかに将門が際どい戦局を潜り抜けて来たかは聞き及んでいる。特に坂東兵の騎馬の強力さは侮りがたいものと肝に銘じこの合戦に挑んでいる。いかに自軍が有利とはいえ将門配下の歴戦を経た騎馬隊の近接攻撃は国府の大軍を以てしても十分な脅威と認識していた。

 そのために盾隊を前面に巡らせた上で、弓隊による中遠距離からの牽制攻撃を繰り出したのである。何も将門勢を此処で撃破する必要はない。さっさと国府周辺から追い返せば良いだけの合戦なのであるから。それは相手も察していることであろう。

 だからこそ、将門の腹が読めぬ。たとえ尻尾を巻いてこの場から退いたところで敵は深追いしてくることはなかろうし後ろから背中を射られるようなこともあるまい。

 なのに何故ぐずぐずと留まるのか。自暴自棄に突撃を掛けてくるつもりならとっくに斬り込んできているはず。

 相手の読めぬ魂胆に為憲の用兵は必要以上に慎重なものとなっていた。


 ……そして、その過剰に慎重な態度が仇となった。


「よし、良いぞ。東夷の猿共、じわじわと退いておる。このまま下総まで追い落としてしまえ!」

 副将が愉快そうに笑いながら総大将の方を向く。

「御大将、そろそろ前線の間合いが開きつつあります故、第二陣の出撃の要あるかと存じまするが、どうなさる?」

「――っ‼」

 その意見を聞いた為憲が、初めて敵の狙いに気づき息を飲んだ。

「しまった、誘われたかっ!」


 或いは第二陣出撃の判断がもう少し早ければ、広がり過ぎた前線の間隙を埋め、今しばらく陣形を維持することが出来たであろう。

 しかし敵陣の動向を警戒し、探りに時間を費やし過ぎた。そして為憲が過剰な懸念に囚われ敵陣に気を取られている間に、国府軍前線の横列隊形に櫛の隙間のような綻びが生まれていたのである。自軍の前進に合わせ徐々に後退を続ける敵を追い詰めていたつもりの前線の将兵も、押しては退く敵影を追ううちに、いつしか傍らの連携を失念してしまっていた。


 無論、この機を待ち受けていた将門がここで動かぬはずはない。


「……随分気を揉ませたな、興世王殿よ」

 牙を剥き出しにするような形相で金棒を摩っていた盟友を振り返り、ここで初めて将門が微笑を浮かべた。

 配下皆、いよいよとばかりに改めて表情を引き締める。


「諸共よ、受けた弓矢の倍返しじゃ。これより我らの攻撃に移る! ――騎馬隊、俺の後に続けっ!」




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