第2章 哀哭 3



 翌日未明に石田を発った貞盛と維扶一行は、まもなく陸奥境界付近へと近づきつつあった。

「意外と栄えておりましたな」

 数刻前に通過した集落を振り返りながら貞盛が口を開く。

「言うなればこの辺りは異国との玄関口じゃからのう。物資や人の行き交いもあるし、遠征の際は将兵らも此処で糧食や武具の補充、それに馬も調達していく。矢羽根に用いる鷹の羽は俘囚地の物が高値で売買されておるし、特に馬の取引は盛んじゃ。陸奥産の馬は京でも大いに評判は聞こえておるしのう」

 ふむふむ、と頷く貞盛に維扶が笑いかける。

「しかし、此処から先は境界まで延々と山道じゃ。途中ではぐれぬよう気をつけられよ。……おお、そういえば、」

 思い出したように維扶が付け加える。

「道中の磐梯山の麓には良き出湯があったのう。少し寄り道をして汗を流していくのも悪くはあるまい」

「温泉か、それは良い!」

 思わず貞任の声も弾む。

 行く先の山々を見上げれば燃えるような紅葉風景である。

 傍らの野道に目を遣れば、馬酔木や漆の葉も赤く色付いている。

 この秋めいた景色を眺めながら湯に浸かり、コクのある山菜料理に舌鼓を打つというのはなかなかに乙なものであろう。

 父の訃報にて故郷に呼び戻されて以来、久しく味わうことのなかった安寧とした心持であった。

 思えばこの数年というもの、只々一族の諍いに振り回され、都の風況に振り回されてばかりの日々を過ごしたものである。

 漸く、それらの慌ただしき日々の鬱屈を忘れることが出来ると思うと、貞盛の胸に今更になって生々とした気持ちが沸き上がってくる。

(全く、俺はつくづく争い事には向かぬ性分のようじゃ)

 改めて、身内争いに辟易としていた自身の心境を垣間見て、貞盛は内心で苦笑を漏らす。

(だが、もうじき国境を越えれば暫くは安泰でいられるわけじゃ。いやはや、図らずも随分永く重い荷を背負い続けることになったものよ)

 深い溜息を安堵の心地で貞盛が吐き出すのと、先を行く維扶らが不意に馬を止めるのはほぼ同時であった。

 一行の先に、道を阻むかのように厳めしく鎧を着込んだ一群が馬を並べていたのである。

「貴公らは何者か!」

 警戒して声を上げる維扶の前に一騎の騎馬が進み出る。全体に統制の取れた様子から野党の類とは思えぬが、この山奥深い街道で出くわすにしては異様な一行である。

「恐れながら、陸奥守平維扶様御一行とお見受けいたしまする。某らは貴殿の国守御就任の言祝にとお見送りに参上した一行にござる」

 そう慇懃に首を垂れるにしては下馬の礼も示さぬ相手を訝しみながら維扶が答える。

「それはわざわざ大義である。……して、貴殿はどなたか? 失礼ながら、某には貴殿との面識の覚えがないが?」

 維扶の誰何に、静かな憎悪を双眸に宿らせながら馬上の男が顔を上げた。

「それは至極御尤もな事。……されど、常陸の藤原玄明と名乗りを申せば、きっと胸にお心当たりがござろう。――貞盛殿よ?」

 思わず振り返った維扶の視線の先で、貞盛はみるみる蒼白となり身を震わせた。

 その後方から、追い迫るような勢いで大挙する蹄の音が維扶一行の耳に聞こえてきた。



「貞盛の身柄は常陸国府との交渉に必要じゃ。必ず生かして捕らえよ!」

 馬を走らせながら改めて命じる将門の命令に、配下の将兵らが鉾を扱きながら応じる。既に玄明らに足止めを受けた維扶一行の姿が数町先に認められる距離であった。



「命までは取らぬ。貞盛殿、我らと共に来て頂くぞ!」

 内心の激しい蟠りを押し殺しながら刃を向ける玄明らを前に思わずたじろぐ維扶らの中から、ばっと一人の従卒が身を挺して飛び出した。

「御館様、お逃げくだされ!」

「あ、こら!」

 その隙を突いて馬から飛び降りた貞盛が脱兎の如く藪の中へ身を躍らせた。

「しまった! お前達、追え、絶対に逃がすな!」

「待て、玄明とやら。一体何の真似じゃ⁉」

 血相を変え部下へ指図する玄明に食って掛かる維扶の首元へ太刀を翻す。今までの慇懃な様子が嘘のような剣幕で玄明が凄みを利かせて怒鳴りつける。

「邪魔立てすれば国守とて容赦はせぬぞ!」

 喉元に太刀を付きつけられ息を飲む維扶の周囲で随行の従者達が気色ばんで身構える。

 そこへ砂煙を上げながら将門勢が駆け付けた。

「玄明よ、貞盛は抑えたか?」

「すみませぬ、逃げられ申した。まだ遠くへは行っておりませぬ!」

 そう言って玄明が指さす方向へ、すぐさま経明、美那緒が馬を駆って飛び込んでいく。

「将門だと⁉ 下総の者共がこのようなところに一体何の用じゃ!」

 太刀の切っ先を振り払い掴み掛らんばかりの勢いで迫る維扶を邪険に突き放した将門が二人に続いて手綱を引く。

「玄明、この場は任せたぞ!」




 ――貞盛は天の力有りて風の如くに徹り雲の如くに隠る。


(……上手く逃れたか。もう追っても見つからぬな)

 空を見上げ耳を研ぎ澄まし気配を追っていた美那緒が、諦めたように馬を止めた。

 見渡せば、まるで朱の森の中に飛び込んだような四面真っ赤な紅葉の海であった。足元には紅黄色の落ち葉の絨毯の間に清水が流れている。

 音が消えたような深山の静けさであった。

 首を下ろし沢水に口をつける馬の鬣を撫でてやりながら今一度周囲に目を凝らす。

 不意にがさがさと落ち葉を踏みしだく音が聞こえたかと思うと、馬に乗った将門が姿を現した。

「……美那緒か!」

 少し驚いたように将門は声を上げた。

 思わず顔を伏せた美那緒が、俯きながら首を振る。

「もう近くには居らぬようでございまする……」

「……そうか」

 頷いた将門が、暫し無言の後、小さく呟いた。

「――切り札を失ったな」

 さして残念な様子でもなく背を向ける将門の後ろを、美那緒が追い縋る。

「……美那緒?」

 手綱を取る将門の武骨な掌を、美那緒の小さな掌が後ろから握り締めた。

「……妾も、もう決して離しませぬ」

 振り返る将門の双眸を、美那緒が真っ直ぐ見つめ返す。


「――いつまでも、こうして貴方の肩越しから、その行く末を見つめていとうございまする」



 ……その様子を、少し離れた木立の影から暫し眺めていた経明であったが、やがてやれやれと肩を竦めてそっと馬の踵を返し音を忍ばせて去っていった。



「陸奥守様、如何いたしましょう?」

 慌ただしく周囲に集う将門兵らに囲まれた維扶の従者が怯えた様子で主に問う。

 維扶は諦めたように肩を落とした。

「……こうなっては致し方なし。我らだけで陸奥に入ろう。貞盛殿、先に行って待っておるぞ!」


 ――太守は思ひ煩ひて、棄てて任国に入りぬ。



 その後、貞盛の所在はようとして知れなくなった。

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