第2章 哀哭 2



「お頭……?」

 首筋にかかる濡れた吐息と、背中に圧し掛かる柔らかい温もりから零れる薄い香の薫りにシロが戸惑いの声を上げる。

「今宵限りで良いのじゃ。……俺は未だ、男を知らぬ」

 懇願する美那緒の声が切なげに掠れ、引き締まったシロの胸を小さな掌が這う。

「……お願いじゃ。お前の手で、俺を女にしておくれ」

 シロの首筋に、美那緒の涙が伝う。

「……お頭」

 ふ、とシロが息を漏らす。


「――そりゃあ、頼む相手を間違ってますぜ?」


 縋りつくように自分を求める美那緒の眼差しを背中に感じながら、よいしょ、とシロが立ち上がる。やんわりと振り解かれた美那緒の両腕が、所在なさげに膝の上に落ちる。

「あんたとは長い付き合いだ。大体の事は察しが付くが、殿様絡みで悩んでンなら、俺から言わせりゃ、それは半分あんたの独りよがりだぜ?」

 トントン、と結び直した草鞋の踵を叩くシロの後ろ姿を見つめたまま、すん、と美那緒が鼻を鳴らす。

「頭の堅ェあんたのことだから、本物の御前様のことが喉に刺さった小骨みてえにモヤモヤしてンだろうが、殿様が今見てンのは今のあんただろう? 馬鹿みてえなことで悩んで泣きべそ掻いてンのはあんた一人だぜ? そんな詰まんねェこと考えてねえでとっとと好きなようにくっついちまえばいいじゃねえか」

 バリバリと頭を掻きながらシロは背中を向けたまま去り際に美那緒へ語りかける。

「……今の事は忘れといてやるさ。ちったあ頭冷やしなよ」



 シロが立ち去り、再び部屋に一人となった美那緒の胸中に、ふと先刻の将門の言葉が過った。


 ――俺はあの時、そなたをこの腕に取り戻した時に誓ったのじゃ。二度とこの手を離さぬと


(……ああ、そうか)

 美那緒の頬から再び涙が零れ落ちた。

(今度は、俺の方から手を離してしまったのか……)




「……あーあ」

 村外れの橋のたもとに凭れたシロが深い溜息を漏らす。

 今更になって蘇るのは、つい先程の美那緒が耳元で漏らした熱い吐息と、背中に押し当てられた柔らかい胸の感触。


 ――今宵限りで良いのじゃ。……俺は未だ、男を知らぬ


(よくよく考えてみたら、勿体ねエことしちまったなあ……)

 まだ物心つくかつかぬかの時分、親に捨てられ路頭に迷い、羅生門の屋根裏で仲間達と共に雨露を凌いでいた頃からの付き合い故、頭目に対して女性を意識したことなど一度もなかったが、今になって据え膳を食い損ねたことを非常に悔いているのであった。

(もうこんな機会、二度と巡って来ねエだろうもンなあ)

 再び深い溜息を吐きながら、足元の小石を蹴り落とす。

 チャポン、と川面に映った自分の影に波紋が広がっていく。

(ああ畜生、おいらだって恋も女もまだ知らねえってのによ!)

 そこでようやく自分の手落ちに思い至り、「あ!」と声を上げる。

(いけねえ! 用事の事すっかり忘れてたぜ。ああ、でも今からまた戻るのかよ……)

 思わずその場に頭を抱えてしゃがみ込む。

 あんなことのすぐ後で再び美那緒の元に取って返し、貞盛の動向を真面目な顔して報告するのはあまりに間抜けである。

 おまけに柄にもない講釈垂れて背中を見せて帰ってきたものだから猶の事頭が痛い。

 三度目の溜息を吐いてシロが重そうに腰を上げかけたその時、


「――っ⁉」


 突如猛烈な殺気を浴びたシロが咄嗟にその場から飛び退ると、たった今まで彼のいた足跡にタタタンッ! と投剣が突き刺さった。

「誰だ、てめえ!」

 地べたに身を伏せたまま誰何するシロの視線の先――橋の欄干に立つ、闇と見紛う黒装束の人影が見えた。


「――おまえか。我らの御館みたち様をこそこそ嗅ぎ回る犬ころは?」


 覆面の下から殺気に満ちた女の声が聞こえ、すっ、と両手に幾本もの投剣をこちらに構える。シロは血相を変えた。

「……女難の日かよっ⁈」

 投剣が繰り出されるよりも素早く身を起こし駆け出すシロを黒衣の女が追う。

「逃がさぬぞ」

 背後から迫る禍々しい気配と共に、次々と投擲される投剣がヒュンヒュンと耳元で風を切る。

「痛ってえっ‼」

 左肩に灼熱の痛みが襲ったが、それでも構わずにシロは走り続ける。

 向かう先は――

(――石井営所⁉)

 不意に黒衣の女が追撃を止めて立ち止まり、背中から殺気が遠ざかる。身体に走る激痛を堪えながら、シロは脇目も振らずに門の閉ざされた営所の塀を跳び越え、営内に駆け込んだ。



 居室の前で荒い息を吐く気配に飛び起きた遂高が部屋を出ると、前庭に肩から血を流して苦し気に喘ぐシロが蹲っていた。

「シロか! 一体どうしたのじゃその有様は⁉」

「……夜分に済まねえ。前に言ってた妙な奴が襲い掛かってきやがった。それより旦那、貞盛の動向に進展がありやした」

「そんなことは後で良い。先ずは手当てが先じゃ!」



 駆け付けた美那緒が遂高の部屋に入ると、丁度胡坐をかいたシロが秋保の手当てを受けているところであった。

「シロ、無事か⁈」

 顔色を変えて駆け寄る美那緒に、へっ、とシロが笑ってみせる。

「浅ェ傷さ。こちとら商売柄これくらいのもん喰い慣れてんのはお頭も知ってるだろ?」

「済まぬ。おまえ一人に危ない橋を渡らせてしもうたのう」

 涙を浮かべてシロの手を握り締める頭目の掌の感触に、(ああ、やっぱりさっきのは勿体なかった!)と埒もない思いに暫し浸る。

「手裏剣使いか。……只の相手ではないようじゃ」

 シロの肩に刺さっていた投剣を手に遂高が思案顔を浮かべる。


「一体何の騒ぎじゃ!」

 そこへ、騒動を聞きつけた将門が現れ、シロの姿を見つけて目を瞠る。

 美那緒は思わず顔を伏せる。

「おまえは、……たしか子春丸の下で働いていた人足か。その傷は一体どうしたのじゃ?」

「某が隠密として雇っていたのでございまする。どうやら今夜はへまをやらかしたようにござる」

 咄嗟に遂高が言い繕う。

「殿様が御出座しになられるとは丁度良いや。……急ぎ御君に伝えたきことがございまする」

 傷の痛みを堪えながらシロは畏まって片膝をつく。


「――貞盛が陸奥へ逃亡を企てておりまする。恐らく明日にも石田を発ちますぞ!」



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