第2章 哀哭 1
夕餉を終えた後、不意に美那緒の部屋を訪れた将門から散歩に誘われ、二人が営所の門を出ると、既に空の茜色が西から菫色に変わり始め、秋虫の音が川辺の薄の茂みにさざめき始める頃であった。
「知らぬ間にすっかり日の落ちるのが早くなったのう」
「主様はずっと部屋に籠り切りでおられましたもの。もうあんなに筑波山が鮮やかに色めいておりまする」
美那緒に言われてあちらの方を見やると、夜の気配を静かに纏いながらも尚目に眩しい椛色の山脈が望めた。
久しく外をゆっくり見ぬうちに里山の景色は見違えるほど色模様を変えていた。
「ついこの前までは中庭に蛍も迷い込んでおりましたのに。季節の移ろいは早うございます」
「こうして二人で漫ろ歩くのも随分久しいことじゃ」
川沿いの道をゆったりと歩む二人の影が長く伸びた先で、紫色の残光に浮かんだ薄の穂が真っ白に揺れている。
将門が自分に声を掛けてくれたことが、美那緒は素直に嬉しかった。
しかし、目の前を歩く将門の広い背中を見つめると、何故かいつまでもその後ろに追いつけぬような胸の虚ろを感じ、美那緒はただ地面に二つ並んだ影ばかりを見下ろしていた。
ふと将門が歩みを止める。
釣られてそちらを見ると、川縁に群生する彼岸花の中に交って桔梗の花が咲いていた。
「珍しいのう。彼岸花は他の花を寄せつけぬのだが」
暫し夕暮れの空の色を映した花を並んで見つめていた。
「……そういえば、二人で上総を逃げ出した夜の事を覚えておるか?」
やがて将門が口を開く。
「そなたと息を潜め葦原の茂みに身を隠していた傍にも、沢山の桔梗が咲いておった」
「よく覚えております。兄達の兵士が大勢追いかけてきましたっけ」
まるで芝居の台詞を口にするような思いで美那緒が返す。あの時、自分は対岸からその様子を眺めていただけであった。しかし、それが自分と将門の初めての出会いでもあった。
ふと垣間見ただけの、この男の傍らにいた見知らぬ他人を、その時は未だ彼にとっても見知らぬ他人であった自分が演じている。今、自分は他人を演じているのか。それとも他人が他人を演じているのか。
「……桔梗の花は嫌いでございます。哀しき事を思いまする故」
ふと、あらぬ言葉が自分の口を突いて出る。
将門が振り返る。その表情は菫色の影となって見えぬが、彼が自分と同じ顔を浮かべているのだと美那緒には判った。
「……俺はあの時、そなたをこの腕に取り戻した時に誓ったのじゃ。二度とこの手を離さぬと。あの歌物語の男のような愚かは決して致さぬと」
「伊勢物語でございますね」
それも自分の演じる女の持ち物の中に見つけたものである。まるで亡き人の面影を二人してなぞりあうような哀しい可笑しさに美那緒は笑みを浮かべる。
「俺は今でも自分が許せぬ。そなたの手を離してしまったあの夜から、俺は鬼に堕ちた。鬼に身を堕とし戦に挑み刀を振るった。それが自分の受けた罪業じゃと思うた。この身が血に染まり戦の果てに尽きるとも再び人の道には戻れぬものと思うた。……だがそなたは再び俺の元に戻り再び俺の手を握り締めてくれた。だから、俺は再び将門に戻ることが出来たのじゃ。――のう、美那緒よ」
将門の声に、まるで縋るような想いが滲んだ。
「――もう二度と、この手を離さぬ。もう何処へも行ってくれるな」
そう言うと、将門は美那緒を抱きしめた。
腕の中で身を強張らせる美那緒の小さな身体を、更に強く抱きしめる。
「俺はこれから、再び鬼の道を行こうとしているのかもしれぬ。今に鬼のような相手と戦うことになるかもしれぬ。そのために鬼とならなければならぬかもしれぬ。だが、そなたが傍らに居るかぎり、俺は俺のままでいられるのじゃ。将門として、最後まで修羅を相手に戦うことが出来るのじゃ。美那緒よ。どうか俺の傍から二度と離れてくれるな!」
「主様……」
……嗚呼、この鋼のように力強い腕に抱かれたまま、その広い背中へ手を回して抱きしめ返し、この身の全てを委ねてしまえたらどんなに幸せだろう。
――俺はお前のことなど知らぬ。会うたこともないわ!
「……美那緒?」
身を捩ろうとする様子に腕を解くと、踏鞴を踏むように美那緒は彼から身を引いた。
「美那緒……?」
「……ごめんなさい」
ぽろぽろと涙を零しながら、美那緒は二三歩後ずさった。
「ごめんなさいっ!」
立ち尽くす将門に嗚咽の声を残し背を向けた美那緒は、咽びながら何時の間にか日の落ちた夕闇の中へ駆け去っていった。
泣きながら一人自室に駆け込んだ主の只ならぬ様子を心配した秋保が暫く部屋の前で佇んでいたが、やがてその気配も消えた。
文箱へ手を伸ばし、鼻を啜りながら一冊の本を手に取り、桔梗の押し花が挟まれた頁を開く。
(……ああ、やはり俺は偽物じゃ)
まるで鏡を前に別人を見るような滑稽な思いに、美那緒は涙に濡れた顔に泣き笑いの表情を浮かべる。
もしも、あのまま将門の抱擁を受け、その思いに応えてしまっていたとしたら、きっと今まで重ね続けた偽りと共に自分も将門も粉々に砕けてしまっていただろう。
人を欺くことが、これほど身を裂かれるものなのだと、将門の胸の中で美那緒は初めて知った。――そして、思い知った。
所詮自分は上辺だけ美那緒を飾ってみせただけの脆い贋物に過ぎぬ。どんなに思いを受けたところで、どんなに思いを抱いたところで、美那緒になることなどできぬのだ。
……結局自分は、未だ恋も男も知らぬ、只の名もない小娘に過ぎぬのだ。
「――お頭、居りますかい?」
……どれくらい泣き明かしていただろうか。
「……シロか?」
すん、と鼻を鳴らしながら顔を上げ、戸口の方を見やる。
いつの間にか、夜は更けていた。
「夜分にすまねえが、貞盛に動きがありやしたぜ。――おっと、いけねえ!」
うっかり縁側から土足で上がり込みそうになったシロが、こちらに背を向けて草鞋の紐を解きに掛かる。
その背中を、不意に美那緒は抱きしめた。
「っ! ……お頭?」
はっと息を飲むシロの耳元に唇を寄せ、懇願の匂いを含んだ吐息が耳元で囁かれる。
「――シロ。……俺に、男を教えてくれ」
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