第1章 陰謀 2
ある夜の遂高居室。
「最近元気がないと聞いたぞ?」
酒膳を挟んで向かい合う美那緒を見やり、杯を飲み干した遂高が問いかける。
「お部屋の物を虫干しした日から、お顔の色がすぐれぬご様子なのでございまする……」
空になった父の杯へ酒を注ぎながら、秋保も心配そうに主を見つめる。
娘から、ここのところ美那緒の様子がおかしいと聞いていた遂高は、久しぶりに彼女を酒に誘ったのだが、果たして秋保の言う通り、どうも以前の覇気がない。遂高達の前では僦馬の頭目然とした腰の据わった態度で酒を煽っていた美那緒が、今宵はどうも気も漫ろ気な面持ちで、酒を飲む姿もどこか渋そうであった。
「そなたらが庭で虫干しをしていた日といえば、たしか公雅殿が訪ねて参られた時か」
梅雨入りして珍しく良く晴れた日であったから遂高も記憶に新しい。
美那緒も「……ああ」と思い出したように顔を上げ、
「そうか、あの客人は良兼の倅であったか。どうりで見覚えがあると思った」
「そなた、顔を合わせたのか?」
遂高が目を丸くする。
「門前に居るのを、中庭から少しばかりな。大層驚いた様子であったよ」
「そりゃあ無理もあるまい。良兼方は美那緒様を子飼渡の戦に巻き込まれ死んだものとして既に弔っておるそうじゃ。公雅殿も、真昼に妹君の亡霊を見る心境であったろうて。あの良兼も営所に夜襲を仕掛けてきた時など、櫓に立つそなたを化け物でも見るような顔をして怯えておったぞ」
冗談じみた遂高の言葉に、美那緒は憂いを含んだ笑みを浮かべて杯を口に運ぶ。
「のう、……俺はそんなに将門の奥方に似ておるか?」
美那緒の呟きに、遂高と秋保は顔を見合わせる。
美那緒が将門の妻と直接対面したのは野本の戦の折であった。
葦の茂みから侍女を庇うように懐刀を構え、こちらを睨み据える彼女の顔が自分のそれと重なって見え、思わず驚きの声を上げたものの、直後に将門が妻を守ろうと自分に向かって猛烈な勢いで斬り掛かり、二人が顔を合わせたのはほんの束の間の事であった。
その後、下野国府の戦で再び彼女と近接することになるが、あの時は将門の方ばかり見ていた為、殆ど視野に入っていなかった。
そんな敵として互いに刃を打ち合っていたはずの自分が、ふとした弾みで将門の妻と入れ替わり、彼の元に身を寄せるようになって以来、只々自分の被った美那緒という偽りの衣が綻びぬよう、彼とその周囲の者達の前で自分の見知らぬ女を演じ、これまで過ごしてきた。何故そんな一人芝居を生真面目に続けているのかはいつしか自分でもよく判らなくなりつつあった。ただ、ここは居心地が良かった。それだけの事だと思おうとした。――あの日、ふと手にした紫色の押し花の頁を開くまでは。
そこには、生々しい程の肉を持った見知らぬ女が佇んでいた。
忘れ去られていたはずの、かつての自分の名を持つ花が添えられていた。
初めて偽りを見破られた。そう思った。
結局、自分の正体は美那緒でも、将門の妻でもないのだ。
……当たり前のことであるはずなのに、何故か息が詰まる程に寂しかった。
「……なんとなく、そなたが沈んでおる理由が見えて来たわい」
まじまじと美那緒を見つめていた遂高が口を開く。
「そなた、本気で殿を慕い始めておるな?」
揶揄いの交えぬ真顔の問いかけを、美那緒は鼻で笑った。それが、秋保にはとても哀しいものに聞こえた。
「……或いは、そうかもしれぬな」
――将門、思い出した。俺はお前のことを知っているぞ!
妻の無事を確かめた将門が怒りの込もった眼差しで自分を振り返る。
――俺はお前のことなど知らぬ。会うたこともないわ!
野本の戦にて、初めて将門と刃を交えた時の一場面である。
最近、その光景がふと過ることが多くなった。ともすれば、夢に見る夜さえあった。
他愛もない、過ぎた一幕であるはずなのに、その記憶が胸の中を掠める度に、美那緒は己が身が張り裂けるような切ない哀しみを覚えるのである。
再び身を襲う感情を打ち消すように、手元の杯を一息で飲み干す。
「……それにしても、相変わらずのお人好しじゃ。赤の他人を二人も居候に囲い、その挙句に他国の役人に目を付けられるとは」
話題を逸らそうと強いていつもの調子で振舞おうとする美那緒の言葉に、遂高は腕を組む。
「その事じゃが、興世王殿はともかく、玄明殿はどうしてもよく判らぬ。何故斯様なまでに常陸の恨みを買っておるのか。本人がいくら濡れ衣じゃと言い張っても、そこに必ず何かしらの理由はあるはずじゃ。もしや事の背後に貞盛が関わっているかもしれぬが、まだ確証は持てぬ。もし仮にそうだとすると、玄明殿一人をこちらでどうこうしたからといって解決するような問題ではなくなるであろう。いずれにせよ、殿の仰る通りよく調べて見ぬ事には判らぬ。まったく、厄介な話になったものじゃ」
苛立たし気に酒を煽る遂高に、美那緒が提案する。
「玄明の背後と貞盛の動きについては、俺の仲間に調べさせよう。そういう仕事にめっぽう長けた奴が一人おる。さほど時間は掛かるまい」
「それは助かる。最近は殿もだいぶ参っておるようじゃ。まるで連日のように常陸から脅し文句が舞い込むでな。一刻も早く事の詳細を掴みたい」
確かに、最近は随分遅くまで将門の部屋の明かりが灯ったままなのは美那緒も気づいていた。常陸への返答に頭を悩ませているのであろうが、そればかりではあるまい。
皆、自分達を飲み込もうとする大きな陰謀の影がひたひたと迫る気配を、うっすらと感じつつあったのである。
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