第4章 良兼の死 2



 天慶二(九三九)年水無月、石井営所。


 梅雨の合間の真っ青な快晴に恵まれたこの日、将門一同を驚かせる訪問客があった。

 長く敵対関係にあった良兼の息子、公雅が彼の元を訪ねてきたのである。


「こうして直接そなたと顔を合わせるのは久方ぶりじゃのう」

「俺が都に仕官して以来になるか。随分昔の事のようじゃ」

 広間に通された公雅は、暫しお互いの禍根を忘れたかのように旧知の間柄同士親し気に談笑を交わした。しかし、後ろに控える家臣達は気が気ではない。何しろ、相手は子飼渡の戦に於て先陣切って挑みかかり、我が勢を遁走せしめた手強き仇敵なのだから。

 背後の緊張感を察した公雅は、「さて」と本題を切り出した。

「……実はそなたに伝えたきことがあってな。――つい先日、我が父、良兼が身罷られた」

 束の間、広間に静寂が落ちる。

「……そうであったか。お悔やみ申し上げる。甥として伯父上の弔いに出向けぬのが残念じゃ」

 この年の六月中旬、長く病の床に就いていた平良兼は遂に世を去った。出家して間もなくの事であった。

「遠からず貞盛が一門を取りまとめるために下洛してくることだろう。父が伏せるようになって以来、一門の者らは下総に対し大人しくしておったが、貞盛が戻るとなれば穏やかならぬことになるかもしれぬ。念の為、そなたの耳にも入れておこうと思ってな」

「お気遣い有難く承る。……そうか、貞盛が戻ってくるか」

 信濃で追討の後、都に逃れた貞盛に謀叛を訴えられ、その嫌疑を晴らすのには随分骨を折ったものである。彼が坂東に戻るとして、改めて良好な関係を築けるとは到底考えられぬ。

 腕を組んで考え込む将門へ公雅が語りかける。

「そなたも存じておろうが、先月以来、都からは擾乱抑止や群盗取り締まりの官符が今までになく矢継ぎ早に下されておる。俘囚地でも大きな騒乱が起きていると聞く。何やら世の中に、不吉な気配が満ちているようでならぬ。民達も、今に何か大変な乱が起こるのではないかと恐れ始めておる。某は亡き父に代わり、己の領地と民を守らねばならぬ故、万が一、そなたと一門に諍いが起こったとしても中立の立場を取るつもりじゃが、そなたもくれぐれも情勢に呑まれぬよう慎重になされよ」

 そう語り終えると、公雅は腰を上げた。

「行かれるのか? 積もる話もある。もう少しゆっくりしていかれよ」

「折角じゃが、あまり此処に長居は出来ぬでのう」

 苦笑しながら公雅は将門を見つめる。

「思えば父の代からの因縁であった。桓武平氏一門の行く末を案ずる思いから永き戦となったが、以後は只々坂東の平穏を祈るのみじゃ。……もう、再び此処を訪ねることはあるまい」

 将門の胸中をふと過るのは、幼少の頃の記憶である。

 父と伯父達の仲が目に見えて険悪になったのは良持が陸奥より戻ってすぐの頃ではなかったか。その後都へ上洛し宮仕えに就いた自分の知らぬうちにその諍いが両者の間でどのような形にまで広がっていったかは風聞でしか知らぬ。

「公雅殿。最後に一つだけ聞きたい。そもそも我が父と貴公の父上らとは、何がきっかけで相争うこととなったのじゃ?」

 部屋を退出しようとする背中に問いかける。

 足を止めた公雅は、しばし考え込んだ後に将門を振り返った。

「……そなたの父上は、弱き者に肩入れし過ぎたのじゃ」



 門前に待たせていた従者を伴い営所を出ようとした公雅は、ふと中庭の方へちらりと目を向け、危うく声を上げそうになった。

(……そんな、馬鹿なっ!)

 驚愕に目を見開いて立ち尽くす公雅の様子に、従者達も訝し気に足を止める。

 彼の視線の先――中庭の濡れ縁を歩いているのは、死んだはずの将門の妻、自分の妹ではないか⁉


 ――亡霊じゃ。……あれは娘の亡霊じゃ。


 石井営所夜襲に失敗し、人が変わったような姿で自領に戻った父が、譫言のように繰り返していた言葉が脳裏を過った。


(まさか、……本当に美那緒か⁉)



「ん?」

 自室に戻る途中の濡れ縁を歩いていて、ふと視線を感じ振り返ると、門の前で自分を見つめ立ち尽くしている男と目が合った。

(なんじゃ。客人が来ていたのか?)

 それとも覗きか? と美那緒は眉を顰めた。

 生前の萩野のような大変極端な例外に目を瞑れば、この時代、身分のある女性が親族以外の男性の目に触れる機会は滅多になく、その為、好き心のある貴族の男などは、何処かに見目好き女子はいないか、評判の美女とやらはどんな姿かと、垣根の隙間からこっそり覗き見ては相手の品定めをするのが恋の糸口であり、時には物語の中でロマンスのきっかけとして描かれることもあった。手管心得た達者な女性であれば、気づかぬ素振りを決め込んで男をやきもきさせるところであろうが、とはいえ、勿論決して行儀の良い所作ではない。

 何処かで見覚えのあるような気もするが、はて、誰だったか。

 目礼だけ返すとさっさと自室へと歩みを進めた。


 今日は貴重な晴れ間故、美那緒は秋保の手を借りて、日当たりの良いところで所蔵品の虫干しをしていたのである。

「日が昇る前に並べ終わって良うございました」

 と、秋保がほっと一息吐きながら縁側に腰を下ろす。

「手間を掛けさせたわね。一休みしましょう」

「それにしても、高そうな本や絵巻物ばかりでございまする」

 冊数自体はそれほどでもないが、装丁に施された箔や装飾がキラキラと眩く陽の光に輝き、並べられた物品の中でも一際眩しい。そのうち一冊を手に取ってみても、持ち主が大切に扱ってきたのが改めて良く判る。


「あら?」

 と、何気なく捲っていた頁からはらりと紫色のものが零れ落ちた。

 拾い上げると、桔梗の花の押し花である。

(桔梗……)


 その名で呼ばれていたのは、幾つの頃であったか。


(……嫌な花じゃ)

 ……その名を自分に付けてくれた人も、その名で自分を呼んでくれた人も、もう誰一人この世にはいない。


「押し花でございまするか?」

 秋保が興味津々と美那緒の手元を覗き込む。

 どうやら万葉集から好みの歌を抜粋し、万葉仮名から翻訳した写本のようである。

「この頁に挟んであったのだけれど、お前、歌はわかるかえ?」

 あまり歌には馴染みのない美那緒が秋保に尋ねてみる。

「母から万葉の歌を教えてもらった事がありまするし、時々父も歌を詠むことがありまする」

 あの遂高が随分雅な事を嗜むものだと、少し意外に思いながら開いた本を渡す。

「……これは、狭野茅上娘子という方が、離れ離れになった夫君を忍んで詠った歌にございまする」

 歌を読み上げた秋保が本に目を落としたまま説明する。

「――哀しくて、怖い程に強い想いを詠った歌にございまする」




 ――君が行く道の長路ながてたたね焼き亡ぼさむあめの火もがも



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