第4章 良兼の死 1
延喜十五(九一五)年、皐月。胆沢城鎮守府、平良持居所。
北上盆地に広がる水田の水面に、真っ青な五月の空が眩しく映えていた。
田植えを終えたばかりの稲の若葉を、緑色の風が穏やかに靡かせ、青々と若草の茂る畦道を童達が歓声を上げながら走り回っていた。
城に程近い官舎にて、庭に面した自室の文机に向かい、持ち帰った政務を片付けていた良持の元に、先程の童の一人が縁側から身を乗り出すように駆け込んで来た。
「父上、見て!」
息を弾ませて魚籠を掲げて見せる幼い息子の笑顔に頬を緩め、執務の手を止め良持が腰を上げる。
「ほう、これは大漁じゃのう。今日の夕餉は賑やかになりそうじゃ」
川魚や川蟹で一杯になった魚籠を覗き込んだ良持が顔を綻ばせる。
「コウタとコヅベンと一緒に川で採ってきたのでございまする! コヅベンが蟹を取るのが上手くて、蟹はコヅベンから分けてもらったのじゃ」
「コヅベンとコウタか。友は一生の宝じゃ。仲良くするのじゃぞ」
コヅベンという子供は古くからこの地に住まう蝦夷――俘囚の子であろうし、コウタというのは坂東から移住を命じられた倭人の末裔であろう。
延暦二十一(八〇二)年、未だ阿弖流為との戦いが続く中、坂上田村麻呂により蝦夷征討の拠点の一つとして築かれた胆沢城は、その建造の為に坂東八国から数千人もの人足が勅命により配置されたという。その殆どが、圧政と乱世により土地を失った流浪農民であった。その中には、役目を終えた後もこの地に留まり定着した者達もいた。
幼い息子を抱え上げ肩に乗せると、良持は庭に下りて遥か彼方の山々を眺めやった。
胆沢の平野からは、青く澄み切った東の空の向こうに姫神山、早池峰山が望め、北の果てには未だ雪の名残を残す岩手山がうっすらと見えた。
「小次郎よ、下総が懐かしくならぬか?」
肩に乗せられ嬉しそうにはしゃぐ息子に良持が問いかける。
「懐かしゅうございまする」
ここから西の空を望んでも、遥か遠くの筑波山は見えぬ。
「でも、コウタ達といつまでも一緒に居とうございまする!」
「はは、そうか! ……のう、小次郎よ?」
空の向こうの山々から、平野の村々に視線を向けた。
忙しい田植えの時期を終え、のんびりとした一時を迎えた人々の営みの気配が穏やかな皐月の風に揺れながら漂ってくるのを感じる。
「此の地の人々と、下総の人々と、何か違いが見えるか?」
「みんな、魚を捕るのが上手うございまする!」
元気よく小次郎が答える。
「でも、後はみんな同じに見えまする」
「ああ、その通りじゃ。この父にも、都人と見分けがつかぬ!」
愉快そうに笑いながら、小次郎を肩から抱え降ろす。
「まったく、何のために柵で囲い関で塞いで俘囚と東夷と区別するのか、……もうこの父にもよく判らぬようになったよ」
「父上?」
子に語り掛けるでもなく、独り言のような呟きを漏らす良持の元へ、家臣の一人が駆け込んで来た。
「将軍様、ここにおられたか!」
相手の顔色に良持は眉を顰めて顔を上げる。
「何事じゃ?」
「菊多関から火急の知らせにござる。付近の俘囚共が――」
「……とうとう火が付いたか?」
只事ならぬ父達の様子を心細気に見つめる息子の視線に気づいた良持は宥めるように目の前に屈むとくしゃくしゃと頭を撫でる。
「済まぬが、父はこれからお城に行かねばならなくなった。その魚籠を母にも見せてやると良い。きっと喜ぶぞ」
「はい、父上!」
声を弾ませて母の元へ行こうとする息子を、「小次郎よ!」と不意に父が呼び止めた。
「よいか。もしそなたが父のように大きくなったら、その時は――」
ふ、と吹き込む夜風の肌寒さに将門は目を覚ました。
いつの間にか縁側の柱に凭れて眠っていたらしく、既に夜更けであった。
(随分と懐かしい夢を見たものじゃ……)
あれは幾年昔の事であったろうか。当時鎮守府将軍として陸奥に出向していた父に連れられ幼少の数年間を胆沢鎮守府近くで過ごしていた頃の記憶である。お互い様とはいえ当初は地元の子供たちの言葉訛りが強くて難儀したものの、すぐに彼らとは仲良く遊べるようになった。
(コウタと、何だったか、コヅベンと言ったか。……あいつらも元気にしておるだろうか)
身を起こそうとして、自分の肩に女物の上衣が掛けられているのに気が付く。手に取ると微かに懐かしい香の薫りが漂った。
(美那緒か。……あいつにも久しく触れておらぬな)
しんと寝静まった営所の外から、川辺の蛙の声だけが夜に鳴り響いていた。
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