第3章 興世王登場 6



 雷が落ちるとはまさにこの事を差すのかという勢いの激怒振りであった。


「大馬鹿者奴が! 無暗に兵を動かすなというのを忘れたかっ‼」


 経明の報告を聞いた興世王は、今までの温和な様子が嘘のような、顔中に青筋浮かべわなわなと肩を震わせながら、一同が飛び上がる程の剣幕で立ち上がり怒鳴り声をあげた。流石の将門も仰け反る程の怒り様であった。

「経基奴が! 折角の和睦に、武蔵国府の面目に、将門殿の厚意に泥を塗りおってっ‼」


 

 話はやや遡り。

足立陣にて経明より調停成功の知らせを受けた武芝の息子、太郎と小次郎は抱き合って喜び、

「皆よ、聞いたか! 権守が本件の非を認め謝罪したようじゃ。そればかりではない。我らの要求が全て認められた上、今年の納貢も免除して頂けるとのことじゃ。我らの勝利じゃ!」

 この朗報に、陣中の大軍勢は歓喜に湧き立った。嬉しさの余り鉦を打ち鳴らし高らかに法螺を吹き鳴らす者もあり、まるで祭りのような喧騒振りとなった。

「そうと決まれば、これ以上陣を構え、柄に手を掛け睨み合う必要はなかろう。我らも直ちに陣を解いて国府に赴き、皆で主君を出迎え讃えようではないか!」

 応おおおおおおう‼ と勝鬨とばかりに拳振り上げ狭服山を震わす程の声を張り上げると、足立将兵達は慌ただしく移動を始めた。

「では某、狭服山の介殿の陣へもこの旨伝えて参ろう」

「拙者もお供仕る!」

 引き続き経基方へ伝令に赴こうとする経明に小次郎が名乗り出て馬を並べる。

(……しかし問題がまだ残っておるぞ。この和睦は興世王の御一存で結ばれたもの。権守の権限にたてつくことはあるまいが、頑固者だという介経基が果たして大人しく調停に順じてくれるものやら)

 胸に少々不安を抱えながら馬を進める経明の鼻先を、不意にヒュンと矢が掠めた。

「なっ――⁉」

 驚く経明らを狙うかのように狭服山の方角から次々と矢が放たれる。

「敵襲じゃ!」

 小次郎が顔色を変えて弓を手に取った。

「待て、射返してはならぬ!」

 矢を番えようとする小次郎を慌てて押し止める。

 突然の経基陣からの攻撃に、喜びに足並みを弾ませていた足立勢の将兵らは一瞬にして緊張に包まれた。



 狭服山の本陣にて、犬の鎖を繋ぐが如く突き立てられた興世王の金棒を目の前に、経基はいらだたし気に膝を揺すりながら権守の帰陣を待ちあぐねていた。

(……権守様め、あんな大軍勢を引き連れてくるような連中を相手に、御一人で何を話し合われるというつもりか)

 疑心暗鬼は疑心暗鬼を呼び寄せる。麓では幾百とも知れぬ敵勢が矢を番え鉾を扱きながら自分を見上げている。ただでさえ頑迷なところがある経基の胸中に様々な不穏が渦巻いた。

(あのお人好しのことじゃ。例の将門とやらに旨く丸め込まれてしてやられるか。或いは騙し討ちに遭うか。いずれにせよ、余所者を間に挟んでまともな渡り合いなどできるはずがあろうか……!)

 ぎり、と親指の爪を噛みながら凶暴な目つきで足元を見つめる。

 あれからどれほど時が経ったか、権守は下山したまままだ戻らぬ。

(……よもや興世王、本件の全ての責任をこの儂に押し付けて、麓の軍勢と一緒にこの陣に攻め入るつもりではあるまいな?)

 経基の猜疑心がまさに頂点に達しようとしていた時である。


 突如、麓の陣地から鉦や法螺の音が響き渡り、続けて割れんばかりの鬨の声が上がるのを聞いて、経基は腰を抜かさんばかりに仰天した。

 何事かと麓を見下ろす配下の兵達の後ろに隠れ、這い蹲るように相手の陣の方を見ると、足立軍勢は皆拳を振り上げ意気揚々と陣を動かそうとする様子である。

「すわ見たことか! やはりこれは彼奴等の策謀であったのじゃ!」

 陣を解いて国府へ向かおうとする足立勢の動向を、自分達を包囲しこれから攻め込もうとするものと見誤った経基は、弓を取ると一番乗りにこちらに馬を向けてくる二騎の騎馬に向けて立て続けに矢を放った。

「お待ちくだされ、権守様より指示があるまで兵を動かすなと命ぜられておりますぞ!」

 慌てて止めようとする家臣の胸倉を掴み、咬みつかんばかりの勢いで怒鳴りつける。

「戯け者が! 貴様の眼は何処についておるのじゃ。敵が雪崩打って今にも攻め寄せようとするが見えぬのか⁉」

 部下を突き放してもう一度麓を見下ろしてみると、足立勢は皆足を止めて矢を番え、まさに臨戦状態である。

「最早ここに留まってはおられぬ。今に山を囲まれてしまうぞ! 者共、撤退じゃ! 山の反対側から逃げ落ちるぞ!」

 錯乱状態となった指揮官の恐慌は配下の将兵達にまで瞬く間に伝染し、皆蜘蛛の子を散らす勢いで我先に逃走を始めた。


 ――介経基は、未だ兵の道に練れず。驚き騒いで分散すと云ふこと、忽ちに府下に聞ゆ。


「介殿、お待ちくだされ!」

 一目散に馬を走らせる経基の後ろから、慌てて追いかけてきた経明が呼び止めようとする。

「どうか馬を止められよ。権守様が既に話をつけておるのじゃ。争うつもりはござらぬ!」

「権守だと⁉ やはり彼奴も陰謀に加担したか!」

 最早相手の言葉も碌に耳に入らぬ経基が振り向きざまに矢を射掛けてくる。

「興世王奴、武芝と将門に唆されてこの儂を陥れようとは! おのれ、決してこのままでは置かぬぞ! 断じて許さぬぞ、覚えておれっ!」

 すんでのところで矢を躱し、追走を断念し立ち尽くす経明を背に、経基は激しい憤怒と憎しみに駆られるように疾走していった。



 夕刻となり、国府に集った足立勢の前に、興世王、武芝、そして将門主従が姿を現した。誰も彼もが一時の喜びを忘れたかのようにしょげ返っている。

「……とんだことになってしもうた。我が国府の不届き者が、厳粛な調停に於てあろうことか相手方に矢を射かけるとは」

 すっかり消沈してしまった様子の権守が、改めて武芝に対し謝罪する。

「武芝殿、調停の約定については、身共の職責に掛けて全うすることを約束いたす。この度の不始末、どうか許してほしい」

「閣下の落ち度ではございませぬ。しかし、最後まで円満解決とはいかなかったこと、某も心残りに思いまする」

 そう答える武芝も、やはり心なしか肩を落としている。

「将門殿にも申し訳ないことになった。折角下総に良き友を得たと思うていたところ、とんだ恥を晒すことになってしもうた」

「不運な行き違いが起こったまでの事でござる。誰かが責めを負うものではありませぬ。……しかし、懸念されるのは逃亡した介殿の今後の動向じゃ。このままで事が済めばよいのだが……」


 一同が帰路に着く姿を興世王は最後まで門前に立ち見送っていた。

「どうやらあの権守様、根っからのお人好しのようでございますな」

「全く。人の噂など当てにならぬ。実際に会うてみなければわからぬものじゃ」

 その律義な様子に、将頼と遂高は小声で囁き合った。


 こうして、将門を介した足立郡を巡る騒動の調停は、最後に一抹の禍根を残す形で幕を閉じたのである。


 ……そして不幸にして、将門の懸念は現実のものとなった。


 武芝と興世王、そして将門に深い恨みを抱いた経基は京へと上洛し、「武芝に唆された興世王が将門と結託し、自分を殺そうとした」とした上で、「興世王ならびに将門が密かに謀叛を企てている」と太政官に訴えたのである。

 更に間の悪いことに、同じ頃将門の追討を逃れ上洛していた貞盛の訴えと重なり、将門謀叛の噂は都周辺を揺るがす大騒動に発展した。


 この騒動を知った将門は、事の大きさから、以前源譲から直訴された時のように直接釈明に出向こうものなら恐らく今回は無事では戻れぬと察し、大慌てで常陸、下総、下野、武蔵、上野五か国に解文を求め、急ぎ五月二日付で言上し、辛うじて誤解を解くことができたのである。


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