第2章 貞盛追討 4
遂高の居室へと通された美那緒は、酒膳を挟んで遂高と差向う形で腰を下ろした。
「殿には悪いが、某の方は酒に目がなくてな。折角だから我らで戴こう」
座すると早速お銚子から手酌で一杯ぐびりと呷った遂高が「ほう。これはなかなかの甘露じゃ!」と旨そうに唸り、美那緒へも杯を勧めてくる。
「……毒を盛っていると疑われぬのか?」
冷たい声で問う美那緒に、
「これでも、そなたを信用しておるでな」
とニヤリと笑いながら重ねて杯を勧める。
「……いつから気づいておられたか?」
無言で受けた一献を飲み干し、杯を返して暫しの後に美那緒が尋ねる。
酒が入り顔も綻びかける遂高の様子だけ見れば、端からは月見の酒宴に興じる愛嬌ある一場面とも取れるが、ぐるりと彼の背後に廻ると美那緒の氷のように冷たい双眸に真正面から射竦められるのでとても和やかな雰囲気ではない。
そんな殺気立った美那緒の眼差しを意に介した風でもなく遂高が答える。
「初めからじゃ。弓袋の営所で治療を受けていたそなたの両手の負傷。あれは殿の鉾をまともに受けて出来たものであろう。あの腕力での渾身の一撃じゃ。得物で受けたとて無事では済むまい。その後そなたは殿の追撃を躱して山へと逃れていった。逃亡先からそのような傷を負った娘が救い出されたとすれば、顔を見ずとも察しは着く。しかし、そなたが余りに御前様に瓜二つ故、皆は浮かれてそこまで考えの及んだものはおらなんだようじゃが。……尤も、それほどに御前様の喪失というのは殿のみならず我ら将門配下にとって大きなものじゃった。生き延びていてほしいという希望に皆縋っておったのじゃ。――皆が主の怒り様、哀しみ様を、それ以上戦場で見るに忍びなかったのじゃ」
「何故すぐそれを貴公は指摘されなんだか? ……どうして今まで俺を将門の奥方のまま放っておいたのじゃ?」
回されるがままに杯を重ねるが、美那緒の鋭い眼差しは一向に解けぬ。
「まあ、言うなれば殿が離してくれなかったのじゃ」
溜息を吐きながら遂高が軽く肩を竦める。
「そなたも身を以て思い知ったであろう。あのお方が虎に化けた恐ろしさを。営所を陥した後、経明がそなたを見つけてこなければ殿は躊躇うことなく筑波山に焼き打ちを掛けていたであろう。危ういところであったよ。嘘でもあそこでそなたが山から出てこなければ筑波連山は悉く焼き尽くされ、その機に乗じて良兼勢にも逃げられていただろう。そうなれば、周辺土豪は皆我ら一門を敵と見做して挙って良兼勢に与し、戦は更に激しさを増したに違いない。冷静な戦況を取り戻せたのは、殿が冷静さを取り戻された、即ち、奥方であるそなたを取り戻されたからに他ならぬ」
その言葉に、美那緒は改めて手負いの虎の恐ろしさを思い知った。
「敵の策略とは思われなかったのか? 一旦は我ら一党も良兼勢に与していたのじゃ。良兼が内通者として潜り込ませたものとは疑われなんだか?」
「無論、某も真っ先にそれを警戒した。暫くそなたの動きに目を光らせていたこともあったよ。……そなたが度々僦馬の配下と営所内で密会していたことも知っておる」
なんと、そこまで抑えられていたか。
ふ、と美那緒が初めて笑みを漏らした。
「……しかし、もう一人の内通者であった子春丸とは殆どそなたは接点がなかった。何よりも、暮れの夜襲を真っ先に我らに知らせてくれたのはそなたじゃ。その上、戦場では殿と肩を並べ真っ向から敵へ向かって当たっていた。良兼の脅威が去った今となれば、猶の事そなたへの警戒は無用じゃ」
それに、と笑みを浮かべながら遂高が続ける。
「野本、下総、子飼渡の合戦でのそなたの戦いぶりに、某も武士の端くれとして一目置いておった。特に鬼怒川で我が主が卑劣な毒矢を受けた際のそなたの潔い引き様には感服いたした。それが何の巡りあわせか、我が一門に加わっておる。我らの主にとってかけがえのない存在としてな。数奇なものじゃが、これも縁あっての事であろう。機会あれば、是非こうして杯を交わし合ってみたいと思っていたところじゃて」
笑い声を上げる遂高に釣られて、ようやく美那緒の固い眦も解かれる。
「俺とて、今日まで信じられぬ事ばかり続いておる故、まるで夢でも見ているようじゃ……」
ほう、と深い溜息が漏れる。この屋敷に来て以来、初めて自分自身を認めてもらえたような、漸く得た安らかな心地であった。遂高から杯に受ける上総の銘酒というのが、また飛び切りに旨い。
「……しかし、某もそなたに尋ねたきことがある。偶然の巡り合わせとはいえ将門様の奥方と間違えられ、さぞ驚かれたことであろう。今日まで逃げ出そうとは思わなんだか?」
「無論、驚いたさ。正直申せば、最初はいつ逃げ出してやろうかと隙ばかり伺っておった」
あの鬼のような将門の剣幕に散々に打ちのめされた後であったから、正体がバレたら八つ裂きにされるだろうと震え上がったものである。
「だが、いつの間にか気が変わった。……何故かは知らぬ」
庭の方に目を遣れば、簾越しでも煌々と明るい満月の宵であった。
暫し無言で簾の向こうの望月を見つめた後、改まったように遂高が低頭する。
「僦馬の頭目殿――いや、御前様。只今申し上げた通り、御君は我が殿にとってかけがえのない御方。御君あればこそ我が主君を荒ぶる虎より鎮められるのじゃ。どうか以後も美那緒様として、我らが御前様としてあられませ。さればこの遂高、臣下の忠義、心より尽くしますれば――」
平伏する遂高に、美那緒は席を立ちながら微笑み返す。
「我が主様は下戸でいらっしゃったか。確かに粗忽でした。以後覚えておくぞえ」
遂高の部屋を出ると、いつの間にか望月は大分山影に傾きつつあった。
中庭を挟んだ反対側を見ると、未だ濡れ縁の柱に寄り掛かったままの将門の姿が月明かりにぼんやりと浮かんでいる。
いそいそと渡り廊下を歩みそちらへ向かう美那緒の足が、主を間近にふと止まる。
柱に凭れ将門はすやすやと寝息を立てている。
「主様、お風邪を召されてしまいますよ……?」
揺り起こそうと肩と二の腕に触れると、三角筋と上腕二頭筋の余りの逞しさに思わずぼっぼっと美那緒の顔が上気したが、当の主は一向に目を覚ます様子がない。
美那緒は軽く肩を竦めると、もう一度だけ三角筋と上腕二頭筋と大胸筋を揺り動かした後、諦めて自分の上衣を将門に羽織らせその場を後にした。
いつの間にか仄かな春風も止み、月明かりに夜桜も美しい静かな春の宵であった。
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