第2章 貞盛追討 3


 同年卯月。石井営所。夜半。


 見事な望月の宵であった。

 夕餉を済ませた居室の前の濡れ縁に腰を下ろし、将門は一人月を眺めていた。

 思えば久しい平穏の一時である。

 幾度も刃を交わし血で血を拭い合った伯父達の脅威は消え去り、良兼は出家したという。

 貞盛は京で何か企みがあるか知れぬが、今のところは大きな動きは聞こえてこない。

 石井営所の中庭には相当の樹齢と思しき梅の木が幾本も植えてあるが、戦の後始末をしているうちに花の盛りを逸してしまい、今は青々とした葉を茂らせようとしている。代わりに、最近誰かが植えたのだろう山桜の若木が将門の居室にほど近いところで可憐な花が月明かりに薄桃色の花弁を浮かべていた。

 微かに春風のそよぎを感じるが、静かな夜である。早い者はもう寝静まっているであろう。

 久しぶりの無心な心地に将門はほうと小さく息を吐いた。



 長年連れ添った侍女を亡くした上、腹の子まで失ったという美那緒の身上を慮っての周囲の気遣いは、或る意味、今の美那緒には大変都合が良かった。無用な詮索や疑いを被らずに済むからである。

 あてがわれた部屋には辛うじて豊田の営所から運び出されたと思しき衣類や、当時非常に貴重であった京や唐渡の書物や絵巻物が置かれてあり、時間を見つけては生前の美那緒という人物の面影に少しでも近づくため、色々と物色してみることもあった。

 書物の類、それも歌集や歌物語が多いのは生前の美那緒が歌を好んだからかもしれぬ。万葉はもちろん最近世に出たばかりの古今和歌集や伊勢物語などが豪華な装丁や絵巻物として文箱に所蔵されていた。しかし現在の美那緒は歌はどうも不得手であったし、歌は詠み手の癖が露わになりやすい。これは今後の行動上気を付けねばならぬだろう。今に歌合せなどに誘われたりせぬことを心から願うばかりである。或いは日記の類でも残されていれば大いに参考になったかもしれぬが、生憎そういった手記の類は見当たらなかった。そもそも、当時日記は主に男性官僚が事務的な内容を記すのが普通で、後世に残る日記文学のような習慣はまだ都の貴族女性にも一般的ではなかったのではあるが。

 とはいえ、今のところは誰からも疑いの目は受けていないようである。本物の美那緒も鉾の名手であることも幸いした。

 夕餉の後、夜風に当たりたくなり、部屋の簾を上げてみれば見事な満月である。

 ふと、中庭を挟んだ向こう側に目を遣ると、同じように青い月明りを浴びて宵の空を見上げている人影が目に留まった。


 ……最初は、興味以上の感情、恐らく仄かな好意から将門の姿を戦場で追い求め、刃を交わし合うことを喜びに感じていた。


 ――そんなに俺に殺されたくば望み通り殺してやろう。良兼の居場所を全て吐くまで、嬲り殺しにな‼


 弓袋山の戦いで初めて完膚なきまでに打ちのめされた時、初めて将門という手負いの虎の恐ろしさを心底思い知った。只々、恐怖の感情しか抱けなかった。今でもその恐怖が全て拭い去られたわけではない。


 ――……すまぬ! すまぬ! この俺さえついていれば! ……うああああああ!


 しかし、その後、自分を亡き妻と信じ切った将門が目の前で童のように身も世もなく泣き崩れる手負いの虎の脆さ、弱さを目の当たりにした時、どうしようもなく哀れで愛おしい感情がとめどなく溢れ、只々涙が止まらなかった。

 逃げ出そうと思えば、今すぐにでも石井営所から飛び出すことはできるのである。出入りの者達に仲間もいる。追手が掛かっても万に一つも捕まることはないだろう。

 しかし、美那緒は今も美那緒として偽ったまま、遠くの濡れ縁で月と夜桜を眺めている将門のもとにいる。

 只、将門の元から離れがたかった。

 我が主様と決めた人は遠目からでも久々に見る穏やかな様子であるが、どこか寂しげでもあった。

 きっと、以前なら彼の元にその妻が寄り添い、傍に侍女が控えて一緒に静かな観月に興じていたことであろう。


 将門は、まだ一度も自分の身体に触れようとしない。


 それは周囲と同じく、余りに多くを失い傷ついた自分を気遣っての事であろうが、もし触れられてしまえば、今の彼女は未だ男を知らぬ身体である。それまでの偽りが全て見破られてしまうかもしれぬ。しかし、美那緒は時々それが堪らなく切なくなることがあった。

 

 ふと思い立って、炊事場の方へと足を向けると、夕餉の後片付けをしている雑仕人達が幾人か残っていた。

「おや、御前様。こんな時間にどうなされた?」

 見覚えのある初老の男が驚いたように声を上げた。弓袋にて自分を介抱してくれた老人であった。

「夜分にごめんなさい。酒膳の用意をお願いしたいのじゃ」

「それはお安いことじゃが、御前様が召されるのか?」

「今宵は良い月故、主様に供するのじゃ」

 それを聞いた老人は「はて?」と何故か不思議そうな顔で首を傾げたものの、不意に思いついたかポンと手を打って、

「おお、そういえば暮れに子春丸殿から頂いた上総の酒、まだ口を切っておりませんでしたな。折角じゃ。あれをお出ししよう」

「面倒をかけます。居室までは妾が運びましょう」


 銚子二本と幾つかの酒肴を乗せた酒膳を手に将門の居室へ向かううち、何故だか知らぬが、美那緒の顔には妙な笑みが浮かびつつあった。

 差し向かいで将門と杯を交わそうなど、試みるのも初めてである。いや、今までは敢えて彼と距離を置いていた。お互いの思う処は違えど、将門も敢えてそうしたのであろう。

 そもそも、僦馬の党の頭目であった頃には、曲がりなりにも官に属する将門と昵懇になろうなどとは夢想だにしていなかったことである。

 ……或いは今宵の春の望月が、それまで堪えていたものを狂わせたか。

「うふふ」

 何故か判らぬ含み笑いを堪えながら廊下を歩んでいると、たまたまこちらに向かってくる遂高と鉢合わせした。

「おや、御前殿。酒膳など携えてどちらへ?」

「主様が観月の御様子なので一献ご一緒に楽しんで頂こうかと。今宵は夜桜も見頃でございます故」

 では、と立ち去ろうとした美那緒の背中に遂高が呼びかけた。


「おやおや迂闊ですぞ。殿は酒を嗜まれぬ。……この際よく覚えておかれるがよい。――僦馬の頭目殿」


「――っ⁉」


――はは、持て成しは有難く存ずるが、生憎俺は下戸じゃ。何卒お手柔らかに頼むぞ!


 これは以前野本の調停を控えた真樹に対しての将門の台詞である。当時の美那緒もその場に居合わせていたが、現在の美那緒がそれを知る由もない。


 遂高の指摘に思わず酒膳を取り落とさぬだけ流石に美那緒は気丈であった。


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