第2章 貞盛追討 2


 同月二十九日。信濃国小県郡国分寺付近。


 上洛を目指す貞盛一行は間もなく千曲川のほとりに差し掛かろうとしていた。百余騎を伴っての重々しい行軍となったのは、弟繁盛の助言によるものであった。

(兄上の和睦状、将門が素直に受け取ったとは到底思えませぬ。何より、我らは先の和睦の後に一度ならず彼奴等と刃を交えております故。この度の和睦も策の手と捉えるでしょう。必ず将門は追手を差し向けてきますぞ。努々ご油断召されるな!)

 主のすぐ後ろに続くのは石田郷一の武勇を以て知られる他田真樹である。繁盛直々の申しつけでこの度の上洛に同行させているが、申し付けられずとも自ずから同行を願い出たであろう。他田を含め、一行の殆どの者は将門の奇襲を寧ろ待ち望んでいる節がある。

 いわば、よしんば将門がこちらの追討に打って出たとしたら、この一戦が焼き払われた故郷及び亡き主国香の仇を直接打てる最後の機会であるからともいえる。

 しかし正直なところ、貞盛自身の心中を言えば、とにかく都の暮らしが懐かしかったのである。

(……嗚呼っ! なぜ俺は今日まで石田の郷に留まってしまったのか!)

 それまで貞盛は宮廷司馬職というれっきとした公の役職に就いていたのである。野本の戦禍による火急の事態で一時帰省を余儀なくされたが、親父の供養を果たしてすぐに都に戻っていればその後の身内争いで血を見る目に遭わずとも済んでいたはず。

(これというのも将門奴。恨めしや、奴が戦を長引かせおるせいで今日まで上洛も叶わなんだ)

 そもそも、あの時、さっさと都に復職し、平氏次期棟梁として摂関家に取り入って殿上人まで昇格していれば、坂東における一門の格も上がり八国の混乱についても藤原摂家に直接申し立てて穏便に事を収めることもできたはず。そうすれば今までの無駄な血も流れずに済んだのだ。そう思うとこれまでの長き騒乱が馬鹿馬鹿しく思えてならぬ。

 今は只々、深い溜息しか湧いてこぬ。

「殿、もうすぐ千曲川が見えてきまする。……ここを渡れば、もう敵方の追手の懸念もなくなるでしょう」

 他田が行く手を差しながら口を開くがまるで舌打ちせんばかりの口振りである。

「やれやれ、将門奴の面を拝めると思ってこの寒いのに腕まくりして待ってたってえのに、無事に着いちまいましたね」

 今度は貞盛を除く一行が揃って深い溜息を吐いたものである。

「我が誠意が将門殿に通じたのであろう。何をおぬしら残念がっておるか! ……まあ良い。渡河の前に小休止じゃ」


 その時、ひゅううん、と鏑矢の音が後方から放たれた。


 たちまちのうちに高らかな蹄の雪崩が一行の背後から近づいてくる。

「小休止止め! 直ちに敵襲に備えよ!」

 慌てて立ち上がった貞盛が馬に跨りながら一向に指示を出す。

 配下も開きかけた干飯を投げ打ち速やかに臨戦態勢を取る。

 振り返ると、将門勢の赤い旗印が東にほど近くはためいているのが見えた。

 追手はこちらと同規模であろう。先頭を行くは、紛れもなく将門本人である。

「……渡河致しまするか、それとも迎え撃ちまするか⁉」

 他田が厳しい顔で主に指示を仰ぐ。将門に一矢報いたくも、今優先すべきは貞盛の無事上洛である。

 貞盛は配下を見渡す。

 敵と兵力は五分と五分。しかし士気は間違いなくこちらが断然に高い。

(……ここで将門を討ち取ってさえしまえば、すべてが収まるのじゃ!)

 貞盛の心中に、一瞬の欲目が出た。

「――ここで迎え撃つ! 射程を見極めよ!」

 応おおおおおおおっ! と地を轟かすような貞盛勢の鬨の声が川岸に打ち響いた。


 程なくして視界に揃った将門勢より一騎の騎兵が勇ましく進み出た。

「我こそ将門一の郎党、文室好立! いざ参る!」

 川岸へ俄かに布陣し矢を番える貞盛勢へ徒兵を引き連れながら好立が名乗りを上げて突進する。

「石田忠臣、他田真樹! わが主と故郷の怨嗟の矢をその身に受けるがよい!」

 ぎりりと番える矢を十分に引き絞り解き放たれた鷹の羽は唸りを含んで好立の左脇腹に命中し、もんどりうって転げ落ちる。

「見たか、これが石田侍の矢の味よ! 諸共よ、一気に押し返せ!」

 他田の手柄に一斉に湧き立った貞盛勢が一挙に攻めに掛かる。

 追いついた将門本隊も加わり忽ち川辺は両軍入り乱れての大混戦となった。

 お互いの兵力は同程度、片や幾千錬磨の精鋭勢に対し、もう一方は故郷を焼かれ主を奪われた復讐心に燃える遺臣たちの軍勢である。

(これは下手をすれば子飼渡よりも厄介じゃ!)

 目の色を変えて斬り掛かり、或いは射掛けてくる貞盛勢に経明は舌を巻いた。

 まだ公雅配下のような集団戦法という型に嵌まった戦を仕掛けてくる相手なら或いは御し様はいくらでもあろう。しかしここぞとばかりに復讐に燃えて血眼で打ち掛かってくる相手等というのは一番やりこみ難い。そういう相手は、決まって一本矢では決して倒れぬ。幾本矢を被っても息果てるまで斬り掛かってくるから始末が悪い。忽ち二十四本の矢を討ち尽くし、堪らずに経明は徒兵から鉾を受け取って構える。

 敵勢の矛先は将門に集中していた。

 君主危うしと見て取った経明が一歩踏み出しそちらを仰ぎ見て思わず目を剥いた。

 その正面に立って敵の矢を弾き返し、押し寄せる貞盛勢を味方勢をも圧倒する勢いで鉾一刀の下に次々と屠っていくのは、なんと美那緒ではないか!

「あはっ!」

 鉾が軽い。

 最初、鉾を授かった時、その軽さ故打撃に懸念があったが、杞憂であった。

 これなら、いくらでも振るえる。敵を切り刻める。

 余りの斬撃の嵐に距離を取り射掛けられる敵の矢の雨すらも傘を戯れに振り回すように次々と弾き返される。


「……殿、今のうちに川を渡られよ!」

 背後に主君と従者を守っていた他田が促した。

「我らが勤めは殿を無事に上洛させることなり。されど、ここは我が主君国香様遺臣の復讐の修羅場。……殿は長居無用にございますれば、速やかに川を渡られよ!」

「他田よ!」

 貞盛は涙ぐみながら忠臣の背に呼び掛けた。

「京にて先に待っておる。……そなたも必ず上洛を果たすのだぞ!」

 従者を連れて川を渡り行く主を背に見送りながら、他田は目の前に迫り来る大男をじっと睨みつけていた。

「……先程は不覚を取ったわ」

 脇腹の矢を引き抜きながら馬上の好立が唸る。

「貴公の首貰い受け、一番名乗りを挽回いたす。いざ参る!」

 大鉾を振り上げながら、手負いの好立が他田へと打って掛かった。


 千曲川の合戦は、勝敗が付かぬまま他田真樹が討ち取られるまで続けられ、その間に渡河した貞盛や生き残りの一行は山へと逃げ込んでしまった。

「ちぃっ! 肝心の奴を取り逃がしてしもうたか!」

 将門は悔しさに幾度も首筋を掻きながら本拠地へ引き返していったという。


 気の毒なのはその後の貞盛ら一行であった。

 旅の糧食を全て戦の為棄てて来ざるをえなかった一行は、馬さえも雪解けの淡雪を舐めながら渇きを癒し痩せ細り、皆飢えと寒さに震えながら都への旅路を辿ることとなったのである。

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