第2章 貞盛追討 1


 承平八(九三八)年如月。上総国武射郡屋形、良兼営所。


「……すっかりおやつれになりましたな」

 久々に良兼の営所を訪れた貞盛は出迎えた公雅の憔悴振りを目にして驚いた。


 昨年末の石田営所夜襲の失敗によって、良兼方には最早武力を以て将門を破る手段を全て使い果たしてしまっていた。

 何よりも、その夜襲以来すっかり意気消沈してしまった良兼自身が最近は床に伏せることも多くなり、家中の者の間では、近々出家するのではないかとも囁かれている。

(そういえば、営所の出入りの者もずいぶん減ったようじゃ……)

 そんな現状であるから、威勢を失いつつある良兼の元から去る従類や味方豪族も多く、中には将門の一門へ下る者も出てくる。最早将門を討つ余力無しと判断した良正も、すっかり弱り切った兄を見限り、さっさと水守へ帰ってしまった。

「……床に伏せるたびに父が魘されておるのじゃ。美那緒の亡霊じゃ、娘の亡霊を見た、と。まるで悪夢に苛まれるかのようにな。……あの夜襲で正面に立って戦った者は殆ど討死したが、生き残った者も確かに言うのじゃ。夜襲の折、将門の傍らで妹が鉾を振るっていたと。然し、そんな馬鹿なことはあるまい。未だ亡骸は見つからぬとはいえ、……妹はもうこの世に居るまい」

 何とも言えぬ表情で公雅が首を振る。

「あの寡黙ながらも皆の信用を得ていた聡明な御方が、そこまで御弱りになっていたとは……」

 残念な気持ちに打ち沈む貞盛に「ところで」と公雅が声を掛ける。

「貴公がわざわざ石井から参られたからには何か重要な用向きがあっての事であろう。……やはり、坂東を去るつもりか?」

 貞盛の様子から大方察したのであろう。従兄弟の言葉に首を垂れて首肯する。

「某、都にて司馬の職に就いていながら、思いがけず留守を長くしておりました。……これより後は上洛し官より賜った御役目を全う致しとうございます」


 ――遂に濫悪の地に巡らば、必ず不善の名あるべし。如かじ、花門に出でて以って遂に花城に上がり、以て身を達せむには。


 本心、貞盛は身内争いに嫌気がさしていたのである。

 平伏して述べる貞盛に、悩まし気に眉を寄せながら公雅が問う。

「わが父の容態は今申した通りじゃ。もし出家致すことになれば、本来坂東平氏棟梁格の嫡男である貴公が我が一門を統べることになろうぞ? ……それでも出立なされるか?」

「所領の事は弟の繁盛に万事任せてありますれば、一門の政に障りはありますまい。今後は洛中にて平氏一族の名を一層高めとう微力を尽くす所存にございます」

 貞盛の決意に、溜息を吐きながら公雅が眉間を抑える。

「……忘れてはおらぬだろうが、貴公は八国争乱の嫌疑で追捕の令が下されておる。潔白の身とはいえ、復職するには公に対し申し開きが必要となるであろう。……貞盛殿。頼む。その際は我が父良兼及び我ら一門の言い分を是非、検非違使庁に伝えてほしい。最早我らには将門と兵で競い合う力は残されておらぬ。朝廷の聖断に頼る他ないのじゃ。我が父もそれを望んでおる」

「はっ。必ずやご意向に報いるよう努力いたしまする!」

 謹んで承った貞盛であったが、内心では強い葛藤の念が鬩ぎ合っていた。

(……困ったことになったぞ。つい先日、将門へ再度の和睦状を送ったばかりじゃ。これでは某は将門を二度裏切ることになってしまう。……尤も、追捕の申し開きの場ではどうしても将門を非難しないわけにはいかぬであろうが)

「……それにしても、父上があの通りになってしまってから、誰も彼も皆我が一門を離れていくのう。あれ程ガミガミ将門討つべしと囃し立てていた叔父上すら、何も言わずにとっとと本拠地へお帰りになられたわい。その上、貴公まで坂東を去るとは、寂しくなるのう。……これで筑波一帯はすっかり将門一門に牛耳られてしもうたわ」

 空虚な笑い声を漏らす公雅に、貞盛が思い切って尋ねた。

「……公雅殿。そもそもこの戦は将門の手により我が父国香並びに祖父源護様の御嫡子らが討たれたことが発端。しかし、某にはそれだけで済まぬ何か大きな企てが見えてなりませぬ。一体なぜ、伯父上らはここまで将門を攻め続けるのでありましょうや?」

 従兄弟の問いかけに公雅はしばし困ったように首を捻った後に、まるで穏やかな口調で諭すように答えた。

「貴公の懸念の通りじゃ。発端は野本。……しかし、この戦、根はもっと深いところにある。今は知らずとも好い。いずれ貴公はそれに否応もなしに巻き込まれることになる。――貴公が平氏なれば。そして、貴公が貴公なれば」



 同月。常陸国石井営所


 一同の元に回されているのは、貞盛の和睦状である。前にも一度同様の文言を皆で回し読んだことがあったが、あれは果たしていつの事だったやら。

「罠じゃ」

 一巡したところで将頼が口を開いた。

「……企みがありましょうな」

 同意するように遂高も頷く。

「先日の夜襲より後の動向を見るに、敵方には最早我らと一戦を交える余力は残されておりませぬ。良正が兄を見限り水守に戻ったとも聞きますし、あれ以来良兼に靡いていた土豪の多くが我らに帰順したのが何よりの証拠。恐らく敵は手段を変えてきたのでしょう。則ち、検非違使庁に直接我らを訴え、最悪の場合、官軍を八国鎮圧に仕向けるつもりでございましょう」

「もし本当にそうだとしたら、八国の国守ら、顔色を失うであろうな」

 経明が声を上げて笑った。

「……いずれにせよ、一度裏切ったものはまた必ず裏切る。この和睦状、信用するには能わぬ」

 己の手に戻った書状を、将門は畳の上に叩きつけるように投げ捨てた。

「貞盛を討つ。敵の策略が疑われる以上、彼奴の上洛を放置するわけにはいかぬ!」


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