第1章 子春丸 5


 同日、卯の刻。石井営所周辺。


 もう数刻で明け方という頃合。既に月もその姿を山際に隠している。

 雪のちらつきもないまことに静かな夜であった。

 只、その深闇の静寂に鎧甲冑の鳴る音と朧なる松明の篝火が石井営所前に人知れず異様な雰囲気を漂わせていることを除いては。

 営所の内側も静かな様子である。きっと今頃、これから起こる末後の地獄絵図を夢想だにせず将門ら主従は惰眠を貪っていることであろう。

 正門正面には良兼勢が陣取り、最も守りが薄く護りの金的ともいえる裏口は良利勢が抑え、その他各所にも兵が配置される運びである。

「御館様、営所周囲への配備完了いたしました!」

「うむ。ご苦労である。……そなたも速やかに配置につき指示を待つがよい」

 報告の兵士に頷くと良兼は全兵士を振り返り檄を上げる。

「同胞よ、よう聞けい。……これより一族の恥晒を誅す。上下総、常盤を再び我ら一系の平氏の世に治めるのじゃ。我ら桓武平氏はやがて坂東八国を制覇し、その名を後世まで轟かせしめよう。胡乱な企てを持ったがために身を滅ぼした良将のように、我らの結束に背く者は此処に誅せられねばならぬ。我が一門の永劫の繁栄の為、此処に平良将が子、将門を滅ぼさん! 諸共よ、此処に一門への忠義を示せ!」

 応おおおおおおっ!と夜更けの空に鬨の声が上がった。今の一声で将門らは慌てて寝処から飛び起きたであろう。それで構わぬ。誅するときは枕を蹴って一撃を加えるのが武士の情けというものである。

「一番、火矢を構え!」

 良正の号令一下、先頭列の徒兵が矢に火を灯す。これが石井営所夜襲戦の嚆矢となる――はずであった。


 パっと、突然矢倉から篝火が灯された。良兼勢がはっとした時には次々と営所物見に篝火が灯され、まるで真昼の明るさとなった。

「一番、撃ち方始めェ!」

 営所からの号令と共に放たれた矢によって、火矢を下げ唖然としていた良兼勢の前列が次々と矢に射られ倒れ伏した。

 信じられぬ面持ちで皆が顔を上げた時には、石井営所正面には既に武装した従類数騎、既に迎撃の準備が整えられていたのである。

「伯父上、……お久しゅうございますな」

 その中央に佇む将門が、唖然として見上げる良兼を見下ろして厳めしい眼差しを以て見下ろしている。

「小太郎よ……」

 呆然と立ち竦む良兼がぽつりとその名を呼ぶ。

 開戦以来、数年ぶりの伯父甥の直接の再会であった。

「ええい、兄上は何を呆けておられるか。者共よ、将門は目の前ぞ! 射殺せ、射殺すのじゃあ!」

 良正が兵らを叱咤し矢の支度をさせる。

「火矢じゃ。火矢で彼奴を黒焦げにしてしまえ!」

 良正の命で次々と将門に火矢が放たれる。将門は躱す素振りも見せぬ。すわ! これで将門は終わりか、と見た軍勢の前で全ての矢が火花を散らして斬り失せられた。

 良兼の目が見開かれる。

「……美那緒⁉」

 将門の傍らから現れたのは長鉾を手にした将門の妻、美那緒。良兼の娘であった。然しその顔は篝火の炎に照らされ妖しい憤怒に彩られている。

「美那緒、生きておったのか⁉ ……なぜ父に顔を向けてくれぬのじゃ!」

 思わず叫んだ良兼へちらりと美那緒は視線を向けたそれは実の父へ向けるような眼差しではない。徹頭徹尾敵の大将首へ向ける冷たい視線であった。当然である。今の美那緒は彼の娘ではない。

「……亡霊じゃ。……あれは娘の亡霊じゃ」

 突如頭を抱え馬上で蹲る良兼の周辺の幕僚が動揺を見せ始める。

「主様。……今火矢を放った敵将の顔を、妾は一人過たず覚えておりますぞ!」

 将門が頷く。

「宜しい。二番火矢を持て、用意!」

 このやり取りの最中も矢の応酬は続いているが不思議と二人の間には割り込まぬ。

「二番撃ち方始めェ!」

 本来営所へ射込まれるはずの火矢が自分達の勢へ帰ってくる。

 そしてこの二射目の火矢の掃射が勝負を決めた。

「そんな馬鹿な……」

 思わず良兼は心中で呟いた。

 良兼勢は、冬装備として全員が藁蓑を、上兵は中に綿入れを着込んでいた。その上、伊予の海賊討伐戦を経て子飼渡の合戦で効果を見込んだ集団戦法の密集隊形を組んでいたのである。それがこの度完全に裏目に出た。

「うぎゃああああああ!」

 一人が肩に火矢を負えば致命傷とならずともたちまちのうちに周囲の藁蓑へ燃え移る。痛み熱さにのた打ち回るから猶の事火は広がる。

「これは、儂の失態じゃ。部下のせいではない。……しかしなぜ漏れた? 何故夜襲の計画が漏れたのじゃ?」

 顔を覆う良兼を他所に次々と営所から火矢が放たれる。

「よし、良いぞ! 続けて三番、四番、放てェ!」

 たちまちのうちに石井営所前は蓑踊りの火焔地獄と化した。


「ひっ――!」

 前門苦戦の知らせに持ち場から引き返した良利は想像を絶する光景に言葉を失った。

 本来前門は炎に包まれ、将門方の兵士が火の粉を被りのた打ち回っていたはずである。

 それが真逆の様相を呈している現状は何だ?

 味方は皆炎に包まれ灼熱の余りに踊り狂っているとしか思えぬ情景。それを介抱しようと火の粉を払う無傷の兵士が次々と矢の餌食になっていく。

「御館様、御館様は何処に居られるか?」

 その誰何の声すら届かない。最早戦線は崩壊した。この戦は負けである。

「……最早この場はこれまで。引くぞ!」

「はっ!」

 この修羅場を見捨て部下と共に逃げ出そうとする良利を目ざとく遂高が見つける。

「殿、二番首と思しき敵将が遁走致しますぞ!」

「おう任せておけ! こういうときこそ鍛錬のたまものよ!」

 手元に弓のない将門が雪の塊を拵えてその背に向かって投げうつ。

「ぐっ! なんじゃ⁉」

 背中に何かを受けたと覚えた良利が思わず馬の歩みを止める。

「経明よ、あの雪玉跡に向かって射て見よ!」

「合点。こうみえても某、印のある的は外したことはありませぬぞ!」

 ギリリと引き絞り放たれた矢は見事に良利の背を射貫き、がくりと首を垂れた良利はそのまま馬から落馬して果てた。

「敵将、討ち取ったり!」

 歓びの余り、経明が高らかに勝利の雄叫びを上げた。

 その鬨の声が決め手となった。

 無傷の者は四方に遁走し、悄然と顔を覆ったままの良兼は配下に引きずられるように敗走した。

 後に残ったのは門前に焼け焦げた敵兵の屍のみであった。



 ――其の日戮害せられし者は四十余人、猶し遺れる者は天命を存して以て遁げ散りぬ。


 八十騎を越える将門討伐精鋭の半数以上を失った良兼の対将門討伐は、これが事実上最後の戦いとなった。


 これ以降、良兼は出家し、病に伏せることが多くなったという。



 年が明け承平八(九三八)年睦月三日。


 いくら内通したからと言ってこのまま顔を出さなくなっては余計なことを勘繰られかねぬ。

 何より得意先は大事にしたいものだ。

 色んな思いを背負いながら子春丸は正月の挨拶を兼ねた品々を乗せた台車を牛に引かせて石井営所を目指し荷車を引いていた。

 上総の御家臣の夢が潰えたとはいえ、こうして牛を引いていれば一生食うに困ることはあるまい。

 物事は良い方に考えた方が勝ちである。


 鵝鴨橋付近を通過したあたりである。

 そこで後ろの牛方の方から「親方!」と声が掛かった。

「……何じゃ。牛の足でも吊ったか?」

 歩み寄った子春丸の胸元に短刀が付きたてられた。

「ぐえ……」

 血反吐を吐いて倒れ込む子春丸を子分らが川へ蹴落とす。

「……悪いが、後は俺達があんたの仕事を引き継がせてもらうぜ」

 シロとフジマルら牛方達が同じような表情でせせら笑った。

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