第1章 子春丸 3
数日後、石井営所。
鈍色の冬空から、同じような色をした雪がしんしんと降り積もっている。もうすぐ夕刻のはずだが、この連日の降雪のため暫く夕焼け空を見ていない。知らぬ間に夜が近づいてくるのである。
炭の荷受けの立ち合いを終えた遂高が、肩に積もった雪を払いながら白い息を吐いた。
(……これは明日まで雪は止みそうにないのう)
坂東の雪は水気を含んで重い。微かに灰色がかって見えるのは富士の粉塵を含んでいるからか。
「やれやれ、申し訳ござらぬ。思いの外手間取りまして」
炭俵を積載した荷車の列が到着したのが昼過ぎであった。途中の峠道で荷引きの牛が雪に足を取られて難儀したものらしい。そのまま昼食も取らず俵蔵へ積み込みを始めたのだから流石の荷役達もくたくたの様子であった。
「この雪じゃ。無理もなかろう。……皆今宵はこちらで一泊して明日天気を見て出立するがよい。酒も付けるぞ」
遂高の一声に喜んで腰を上げる荷役達を他所に、遂高は悩まし気に俵蔵を見上げる。
(今年は豊作じゃったが、来年はそうもいくまい。米の備蓄に気を配らねばならぬな)
本来、郡司や受領といった地元の有力者は、朝貢米と自分達の飯米の他に凶作に備えて備蓄米を蓄えておくこととされているが、この時代は律令制度もほとんど機能しなくなり、備蓄米はおろか朝貢米も数をごまかし私腹を肥やしている有様。もし万が一飢饉となっても国府や周辺豪族の救民は期待できまい。
やれやれ、今から頭の痛いことじゃ。と首を振りながら営所の中庭を通りかかると、この寒いのに諸肌脱いだ将門と経明らが雪合戦に興じているところであった。
「この御寒いのに毎日よう励みますのう」
「鍛錬じゃ!」
荒々しく白い息を吐きながら玉の汗の浮いた肌を上気させた将門が言い放った。
「子春丸よ。連日荒天の中の荷役、大義であったぞ」
将門の前に通された子春丸が、鍛錬を終えたばかりでまだ少し息の上がった様子の主のねぎらいの言葉に畏まって平伏する。
「食事は皆の分を別席に設けてある。今宵はゆるりと休んでいくがよい」
「有難き幸せにございまする」
「ところで、そなたは上総とも行き来があると申しておったな?」
「それほど足繁く通ってはおりませぬが、直近では先月とある取引で房総へ立ち寄ったばかりにございます」
「……何か、変わった動きは耳にせなんだか?」
「良兼様ら一党の動きでございますな……?」
子春丸が顔を上げる。
「今のところ大きな動きは見えませぬ。富嶽の噴火で既に来年は凶作と決まっております故、大きな企てを起こそうにも、そもそも兵らの扶持に事欠くことになりましょう。……何より、御上からのお触れが大分効いておりますようで、此処のところ良兼様はすっかり塞ぎ込んでしまわれたと聞きまする。上総勢につきましては、暫くは安泰かと」
ほう、と将門は安堵の息を漏らした。
「それを聞いて安心した。来年は穏やかな一年を過ごせそうじゃ。田畑の実りの行方が気になるが、何とか今から節制せねばなるまい。子春丸よ、改めて大義であった。もう下がって良いぞ。皆と共に夕餉を囲むと良い」
「はは!」
内心ぺろりと舌を出しながら子春丸は畏まって退出した。
丁度その頃。
日中、中庭にて行われていた雪合戦の鍛錬を、終始濡れ縁より密かに観戦していた美那緒は自室にて悶々としていた。
「う……ん、……ふふ、うふふ……」
いやあれはもう筋肉の鬩ぎ合いと言ってよい。
寒さにもかかわらず上半身を露わにした将門や経明ら年若き従類らが、互いに身体を火照らせ、上腕二頭筋の躍動も見事に胸毛脇の毛も露わに鍛錬に汗を迸らせる姿は何という浮世離れした光景であったろうか!
「……うふ、うふふ」
作者も、これ以上何と筆致して良いか判らぬ。
(嗚呼っ! あの光景、……切り取って何処かに飾っておきたい。うふふふ)
そんなあられもない妄想に一人耽り火鉢の前でもじもじ悶々としていた時、
「――御前様」
突如敷居の向こうから呼びかける男の声に甘い夢想は破られ思わず「うきゃあ!」と声を上げた。
「だ、誰か⁉」
慌てて身繕いを正し簾を捲った美那緒の前に荷役の一人が畏まって控えていた。頬かむりをしていて素顔は見えぬ。
「何奴じゃ。女人の部屋に一人忍ぼうとは不届きぞ!」
「……ああ、久々に聞いても聞き違えることはねえ。……やはりその声は、俺達の頭目様じゃ!」
そう言って頬かむりをとってニッと笑ってみせる男の真っ白な前髪がばさりと顔に掛った。
「……まさか、シロか⁉ 無事じゃったか!」
若者とは思えぬ真っ白な髪に雪のような真っ白な肌、兎のように赤い双眸。
僦馬の党の副頭目、シロであった。
思わず美那緒はシロの首根っこに抱きつき嗚咽を漏らす。
「シロ、逢いたかったぞ。……皆は無事か?」
「若い奴らが何人かやられちまったが、フジマルもダンシも、コユウザも古株は皆無事でさあ。今日の荷役の内にも仲間の何人かを紛れ込ませていますぜ」
「すまぬ。俺はお前達を置いて一人逃げてしまった。許してくれ、どうしても謝りたかったのじゃ。自分が許せぬのじゃ!」
「なァに、何処へ消え失せたって俺達の頭目はあんたしか居ねえ。結局皆の帰る場所はあんたの傍しかねえんだ。地獄の入り口までお供しますぜ!」
それはそうと、とシロは不意に声を潜めて言った。
「……あの子春丸とかいう出入りの野郎。気を付けた方が良いぜ。良兼とつるんでやがる」
「まことか?」
驚いて美那緒は顔を上げる。人の好さそうな子春丸が敵の調略を受けているとは俄かには信じがたい。
「来年は戦はねえだろうとか調子の良いこと言って胡麻摺ってやがったが、あれは近いうちに上総は動くね。俺はそう睨んでる。……それにしても、」
苦笑しながらしみじみと変わり果てた己が頭目の単衣装束を眺めやる。
「暫く見ねえと思ったら、まさかお頭、将門の奥方にすり替わっているとはね。よく襤褸が出ねえもんだ」
今にも吹き出しかねぬ盗賊の配下に向かって頭目は胸を張って答えた。
「いつも言っていたであろう。俺は育ちは悪いが生まれは良いのじゃ!」
小用に立つと言って夕餉の席を中座した子春丸は、人目を忍ぶように営所の周囲を見回し、そっと気配を消して歩み進める。
勝手知ったる蔵周りもあれば、滅多に人の寄り付かぬ矢倉もある。どうせ足跡を残したところでこの雪だ。明朝には跡も判るまい。
――其の兵具の置き所、将門が夜の遁所、及び東西の馬打ち、南北の出入を悉く見せ知らしむ。
(……これだけ要所を抑えられて屋敷を囲まれたとしたら、到底将門様に勝ち目はあるまいだろうな)
一通り営所周りを巡回した子春丸は、肩の雪を払いながら神妙なほど無表情に夕餉の席へ戻った。
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