第1章 子春丸 1


 承平七(九三七)年師走。上総国武射郡屋形、平良兼営所。


 いつになく不機嫌な様子でむっつりと押し黙る良兼を前に、公雅、公連兄弟も控えめに言葉を交わす。

「やはり西国の乱が響いたのでしょうな。ここで大きな追捕令を出してくるとは。しかし、純友殿も頭から湯気が出そうな様子であったが、遂にキレておしまいになるとは」

「だからと言って将門に敵対する我ら全員を名指しで追捕することはあるまいじゃろうが!」

 声を抑えて囁いた公連の言葉を耳ざとく捉えた良正が激高して叫んだ。

 伊予国現役官僚が海賊に寝返り反乱を起こすという前代未聞の事件は、朝廷のみならず西日本全体を震撼させたのである。

 これは先手を打っておこうという朝廷の思惑か、昨今雲行きの妖しい坂東八国に、十一月五日付で源護、平貞盛、公雅、公連といった常陸国に敵対すると思しき勢力を将門に捕らえさせるよう各国庁に追捕令が発せられたのである。尤も、後の祟りを恐れた各国府は誰一人将門へ直接追捕を命じることはなかったのだが、これは事実上、坂東八国の有力者、即ち坂東平氏一門で最も朝廷の信頼を得ているのが将門という実証に他ならない。当然将門勢は大喜びしたが、筆頭で名指しを受けた護は怒りの余り先月憤死してしまった。これで相当前に交わした護との約束が無効になってしまった良正の悲憤たるや、近頃は誰彼構わず当たり散らす始末である。

「しかし、追捕令まで発令された以上、今までのように各国に兵を募るわけにはいきませぬぞ。今の将門には朝廷の後ろ盾があるも同然。正面切って合戦すれば大逆行為と見做されかねませぬ。子飼渡の合戦では我が勢の兵力に手応えがあった。それだけに口惜しくてなりませぬ!」

 心底悔しくて堪らぬといった風情の公連に、流石の良正も重々しく頷いて見せる。

「甥御よ。俺とてそなたと気持ちは同じじゃ。しかし今戦を起こすことは出来ぬ。兵もうかうかと集められぬ。何か、裏をかいてあの将門奴をしてやれるうまい方法はないものかのう。このままでは舅殿も浮かばれぬわい!」

 ふいに良兼が無言で立ち上がり、そのまま黙って部屋を出ていってしまった。

 三人揃って顔を見合わせる。

「御父上には、何か良き考えがあるのかもしれませぬが」


 将門憎しは良兼も同じ。それも一門における自身の正当性をこの度の追捕令で奪われた今の彼が最も甥を憎んでいるのかもしれぬ。


 ――而るに介良兼、尚忿怒の毒を銜むで、未だ殺害の意を停めず。便を求め隙を伺ひて、終に将門を討たむと欲ふ。




 同月。下総国石井営所


 その年は珍しく坂東平野に大雪が降った。

 童らなどが雪合戦に興じていると思えば、珍しさの余りかいい歳をした伴類らまで喜んで雪の球を投げ合っている。

 つい最近まで戦続きであったとはいえ今年の実りは豊かであった。戦禍に焼かれた集落の者達にも施す程に余りあるものであったから、飢える者は少ないであろう。皆いくらか心にゆとりができ始めていたのであった。

「……寒さが傷に響かぬか?」

 火鉢に手を翳していた美那緒へ、そう言って優しく声を掛けてくるのは将門であった。傍らに経明を連れていた。所々雪塗れでほんのり肌が上気しているように見える。おまけに腕まくりまでしている。

「主様も雪合戦を?」

「まさか。……鍛錬じゃ!」

 強がってみせる将門の上気した二の腕に釘付けになりそうになるが、隣で経明が大きなくしゃみをしたので思わず吹き出しそうになった。

「もう腕の方は大丈夫でございます。何なら、鉾の一振り、やすやすと御覧に入れましてよ?」

 満更強がりでもなさそうに言って見せる美那緒に、「おお、そうか。ちょっと待っていろ」と言って二人を残して何処かへ行ってしまった。

「……寂しくはござらぬか?」

 ふいに経明が口を開く。

「……萩野の事でございますか?」

 顔を上げて経明の表情を見る。美那緒には何とも答えようがなかった。萩野の喪失を、経明の方がずっと心を痛めているように見えたからである。

 そこへ、長いものを携えた将門が、今度は別の者を従えて戻ってくるのが見えた。

「これは、……鉾ですか?」

「普段そなたが使っておったものと同じものを誂えてもらっておったのじゃ。あれは豊田に置いてきてしまったからのう。もう振れるか?」

 そう言われ、ぽんぽん、と手の上で慣らしてみる。鋼の鍛え方が良いのであろう。自分が使っていたものより随分軽い。

 立ち上がり、濡れ縁から雪駄を履いて中庭に下りる。周囲の者達は間合いに入らぬよう場所を開けた。

 鞘を払うと、これも自分がかつて使っていたものと同じ、後世の薙刀に尤も形状と扱い方の似ている鯰鉾である。

 ふっと無言の気迫を込めて二度三度円舞を描くように鉾を振るう。矢張り軽い。打撃に不安はあるが、切れ味の方はどうか。実戦で試してみるより他はない。

 美那緒の鉾捌きを無言で見ていた三人であったが、先に一人の男がパチパチと手を叩いて喝采した。

「やあやあ、噂に聞いた上総の夜叉姫の鉾捌き。某、眼福でございました!」

「恐れ入ります。……あなたは?」

 おっと、と頭を掻いた男が腰の低い態度で頭を下げる。

「こちらの御屋敷で物入りの際の出入りをさせて頂いている子春丸と申しまする。今日は冬菜と魚を運ばせてもらいに来たんですがね。そこで丁度大将にお声を掛けてくださいまして。この通り、車を引いて行商も行っております。米でも味噌でも、何なら他国の面白い噂なんぞも仕入れてまいりまさあ」

「まあ、この大雪の中車を引いて回っているの? 大変ね」

「雪が固いうちはまあ、どうってことはないんですがねえ。泥濘んでくるとちょいと一苦労なんで。ま、これから一つお見知りおき願います」

「そういえばまだ美那緒には顔合わせしておらなんだと思うてな。何か入用がある際は遠慮なくこ奴に申し伝えると良いぞ」

「どうぞ、今後ともよしなに」

 久々に妻の鉾捌きを見て上機嫌の将門の横で、揉み手して笑う子春丸であった。

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