第5章 虎鳴 弓袋山の合戦 6

 

 同月二十三日。


 この日、将門勢による弓袋山南側裾野を中心とした筑波山に籠る良兼勢への本格的な総攻撃が開始された。

 ところが――

 

 ――山響き草動きて、軯諊とののしり誼譁とかまびすし。


 山中に立て籠もった良兼らは、後に加わった付近の手勢を合わせて千余り。

 山々を分け入って昼夜問わず捜索の手を伸ばす将門勢将兵らであったが、これに対し良兼らは上手く姿を隠したまま方々にて草木を打ち鳴らし、或いは茂みを揺らし、時には谺を上げて彼方此方から罵りかけてくるという撹乱戦を以って彼らを大いに惑わせる手段を取ったのである。


 うんざりした様子で経明が山狩りから帰投してきた。

「お手上げでござる! たまに正面から斬り掛かってくると思えば、良兼に与した地元の小勢ばかりじゃ。山道は馬は通れぬ、葉を落とした裸木の森じゃ、敵が身を隠す余地がないものと油断し進めば足元から落ち葉を被った敵兵が鉾で突き上げてくる。おまけに恐ろしく山は広い。奴らいつ飯炊きをしているのか炊事の煙も登りませぬ。毎日まるで同じところをぐるぐるじゃ。前線の将兵らは難儀しておりますぞ」

 苦渋の顔色で遂高が訴える。

「いっそ筑波山を焼き打ちしたらどうじゃ? 敵諸共にな!」

「はは。某もそれが最善の案かと一瞬思ってしまいましたわい」

 満更冗談に聞こえぬ様子で主と共に乾いた笑い声を上げる。

「山城でも築いてくれればこちらも攻め様があるのですが、すっかり山に溶け込まれてしまうと此処まで攻めるのに難儀するとは。敵も考えましたな」

「まさか尾根を伝って筑波山の裏側へ逃げ去ったわけではあるまい。良兼は確実に弓袋山周辺におるのじゃ。引き続き草の根分けてでも探し出せ!」



 とうの良兼勢は、幾度も将門の山狩りや挑発的な簡牒を送り付けられても動じることなく匍匐ゲリラ戦に徹していた。

 しかしその実、その将兵達の消耗は肉体的にも精神的にも頂点に達していたと言っても過言ではない。

 日中は地虫の這いまわる落ち葉の下に壕を掘り常に矢を番えて敵を警戒し、夜は弓を枕に仮眠を取りつつも夜襲に備えねばならぬ。殊に今は晩秋、煮炊きはおろか暖を取るために火を起こすことも碌に叶わず、雨の降る日など堀った壕に半分雨水に漬かりながら震えておらねばならぬ。

 良兼らの本陣は、弓袋山からやや離れた南側の沢沿いに灯を隠すように布陣されたが、こちらもいつまでも捜索の手を緩めぬ将門勢の執念深さに厭戦の空気が漂っていた。

「……これではまともな戦になりませぬな」

 困ったように良利が唸る。

「戦の勝敗を決めるには大将首を上げるが道理、それには正面からの合戦が基本にございます。……しかし我が直下の従類らは百に足らず。周辺の味方勢から千の援軍を得たにしても敵が目を光らせておる故、互いの連携もままならぬ有様。山に隠れて飯を炊くにも気を遣いながら伏兵戦にもつれれ込んでいるうちに、やがて雪が降り出しましょうぞ。そうなっては戦が続けられませぬ。ただでさえ待機中の将兵の疲労消耗が激しうございまする」

「せめて各援軍との軍議の場を設けることが叶えば反撃の方法も思案出来得るのじゃが……」

 公雅が悩まし気に腕を組む。

「きっとそこへ鬼のような形相をした将門が攻めてくるぞ。山を丸ごと焼き払うような勢いでな!」

 良兼もうんざりした様な顔で呟いた。

「……油断したわ。あの将門があそこまで盛り返すとはな」


 良兼勢は碌に反撃のできないまま、将門勢はとうとう良兼を見つけられぬままに、筑波山がうっすら白み始める頃には皆それぞれ引き上げていったという。


 この年は例年にない豊作として実り豊かであったというが、戦場となった周辺は田畑を兵馬に踏み荒らされ、折角の収穫も兵糧として皆徴発され、領民達の嘆きの声は筑波山に響き渡ったと伝えられている。




 ……単衣の衣装を誂えられ、髪を結い、身なりの整えられた娘が美那緒として将門と再会したのは、新たな拠点地、石井営所に到着した夜の事であった。


 きっと一目で見破られると思った。

 此処まで来たからにはもう逃げられぬ。

 どうせバレればその場で切り捨てられるか、散々に攻めを加えられた後に嬲り殺しにされるのじゃ。ならばいっそ開き直って将門の妻とやらを即興で演じて見せてやろうか。

「お久しゅうございます。主様」

 精一杯の澄まし顔に微笑を浮かべて見せてやる。さて、この大将はどんな顔色を見せてくるか。

「美那緒……」

「――え?」

 しかし将門は美那緒と偽った娘を目の当たりにするなりその場に崩れ落ち、声を放って号泣したのであった。

「……すまぬ! すまぬ! この俺さえついていれば! ……うああああああ!」

「あるじ……様?」

 思いもよらぬ事態に娘はただおろおろするばかりである。

 主の号泣に、気を利かせて老侍従は静かに部屋を退出した。後には二人のみとなり、将門の男泣きばかりが部屋に響いた。

「あ、……主様」

 将門は床に伏せたまま声を上げ続けた。あれ程までに猛々しく荒れ狂い、常に戦場の先頭に立っては、鋼のような筋肉で常に敵を圧倒してきた男が、自分一人小娘の前で声を放って泣いているのが信じられなかった。

 その様子を為すすべなく見つめているうちに、いつしかたまらなく哀切を覚える未知の感情が娘の芯に芽生えつつあった。

「ああ、美那緒よ。……もっと近う顔を良く見せておくれ」

 ぎくり、と身を強張らせる娘であったが、ただ、目の前の余りに脆い有様を手放してしまうことが出来なかった。

 男の頬に触れる。男もまた同じように触れる。ただ、男のなすがままに任せた。嫌ではなかった。ただ、温かく、そして力強かった。

 知らず娘の頬を涙が伝った。

「……! 美那緒、腹の子はどうしたのじゃ?」

「……ごめんなさい。ごめんなさい。うあああああん!」

 もう嘘をつき続けるのが辛かった。

 只々わけもわからず涙が止まらなかった。

 しかし、もし自分が今全て偽りだと突き放してしまったら、自分はどうなるだろう。そしてこの男の心はどうなってしまうだろう。

「ああ、もう良いのだ。そなたさえ無事でいてくれれば俺はもう何もいらぬ」

「主様、……主様ぁ!」

「……美那緒よ、我が妻よ!もう二度とこの手から離したりはせぬぞ!」

 涙に咽ぶ娘を、力いっぱい胸に抱きしめる。


 その鋼のような武骨な胸板の温かみに触れ、娘は再び感極まって泣いた。



 ……この日より、僦馬の党の女頭目は、将門の妻、美那緒として生きていくことになるのである。

 


                        第一部 終

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