第5章 虎鳴 弓袋山の合戦 4


 ……古くは、皇族直系の藤原家に所縁のある娘であった。


 しかし臣籍降下の殿上人も、三代下れば鳥羽の遊女に見かけると譬えに言われる程、貴族の身上とは決して安泰ではない。

 娘の家もまた、裕福な主家の後ろ盾を失い没落した。

 幸い母が更衣の血筋で、その縁あって寺に預けられることになったが、その寺もまた生家と同じように大家の庇護を失くしやがて廃寺となった。母の指導や寺での教育で手習いや字の読み書きを学んでいた娘は、やがて貴族の侍女となり束の間の平穏を手に入れたが、その貴族も凶賊に家を襲われ一家皆殺しの目に遭った。この娘たった一人だけが、その難を逃れたのだった。

 生来勘が鋭く頭の切れる娘の元には、いつしか似たような境遇の孤児達が集い始めるようになった。生き延びる知恵を授けてやる代わりに、その者らから鉾術や身を護る術を教わった。やがて京を離れ、下野街道に仲間を引き連れる頃には娘は僦馬の党の頭目となり、寺に囲われていた頃の名残のように黒裏頭を皆で揃いで被り、少女らの一味は都周辺に悪党の名を響かせることとなるのである。

 皆、似たような境遇の者達ばかりであった。

 疫病で家族を亡くし孤児となった者。

 人買いから逃れて来た者。

 生きるため止む無く人を殺めてしまった者

 身体の異常から生まれ故郷に居られなくなった者。

 すぐに死ぬ者もいた。都からずっと共に居る者もいた。

 来る者は拒まず誰であろうと迎え入れた。

 誰であろうと家族同然の者達であった。

 皆が自分を慕ってくれた。


 ……それを、今、見捨ててきてしまった。



 既に日は暮れた。辺りは闇に包まれている。

 どれほど当てもなく真っ暗な山中をさ迷い歩いただろう。確か弓袋山の方へ走って逃げてきたはずだが、筑波山の裾野は広い。自分が何処にいるか皆目見当もつかぬ。

 幾度も足元を取られ地に転びながら、それでも歩みを止めず暗闇の森の中を手探りで進んだ。

 良兼勢はこの山の何処かに隠れ潜んでいるという。ならば一度ならず手を組んだ誼じゃ。自分を匿ってくれるはずじゃ。きっとどこか山の奥深くに朱旗を掲げて陣を結び篝火を煌々と燈しているはずじゃ。

 だが待てよ。将門もまた良兼の行方を追っているはず。日の落ちた後もこの山裾を松明を手に隈なく探し回っておるかもしれぬ。

 ……だとしたら、今に将門が自分を追ってきはせぬか!

「……ひ、ひいいいい!」

 それを思い浮かべるたびに頭を掻きむしりながら、頭目は泣いた。もう黒裏頭は何処かへ脱げてしまった。

 今は鎧も何も纏わない、衣一枚、脇差一本の只の少女である。

 手下達は無事だろうか。シロやフジマルは身を挺して自分を将門から逃がしてくれた。しかし、配下の中には、自分達を見捨て頭目一人だけ逃げ出したと恨みに思っている者もいるかもしれぬ。

 その後ろめたさを思うよりも、今は身に迫る将門の影が恐ろしかった。

 馬上から、地面に転がる自分目掛けて容赦なく振り下ろされる長鉾の刃が、猛虎の鋭い爪の如く自分の背後に今まさに振りかざされているようで歩みを止めるのさえ恐ろしかった。


 ……逃げなければ。


 ……将門から逃げなければ。


「うあああ、……うああああん!」


 ……虎から――恐ろしい虎から早く遠くに逃げなければ。



 ふと、微かに灯が見えた。

「……ああ!」

 近づくと、ぼんやりと将門勢のものではない赤い長旗も見える。


 ……良兼勢。友軍じゃ。助かったのじゃ。


 今助けを求めれば、まだ戦っているかもしれぬ仲間たちを救うこともできるかもしれぬ。きっと未だに自分の助けを待っているに違いない!

 俄かに頭目としての責任が芽生え、娘は灯の方を目指して走った。


 喜び勇んで駆け寄った足が、不意に止まる。


 友軍ではない。

 良兼旗に交って将門旗も幾本も突き立てられている。

 甲冑を脱ぎ捨て、火を囲んで酒盛りをしている男達が数人。

 その傍には戦利品であろう家財道具や寺の仏具、縛められ散々に嬲りものにされたと見える虚ろな目をした女達が転がされていた。

 頭目らと同じく戦火に便乗した別の野盗達の巣窟であった。

「あ……」

 男達が一斉に振り向いた。

 もしこの時娘が黒裏頭を巻き甲冑を纏い、自慢の鉾を手にして現れていたのなら男達の態度は変わっていただろう。

 しかし、今の頭目は只の一人の娘である。

 男達の目の色が変わる。

「……女じゃ」

「女じゃぞ!」

「ひ、……く、来るなあ!」

 口々に女女と叫びながら駆け寄る男達に、逃れようと踵を返した娘は忽ちの内に組み敷かれてしまった。

「待て、儂が先じゃ!」

 野党の親玉らしき一際ひときわ大きな男がうつぶせの娘の衣に手を掛けようとするのを娘が咄嗟に脇差で毛むくじゃらの腕を切りつけ、大男は悲鳴を上げて飛びのいた。しかし娘の四肢を押さえつける他の男達の縛めの手はびくとも緩まない。

「嫌じゃ、嫌じゃああー!」

「このアマっ子が!」

 仰向けに転がされしたたかに頬を張られた娘の頬を涙が伝う。

 娘は未だ男を知らなかった。

 所詮、このような形で奪われるのが自分に当たった罰なのだ。

 あとは他の女たち同様、散々玩具にされて売られることだろう。


 結局、虎に食われずとも、狼に貪られる。

 ……これが、自分の運命だったのだ。


 男達に手足を抑えられ、切り裂かれた衣から覗いた乳房へむしゃぶりつかれた時、「ぎゃあああ!」と最期に抵抗するように娘は叫んだ。


 その時、ひゅう、と戦で聞きなれた矢羽根の風切り音が聞こえた。

 同時に、二人の男が悲鳴を上げる間もなく倒れた。

 異状を察し、立ち上がった残り三人の男もまた揃って崩れ落ちた。


「……外れじゃ。只の野党じゃ。良兼の手勢ではない。おい、娘。やられる前で良かったのう」

 二本の矢を同時に、続けて三本の矢を同時に放ち敵を仕留めるという神業を続けざまに放ち、飄々とした様子で現れたのは将門忠臣、経明であった。ぞろぞろと配下の者達も現れ、縛められた女達を介抱していく。

「うん……?」

 娘に自分の戦羽織を被せてやっていた経明が、何かに気づいたようにじっと自分の顔を見つめてくる。


 ああ、何のことはない。

 男達の慰み者にされる代わりに、自分は此処で首を討たれるのだ。

 それでも良い。

 此処まで将門の手が伸びているのであれば、きっと手下達も皆もうこの世にいないだろう。

 きれいな身体のままで仲間たちのところへ逝ける。

 ふっと娘は目を閉じ、死を覚悟した。


 しかし次の瞬間に経明の口から発せられたのは娘の思いも寄らぬ一言であった。


「――まさか、御前様か? 生きておられたか⁉」


 経将の言葉を夢現に、娘の意識は遠のいていった。

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