第5章 虎鳴 弓袋山の合戦 1


 承平七(九三七)年、長月。上総国武射郡屋形、平良兼営所。


 庭園の植え込みに残暑の日差しが麗らかな木漏れ日となって煌めき、時折秋蝉の声が盛夏の名残のように聞こえる普段なら閑静な屋敷であったが、この日は何やらピリピリとした緊張が営内の者らに不穏なものを感じさせていた。


 まさにその穏やかならぬ空気の発生源となっている応接間にて、上座で扇子を弄びながら思案顔でくうを見つめる良兼の横で、青筋浮かべた良正が歯軋りしながら目前で畏まる目の細い優顔の男を睨みつけている。

 その怒りの籠った視線の先に一見遜りつつも何処か不遜気な態度で居座っているのは、わざわざ 筑波からの使者として二人に呼びつけられた菅野白氏である。

「……では、これだけ申しても真樹奴は我らに屈服せなんだな? そうなんじゃな、ええっ‼」

 唾飛び散らし咬みつかんばかりの良正の恫喝も柳に風といった風情で「へえ」と白氏が何とも困った様子で微笑んだ。

「貴殿らが仰るには、筑波山の虎退治をしてやった。ついては筑波の安泰を保証してやるから我が主はじめ筑波豪族らは貴殿ら一門に帰順せよ。とのこと。ですが、そもそも肝心の虎の首とやらをまだ拝見しておりませぬ故帰順も何もありませぬ。我が主曰く、虎の皮一枚でも筑波までそちらから持参してくるがよい。そしたら其許ら所望の通り真壁も新治も丸ごとくれてやる。とのことでございます。はてさて、一体如何なる虎退治の成果を我らに披露してくれるのやら、某も楽しみでございますなあ」

 うふふ、とさも小馬鹿にしたように袖を口に当てて含み笑いを覗かせる白氏に、とうとう良正は激昂して立ち上がった。

「あまり調子に乗るなよ田舎者風情が! 貴様等筑波の山猿など我が精鋭が豊田を一夜で壊滅させたが如く焼き払うのは容易いことじゃ。我らが討伐の為動いた後にお前達がいくら命乞いなぞしようとも一切耳を貸さぬぞ!」

「おお、怖い怖い。お言葉ですが介殿、あまり我らを侮らぬが宜しい。筑波に潜む猛獣は将門殿お一人のみとは思わぬことじゃ。恐ろしい白蛇や蝮の類もとぐろを巻いておりますことをくれぐれもお忘れなきよう。……では失礼いたす。水守の鯰殿」

 捨て台詞を残して席を立つ白氏の後ろ姿に、ぎりぎりと歯を軋らせながらも席に着いた良正が、当たりつけるように居並ぶ者をどやしつけた。

「……公連よ、まだ将門の骸は見つかっておらぬのか⁉」

「はあ、引き続き俘虜や豊田の領民を捕らえ厳しく尋問しておりまするが、やはり傷を負い幸島郡葦津の江に逃げ延びた後の彼奴の末路はおろか消息も掴めておりませぬ」

 気圧されたように恐れ入って答える弟の後を継ぐように公雅が続ける。

「それに、将門勢残党の動向も今のところ全く動きが掴めませぬ。堀越渡の夜襲では幕僚を一人も討ち取ってはおりませぬ故、腹心の多くが各所に身を潜ませていると推察いたしまするが。……もし将門が本当に死んだというなら、何らかの復讐の動きを企てても良いはず。ならばこちら方にその動きが掴めぬはずはありませぬ」

「将門がまだ生きているというか?」

「恐れながら、恐らくは」

「何をそんな、馬鹿なことを!」

 そう吐き捨てつつも、公雅の言葉に良正が頭を抱える。生きておられたのでは、随分前に交わした護との約束の件、反古にされてしまうではないか。

「……ときに、美那緒の遺骸はまだ見つからぬか?」

 不意にそれまで沈黙に徹していた良兼が問う。

「は。侍女の亡骸は既に丁重に供養を済ませておりますが、妹はまだ」

「ふむ……」

 そう唸った切り、再び黙り込んでしまった。




 同月、下総国石井庄。


 既に将門の傷はほぼ癒えていた。


 夜襲敗戦の後、各地に逃げ散っていた将門腹心らは敵の目を搔い潜りつつ、近隣の旧領地、石井の郷に身を潜ませ主の傷が癒えるのを待っていたのである。

 しかし誰一人、今の彼に声を掛けることが出来る者はいなかった。

 主の無事を喜び駆け寄る者も、その背中を一目見るなりハッと口を噤んだ。


 萩野の亡骸は戦の翌日に打ち上げられ、良兼方の手に渡ったという。

 経明の嘆き様は一入ではなかったが、美那緒の行方はまだわかっていない。

 おそらくは――。



 その夜、堀越渡の敗戦以来初めて陣中に将兵が召集された。

 将頼、遂高、経明、好立といった歴戦の猛将から、筑波の真樹、白氏といった将門勢同盟の者達まで一通りが一同に帰したのである。

 今日まで、主君の姿をまともに目にした者はいない。

 故に、彼の心中がどのようなものか、推し量ることは出来ようとも、それを彼の挙動に見た者はいない。

 ……否、出来なかったのである。

 篝火がパチリパチリと音を立てる中、彼らは久方ぶりに主人の顔を前にして、思わず陣の中央に本物の狂える猛虎を見たと錯覚した。


「……皆よ。参集大義であった」


 久しく耳にする、懐かしい、耳慣れた主のねぎらいの言葉である。

 しかしその発せられる響き、吐息に、これがあの優しき主から発せられた言葉かと耳を疑うような、その場にいるものすべてがはっきりと虎の咆哮を耳にしたと感じたのである。


「これより――良兼一門を皆殺しにするぞ」

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