第4章 子飼渡の合戦 5



――時に、昼は人の宅の甑を収めて、而も妖しき灰、門毎に満てり。夜は、民の烟に煙を断ちて、漆の柱、家毎に峙てり。煙は遐に空を掩へる雲の如く、炬は邇く地に散るの星に似たり。


 八月七日早朝、豊田郡の大半は壊滅していた。

 住民の殆どは経明の誘導で無事であったものの、周囲の家屋敷は皆焼かれ、経明自身も深手を負い、戦線を離脱せざるを得なくなったのである。



 同月十七日、同郡下大方郷堀越渡、将門陣営。

「兄上、様子は如何じゃ?」

 冷汗を浮かべながら本陣に居座る将門に将頼が心配そうに問う。

「強がりを言っても始まらぬな。御覧の通りじゃ。馬にはとても乗れぬ。ここに座っておるが精一杯じゃ」

 無理に笑ってみせる声音も弱弱しい。矢を受けた左足は倍にも膨れ上がっていた。

「それより思いの外兵が集まってくれてよかった。五百はおるか。御厩を失ってしまったのは痛恨じゃが、この陣であれば徒兵でも十分いける」

「……ところで、真樹様の援軍は来られそうか?」

 将頼の問いに、遂高が首を振って答える。

「鬼怒川を抑えられてとてもこちらに渡れそうにありませぬ。無念でござる。せめて白氏殿一人だけでも着いてくれれば心強いが」

「……はは、……不甲斐ないな」

 将門が自嘲するように笑う。

「野本でも、川曲でも、……そして下野国境でも敵の兵力は圧倒的じゃった。敵の士気も矢の数も我らより数段上じゃった。それでも俺は皆を率いて戦った。そして圧勝した。……それがどうじゃ。たかが敵の矢一本でこの有様は。――ぐううっ!」

「殿っ⁉」

 突然頭を抱え込んで蹲る将門に皆が駆け寄った。

「頭が……痛い。……割れそうじゃ!」

「薬師を呼べ。毒が頭に廻りかけておるのかもしれぬ!」

「俺は……良い。大したことではない。全軍の指揮は将頼に任せる。……それよりも遂高よ、美那緒と……萩野を、何処か安全なところへやってくれ……」

「は、必ず!」

「頼む……ぞ。美那緒は、……身重じゃ。もし俺に万が一があっても、……次に繋ぐ命だけは……残さねばならぬ!」

「担架を支度せい。殿を陣から移すぞ!」



 同じ頃。同郡来栖院常羽御厩跡、良兼本陣。


「そうかそうか。甥奴、本陣で毒に苦しみ呻吟しておるか。これでは坂東の虎も形無しじゃのう!」

 忌々しい相手の苦しむさまを想像し痛快でたまらぬとばかりに良正が膝を叩きながら、ご満悦の表情で骸骨のような老人から酌を受ける。骸骨もまた返しの杯をチロチロと青黒い舌で舐り回しながらケタケタと笑い声を上げた。

「今に毒が全身に廻り、やがて足は腐り落ち両目から血を噴き散々にのた打ち回った挙句に死ぬでしょう。ヒヒヒヒヒヒ、愉快愉快!」

「まことに護殿には感服仕った。単身将門を射止めて戻られるとは。百の将にもまさる武勲ですぞ。流石は我が妻の父君。嵯峨源氏の面目大いに躍如してくれましたぞ!」

 高笑いし酒を汲み交わす叔父と骸骨もとい明日にでも骨上げされそうな風貌の祖父の横で渋そうに公雅は杯を呷った。武士ならば刀と矢で勝負すべきであろう。毒を用いるとは情けなし、何をこの二人は得意になっておるのじゃ!

 その更に横でもっと面白くなさそうな顔で手酌を煽っているのは公連である。あそこであの頭目に蹴り落とされていなければ今頃俺の手柄だったのじゃ。あの黒頭巾、見かけたら必ず成敗してくれる!

 そこへ現れたのがあの頭目であった。

「な⁉」

 公連が思わず腰を浮かしかける。

「おお、貴殿も一杯やらぬか? 何でも我が甥と逃げる将門勢の先陣争いで競り勝ったとか。殊勝な心意気よ。予直々に一献進ぜようぞ」

「そのような渋い酒などいらぬ!」

 上機嫌で銚子を差し出す良正に目もくれず、中央で従卒に酌を差せている良兼を真直ぐ見つめて頭目は口を開いた。

「御大将。決別申し上げる。この度の戦の勝利、我ら一党到底納得できるものに非ず。よってこれにて戦線を離脱し申す」

 この言葉にほろ酔い心地の良正が目を剝いた。

「な、何を勝手なことを申すか! 自分から加わりたいと申し出て来たくせに。それに傭兵とて敵前逃亡は死罪じゃぞ!」

 激昂する弟を他所に、良兼は穏やかに笑う。

「まあ、よい。今までご苦労であったな。挙げた首級の分の報酬は後で届けさせよう」

 良兼の寛容な態度に、頭目もその場に平身低頭し礼を言う。

「いずれ将門仇敵とする思いは御大将と同じにございますれば、縁あればまた他日。御免!」


 陣の外に出てみれば、焼けつくような残暑の日差しである。

「……それにしても、先日の大荒れが嘘のような晴天じゃ。戦の骸の死臭が此処まで匂ってくるわい」



 堀越渡の将門陣営に良兼勢が夜討を仕掛けてきたのはその日の夜の事であった。

(夜襲戦を迎え撃つには、戦況並びに各陣営を備に把握し、兵の信頼を一身に集め、的確な指示と何よりも闇夜を焦がすほどの士気を高められる指揮官が采配せねば対応できぬ。……兄上不在のところを上手く狙ってきおったわ!)

 小山が燃えているような敵の篝火の群れに囲まれ、将頼勢は完全に苦戦していた。夜に紛れ脱走する将兵も多かった。


 将門は近しい従類らに伴われ、戦傷が癒えるまで香取の畔、幸島郡葦津の江に身を潜めることとなった。

「萩野よ、万が一のことも考えられる。美那緒を連れて船で沖に逃げよ」

「主様!」

 泣いて床の上の夫に縋り付く妻を優しく諭すように、将門は力なく微笑んでその掌を握り返した。

「大丈夫じゃ。こんな傷、一晩もすればすぐに収まる。すぐにでも傷を癒し、皆が戦っている堀越渡に戻らねばな!」

「主様、どうか御無事で!」

「暫しの別れじゃ。もう行け。沖に出たら篝火を消してゆくのだぞ!」


 これが二人の最後の別れとなった。

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