第4章 子飼渡の合戦 4


 ――其の日、明神怒り有りて、悎かに事を行ふを非とす。


 雷に遅れ、矢合わせと共に銅鑼や法螺が吹き鳴らされる頃には小貝川河中は朱の血飛沫が飛び散り、流れを染めた。

 土砂降りの雨の中、両陣営、鬨の声も高らかに馬は川を渡り、徒兵もそれに続き水を漕いで激突した。

 これまでの経てきた合戦の規模にない、まさに人馬入り乱れての混戦と化したのである。

 しかし、これまでと全く異なる勝手に将門勢を手こずらせたのは敵の数などではなかった。

(強すぎる! なんじゃこの度の良兼勢は⁉)

 冷汗か兜を伝たり落ちる雨水かに顔中をびっしょりと濡らしながら、鍔競り合う良兼武者を相手に経明は驚愕を隠せなかった。

 他の将門勢も苦戦していた。この土砂降りで霧さえも翳み始めている視界の中で、濡れた小手を滑らせることもなく正確に矢をこちらに射かけてくる。下野国府で戦った新米騎馬さえも見事な用兵に沿ってこちらへ鉾を繰り出してくる。

 将門は油断していたのである。ある意味、前座の肖像焼きの余興が悪い意味で効いていたといっても良い。

 将門は、これまでの良兼勢と同じく地元で搔き集めた半農領民を寄せ集めただけの大軍と侮っていたのであった。そこへ今し方俄かに高まった兵達の高揚が初太刀の油断をも伴った。

 しかし今ここに集っている敵将兵の多くは、伊予にて海賊討伐に従軍し、船上の足元覚束ない中で太刀を振るい、矢を構え、霧中の瀬戸内の視界不良の中敵船団を補足追撃するほど目端も鍛えた強者達であった。熟練の指揮官、古参兵の増強は、それだけで部隊における新兵の用兵能力も格段に向上させる。

 敵味方も分かたぬ悪天候の中、泥濘に馬が足を取られればたちまちのうちに徒兵らに討ち取られ、転んだ徒兵は騎馬兵の鉾に串刺しにされる。

 一騎討が主流の坂東の陸上戦闘では未だ類を見ない、伊予の海上戦闘ならではの集団戦法であった。


「狼狽えるな、隊列を整えよ!」

 周りが敵か味方かもわからぬ中、西岸の本陣に一旦引いた将門の声に、応っ! と答えた者の声数に思わず将門は振り向いた。

「――たった、これだけか?」

 総勢千五百を超えていたはずの自軍は、今ざっと見渡す限りで百にも満たない。

「将頼! 何処に居るか⁉」

「ここに!」

 傍らで、同じく絶望の表情を浮かべる弟が弱弱しく返した。最早将門は周囲を冷静に見る目を失いつつあった。

「経明は、遂高は、好立は何処に居るか⁉」

「ここに!」

「御前に下りまする!」

 慌てふためく主の様子に、将兵達もみるみる戦意を失っていく。

「殿、退きましょう。この戦は、最早我らの負けじゃ」

 遂高の具申に、誰も反対を述べる者はいなかった。将頼も力なく肩を落とす。

「経明よ、頼みがある」

「は!」

「我らが此処で引けば、彼奴等大挙して豊田を焼き払いに掛かるであろう。先行し領民らを避難させるのじゃ。美那緒や、萩野の事も頼んだぞ!」

「……承知仕り候!」

 自軍の敗北を改めて実感した経明が、唇を噛み締めながら出立した。

「我らは鬼怒川を渡り川沿いにて夜営するぞ。水嵩が増せば敵も追ってはこれまい。増水する前に川を渡るぞ!」

 そう告げる大将の命令に答える声は、先程よりも力なく聞こえた。



「将門が退いて行くぞ! この戦は我らの勝利じゃ!」

 応おおおおおおおおっ! と、こちらは打って変わって勝利に沸く良兼陣営である。

「追撃するぞ。まずは豊田の常羽御厩周辺を焼き払うのじゃあ!」

 同じく俄然元気を取り戻した良正が声を張り上げて指図する。

「叔父上、将門本隊は我らが追います故、叔父達は負傷者の手当てをお願いいたしまする」

 見事な葦毛に跨った公連が良正に馬を寄せ指示を仰いだ。

「おお、では頼んだぞ。 絶対に取り逃がすなよ!」

「は!」

 敬礼し水嵩増しつつある小貝川を渡り終えると、何やら配下の他に馬を走らせ追ってくる者がある。

 すわ敵の残党か? と振り返ると、自軍と同行しているという僦馬の党の頭目であった。

 なんだ盗賊風情が。と鼻を鳴らす公連に馬を並べた頭目が「よう!」と声を掛けてくる。

「貴殿らも将門追撃を命じられたのじゃな?」

「そうじゃ。邪魔立てするなら承知せぬぞ!」

 嫌に気安く話しかけてくる頭目へさも軽蔑しきった口調で返す。

「時に将門奴は鬼怒川の方へ逃げていったというが、あちらの方か?」

「いや、もう少し南寄りの方角だったと聞いておるが――うわあああっ⁉」

 唐突に脇腹に蹴りを入れられた公連が見事に落馬する。

「御館様⁉」

 配下の騎馬達が主を助け起こそうと慌てて馬を止める。

「おっと足が滑ってしまったわ。この通り土砂降りなものでな。では先に行かせてもらうぞ!」

 呵々と笑いながら頭目は鬼怒川の方を目指しまっしぐらに馬を走らせた。

「将門と戦うのはこの俺じゃ!」



 幸い鬼怒川が増水する前に渡ることはできた。

 葦原に身を隠し、改めて自軍の状況を見ると、生き延びた兵力はやはり二百は越えぬ。深手を負った者は已む無く置いてきてしまった。今となってはそれが悔やまれてならぬ。

 ようやく兜を脱いで一息ついた将門のところへ遂高が歩み寄る。

「敵勢がすぐに鎌輪宿の営所を蹂躙することはありますまい。奥方の事は安心されよ」

「しかし問題は来栖院の御厩じゃ。敵はまず次の戦に備えて馬を欲しがる。確実に襲撃されるぞ」

「経明もそれを承知で動くでしょう。何しろ、奴は厩の別当じゃ」

「だからこそ、奴を一人で行かせてしまったことが悔やまれてならぬ。誰かもう幾人か配下をつけるべきであった」

「殿、あまり御心痛なさいますな。たかが一敗地に塗れただけでござる。今は次の戦に備える時じゃ!」


「将門っ! どこにおるかあっ‼」

 突如川向うから響く叫び声に、将門勢全員が思わず身構えた。

「相手は一人のようでござるが?」

「油断するな。囮かもしれん。周りに伏兵がわんさかおるやも」

「……いや、あいつは」

 将門が顔を上げる。

「何処じゃ、隠れてないで出てこいやぁ!」

「心配いらぬ。あの兵一人じゃ。俺が相手してきてやる」

「殿⁉ 何も御自ら出られなくとも」

 驚いて遂高が引き留めるも、将門は笑って答えた。

「前の戦の続きがあるでな」


「嗚呼っ! 逢いたかったぞ、将門!」

 水嵩の増してきた鬼怒川を、黒馬に跨り渡りながら近づいてくる頭目の頭巾は半ば崩れ、未だ振り続ける雨に濡れそぼった黒染めの衣は下に帷子も何も着けておらぬのか肌にぴったりと張り付き、身体の隆起が露わになっていた。

(……女?)

 そう言えば、野本の戦で討ち取った僦馬の党の一味も、年端もいかぬ女子供が少なからず加わっていたようであった。やはりそういった弱き立場の者達が、生き延びる術として野盗へと堕ちていってしまうのかもしれぬ。

(この娘も、その類か……)

「……俺も逢いたかったぞ僦馬の頭目よ。丁度負け戦に頭に血が上っておってのう。存分に鉾を振り回したいと思っておったところじゃ!」

 二人が川の中州に立つ。お互いが鉾を振りかざした、――その時であった。


「がっ!」

「将門っ⁉」


 突如向こう岸の茂みから放たれた矢が将門の右太腿を射貫き、堪らずに馬から転げ落ちた。

「殿⁉」

 端で見ていた配下達も川を渡り主の元へと駆け寄っていく。

「おのれ邪魔立てするは何者か!」

 怒りを込めた頭目の誰何の声に高笑いが響き渡る。

「ヒーヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒっ! 将門よ、倅らの恨み、これにて果たさせてもらったぞえ! その矢はのう、只の矢ではないのじゃ。直にお前は毒に侵され苦しみ悶えて死ぬのじゃ。ヒーヒヒヒヒヒヒヒっ!」

 狂った哄笑を響かせながら声の主が走り去っていく。

「おのれ待たぬか!」

 それを追おうと馬を返す頭目がふと足を止め、

「また勝負は次に持ち越しじゃな。……死ぬなよ、将門!」

 そう告げて対岸へと渡り去っていった。

 

「殿、お気を確かに!」

「大事無い。……どうせ虚仮脅しじゃ。……それより矢に触れるなよ。本当に毒矢かもしれぬぞ?」

 倒れた主を抱き起し矢を抜く遂高へ苦し気に将門が答える。将兵達が心配そうにその様子を覗き込んでいた。

「いますぐ場所を移すぞ。……敵に居所を掴まれた。……なるべく豊田の近くまで移動し夜営するのじゃ!」




 同日夜。豊田郡来栖院常羽御厩。


「――殿、お許しくだされ……」

 身体中に矢を負い、満身創痍の経明が悲壮な面持ちで膝をついた。

「わが使命、……遂に全うできませなんだ!」

 泣き崩れる経明の目の前で、将門軍の軍馬の要、常羽御厩営所が真っ赤な炎を上げて焼き尽くされていた。

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