第4章 子飼渡の合戦 3
同月六日。常陸・下総国国境、子飼渡に両陣営は小貝川を挟んで対峙していた。
野本・川曲や下野国府の戦いでは止む無く少数精鋭で戦うことになった将門であったが、幾度もの際どい合戦において勝利を重ねてきた彼は今や「坂東の虎」として八方に名を馳せたこともあり、常備軍の他にも各地から多くの兵が集い、両岸は川を挟んで両勢対岸を埋め尽くすほどであった。
「……まずいな。風が乱れておる」
良兼側の陣営に加わっていた黒裏頭の頭目が不安気に東の方を眺めやる。いつもはくっきりと彼方に望める筑波山が真っ白な靄にかかっている。
(これは、……一雨来るな)
同じく西岸の陣頭にて東の空を眺めていた将門もまた雲行きを察し内心で呟いた。川の水を見る限り上流ではまだ雨は降っていないようであるが、余り長期戦に縺れ込みたくはない天候ではあった。
身重の美那緒は萩野をつけて営所に留まらせていた。
矢合わせに先立ち、東の河川を埋め尽くす良兼勢の先頭へ、二人の従卒を乗馬させながら良正が進み出た。何やら従卒達に旗のようなものを包んだ竿を持たせている。
(ふん。今回は随分と一丁前に軍勢を揃えたようだが、今までのようにはいかぬぞ、甥奴が! 今日こそは川縁に這い蹲らせてくれる。そしてその首級を、この儂が直々に撫で斬りにしてくれるのじゃ!)
何やら自信満々に鼻腔を膨らませた良正が、対岸へ大きな怒鳴り声を発した。
「やいやい、坂東一の不義理者奴が、野本の舅殿や叔父上らへの狼藉千万、川曲では我らを虚仮にしよった所業に加え、下野では国守に恥を掻かせおって! 貴様の大それた悪行、この場でいちいち数え上げられぬ程であるわ。よくも今まで我らの仕置きを上手く躱してきたことだけは褒めてやらぬでもないが、今日こそはそうはいかぬぞ! われら一門の恥さらし奴、貴様に矜持があるなら、今この場で這いつくばって今までの罪の許しを請うてみるがよい」
ギャアギャアと鴉の喚くような叔父の戦口上にうんざりした様な顔で将門が返す。
「叔父殿よ。先に豊田を攻めてきたのはそちらではないか。何やらもうすぐ雨も降りそうじゃ。そんな長い前振りは良いから勿体つけずにとっとと始めたらどうじゃ?」
あからさまにに舐めくさった態度に将門陣ドッと笑い声が起こる。
「こ、この青二才奴! 相変わらず可愛げのない、いけ好かないところは父親と全く変わらぬ! ……しかしどうじゃ、この御尊影二柱を前にしても大きな口が叩けるかのう!」
パチン、と良正が指を鳴らすと同時に従卒達が携えていた旗のようなものが解かれる。
その全貌を目の当たりにした将門勢に大きなどよめきが走った。
――その日の儀式は、霊像を請ひて、前の陣に張れり。(霊像と言うふは、故上総介高
良兼勢が掲げて見せたのは、桓武平氏初代高望王、並びに将門の実父、平良持の肖像であった。この二柱に対し、軍勢を正対させるということは、況してや弓引くことあらば、坂東最大勢力である平氏一族からの破門は必至、ひいては統治を任じている朝廷に敵対するに等しく、また祖霊への最大の冒涜を冒すことに他ならない。
(どうじゃ。名のある絵師に書かせただけあってなかなかの達筆であろう。この俺でさえ父高望王の御霊像は恐れ多くて直視できぬ迫力じゃ。貞盛すらこの二柱の前に屈したのだぞ。さあ将門よ、すぐに膝を追ってその首差し出すが良いぞ!)
対岸は大騒ぎであった。皆、この二対の肖像を前にすることが何を意味するか理解していたのである。
「おい、誰か火矢を持て」
その為、将門が放った指示に周囲の従卒達は耳を疑った。
最初、対岸の将門が松明を持たせてごそごそしている意味がよく判らず、半笑いで勝利を確信しながらそれを眺めていた良正は、やがてそれが火矢を番えてこちらに向けて構えているのだと知るに及んで顔色を変えた。
「……おい、待て! 御霊像じゃぞ⁉ お前何を考えて――!」
バヒュウウウウン、と唸りと共に火の尾を引いた火矢は小貝川を飛び越えて高望王の尊顔に命中し、途端にめらめらと燃え上がった。
今度は良兼勢が大騒ぎする番であった。
「次!」
続けて将門の実父良持の肖像に火矢が命中する。二つの肖像が曇天の中燃え上がる様子は何かしらの神事のようで寧ろ神々しい有様であった。
祟りを恐れて頭を抱えるもの、只々呆気に取られて立ち尽くすもの。喧々囂々の良兼勢に対して将門勢は今ではしんと静まり返り、全ての将兵が先頭に立つ馬上の主を注視していた。その表情は燃え燻った肖像への畏怖にも勝る程に信頼に満ちたものであった。
既に賽は投げられているのである。寧ろ何を今更鯱張って額縁なぞ持ち出して縁起を担いでいるのか。
将門配下の戦への心構えはこれで更に固まったのであった。
ふん、と将門が鼻を鳴らす。
「下手な屏風を持ってきおって。次はもっと腕の立つ絵坊主に書かせるがよい。我が父上はもっと福々しい御顔をしておったし、俺は生まれる前に死んだ爺様の顔など覚えておらぬわ!」
応おおおおおおおっ!と将門勢から天を裂くほどの歓声が上がる。
「こ……こ、この罰当たり奴が、どうなっても知らんぞ!」
余りの当て外れに涙を浮かべて地団駄踏む良正を他所に、「ふむ」と本陣に居座る良兼が唸る。
「やはり要は将門本人か。あの甥奴をどうにかすれば敵勢総崩れ、か」
ちらりと傍らに並ぶ骸骨が如き老人に視線を流し、酷薄な笑みを浮かべて見せる。
「やはり貴殿の御活躍に、この戦の勝敗は掛かっておるものと見えますな。……頼りにしておりますぞ!」
突如、ドウ、と遠くで落雷が聞こえたかと思うと、途端に大粒の雨が降り出した。
「ひいい、祟りじゃあ、祟りじゃあ!」
と頭を抱えて怯え震えるのは良正と一部の良正将兵のみである。
「……まずいな。これは相当荒れるぞ!」
その一言が終わらぬうちに今度は更に近くで雷が落ち、それが両軍合戦の合図となったのである。
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