第4章 子飼渡の合戦 2


 ……或る夜更けである。


 上総国府を抜け出して以来、紅など引いたこともない。白粉など塗ったこともない。このような特別な夜を除いては。

 いつもの簡素な寝巻ではない。国衙に仕えていた頃に纏っていた上等な衣である。

 今宵忍んで来るある男を迎えるための、女として当然の支度である。

 やがて男の気配が近づく。足音を忍ばせながら簾を潜り、仄明るい灯に照らされたのは経明であった。

「萩野殿……」

 普段見られぬ女官然とした居住まいで寝処に畏まる愛する人の姿に、経明は思わず息を飲む。

「今宵で二夜目にございます。……お約束の通り、これきりの夜とさせて頂きとう存じまする」

 仮寝の間柄ならば三夜目はない。

 額づく萩野の両肩を、経明は堪らなく愛おし気に抱きしめた。



 翌朝。

 「……お約束の通り、これからは只の萩野。何卒、お情けはお忘れくださいますよう」

 すげなく伝える萩野に、経明は縋るように迫った。

「ならば二夜の思い出に、何卒後朝の歌を交わさせてくださらぬか?」

 それにも萩野は首を振り、ただ一輪の萩の花を差し出した。

「この一輪を歌の代わりに。二夜限りの愛の形見と思し召せ。……私には夫も子もいる身の上故……」

 ぽろぽろと涙を流す萩野に、経明はやがて毅然と立ち上がり、深く低頭した。

 もう言葉はいらぬ。

 まだ誰も目の覚まさぬうちに、一時の愛の形見を懐に、経明は寝処を後にした。






 同年葉月、豊田郡鎌輪宿周辺の河辺。


 時折吹く夏風にそよぐ田畑の葉擦れに陽炎が揺らめき、幻のような蝉時雨である。

 捕り餅を片手に蝉取りに興じる子供らを眺めながら、将門と美那緒は萩野を連れて久しぶりに川涼みに興じていた。

「あら、アケビがあんなに鈴なりになっていますわ!」

「ふふ、でもまだ固くて食べられなくてよ」

「秋になるのが楽しみでございますね! 忘れぬように目印をつけておかないと」

「はは。その頃にはその辺におる童共に先に食われてしまうでおろうて」

 川沿いの灌木に果実を見つけてはしゃぐ二人を、扇を使いながら微笑ましそうに将門は眺めていた。

 思えば戦続きであった。こうしてゆっくりと妻や侍女達とのんびり時間を過ごすのはいつ振りであろうか。

「まあ、可愛らしい、撫子や女郎花が沢山咲いてましてよ?」

「それに萩の花も。もう夏も盛りを過ぎてしまったわね」

「そういえば、二人の名前も秋の花から取られたものじゃのう?」

 ふと気が付いた将門が問うと、二人はにっこりと笑い合った。

「私の母が御前様の乳母を務めたのでございます。まことに勿体ないことながら、先に生まれていた私の名前に掛けて、女郎花から御前様の名をつけられたと伺っておりまする」

「言うなれば萩野と妾は姉妹も同じ。出来ることなら末永く共にいようと願っておるぞえ」

「勿体のうございまする。……あら?」

 不意に萩野が足元に何か見つけたようで、撫子や萩の綻ぶ叢を掻き分ける。

「まあ、桔梗の花も咲いておりますわ」

 見ればただ一輪のみ、薄紫の花弁を開きかけた桔梗の花がひっそりと咲き誇っていた

 傍らから覗いていた美那緒が、ふと懐かしそうに夫の方を振り返る。

「主様、あなたが妾を父の下から連れ出してくれた晩のこと、覚えておられますでしょうか?」

「勿論じゃ。その夜も確か、追手を躱して隠れておった茂みに、桔梗の花が咲き誇っておった。それも一輪のみでなく、葦の間をいくつもいくつも咲いておった。今思えば、季節柄、似たような花のホタルブクロであったかもしれぬが」

「いいえ、あれは桔梗でございます。あの時、一輪だけ摘んで懐に忍ばせてまいりました」

「ほう。あの季節に珍しいのう」

「実は今も大切な万葉の書に押し花として挟んでおるのですよ」

「万葉か。意外じゃのう。して、どの歌にその押し花を差しているのかな?」

「うふふ。内緒です!」

 顔を赤らめ結髪を揺らす美那緒の前髪を穏やかな川風がそよいでいく。

 突如、萩野が素っ頓狂な声を上げて飛び出してきた。

「きゃあ! 主様、なんかすごいお化けみたいな茸が! てか、茸これ?」

「ああ。これはキヌガサタケじゃ。これもこの季節には珍しいのう。食えぬことはないが、食ってみるか?」

「嫌です嫌です絶対嫌です!」

 全力で拒否する萩野の様子に大笑いする二人であったが、ふと、将門の脳裏に先日美那緒から告げられたあの夜の事が過った。


(――実はあの夜。主様の使いから指定を受けていた晩に限って、いつも妾の不寝番を務める侍女達が皆外していたのです。屋敷の灯も全て消され、すわ脱出の計画が露見したのかと血の気が引く思いでございました。しかし、こっそり門に近づいてみると、門番はおろか篝火も消され、普段閉ざされているはずの門が開かれていたのです。後は闇雲に駆けました。主様と落合い、香取海湖畔が見えた時に、漸く追手の呼子が追ってきたのです。今思えば、まるでわざと妾を屋敷から逃がそうとしていたとしか思えませぬ。何か父に企みがあったのやも――)


「……主様?」

 ふと物思いから我に返った将門に、いつになく美那緒が顔を赤らめ躊躇いがちに口を開いた。

「実は、……子を授かったかもしれませぬ」

 将門は目を剝いて美那緒の両肩を掴んだ。

「それはまことか⁉」

 傍で聞いていた萩野も「ええーっ⁉」と叢から飛び出した。

「よし、今日は飛び切りの祝いじゃ! 萩野よ、そのキヌガサタケを食膳に供する故、生えておるだけ摘んでまいれ!」

「ええっ! 絶対嫌でございますよう!」


 三人の歓声の向こうで、どんよりと東の空が曇りつつあった。

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