第4章 子飼渡の合戦 1
承平七(九三七)年皐月。上総国良兼営所。
良兼の子息、公雅、公連ら兄弟と配下の武将達が伊予の海賊退治の任務を終え、故郷の土を踏んだのは既に田植えも一段落し、夏草がそよぐ畦道を麦藁蜻蛉が飛び交う頃であった。
父の前に通された二人は笑顔で公務の労をねぎらわれる。
「遠方にての永の勤め、まことに大義であった。時に、伊予掾藤原純友殿の縁者である忠平様が昨年太政大臣に昇進されたと聞いたが、純友殿もさぞお喜びであったろうな?」
「ははっ。益々の御健勝であられました」
畏まって公雅が答えたが、嘘である。もう死にそうな様子であった。
海賊退治に関わる周辺公家からの毎時毎日の苦情やら対応要請やら、朝廷から連日のような状況報告の催促やらの事務仕事は文机を埋めるに止まらず彼の執務室いっぱいに堪りまくり、おまけに捕らえた海賊の殊遇対処や被害状況の実地検分、討伐の際には直接現場にて陣頭指揮に当たらねばならぬと内勤・外勤の同時進行によって超過勤務を軽々と通り越し、端で見ていても一体いつ寝ているのやら飯を食っているのやら、果てはいつ小用に立っているのかもわからぬ有様であった。おまけにたいして近しい縁者でもない忠平の一大出世の祝辞やら祝儀の準備も加わったときたもんである。
(あれはそのうち過労で死ぬか、いつかキレるかのどちらかじゃな)
内心独り言ちながら、「ところで」と話題を変える。
「我らの留守にしている間に、随分と坂東の様子がきな臭くなっておるように聞こえておりますが?」
兄の問いかけに隣の弟も居住まいを正す。良兼もウムと大きく頷きながら微かに身を乗り出す。
「既に耳にして居る通りじゃ。そなたら不在の間に三度の合戦があった。一つは野本。当初は嵯峨源氏と将門、その縁者の小競り合いじゃった。ほんの小さな火種であったが、これが全てを巻き込む大火となった。戦いの果てに我が兄国香は討ち取られ、石田を含む兄上の所領、譲殿の領地は焦土と化した。これに義憤に駆られた――というよりも争いに便乗したそなたらの叔父良正もまた豊田攻めを目論んだが鎮圧され、世間に恥を晒す具合となった。そして昨年、わが下総の将兵らを率いて余自らが将門奴の討伐を企てたのだが……結果として、戦は我らの負けじゃ。あの甥奴が、なかなか手強いぞ」
しかしそう語る良兼の口調はまんざら不満そうではなかった。
「しかし戦の目論見は成功したともいえる。ここまでは想定通りよ。何よりも、将門と手打ちを目論もうと大それた事を図ろうとした貞盛を我が陣中に加えることもできたしのう。それに、彼奴の戦法も大方読めた。次は我らこそ勝鬨を上げる番じゃ」
「では、父上は再び一戦を目論んでおられるのですね?」
公連が目を輝かせて問う。もう船上の海賊との斬り合い突き合いにはうんざりしていたところであった。早く坂東の平野を風切って馬を駆らせて戦いたいという思いがその双眸に溢れていた。
「うむ。二人には遠国より戻って早々に悪いが、早速次の戦支度をしてもらおう。他の武将達にもじゃ。いよいよ将持の倅とその一族を坂東から抹殺する。一人残らず撫で斬りにな」
一人含み笑いを漏らす父を前に、弟は戦の予感に目を輝かせる一方、兄は不動のまま厳しい顔で父を直視していた。
それぞれの表情を浮かべる二人の息子を前に父は言葉を続ける。
「この坂東、桓武平氏に頭目は二つと要らぬ。一つの勢力として一枚岩で坂東を治めねばならぬのじゃ。俘囚地がどうだのと寝物語をほざいて八国の治安を乱し、都に目を付けられるような振る舞いを為す馬鹿な不穏分子の倅は、豊田に籠る若造の内に摘んでしまわねばなるまいて。――その為に、わが娘を敢えて拐かさせてまでこの一連の戦の火種を仕立てたのだからのう!」
驚くべきことをさらりと言ってのける良兼であったが、公雅達は驚く素振りも見せず予め含んであったかのように痛ましそうに目を落とす。
「姉上には気の毒なことでございます。しかし、これも一門の安寧の為、ひいては坂東八国の平和のためにございまする。父上、然らばすぐにでも戦支度に取り掛かりまする。!」
そう言って意気込む弟と共に公雅は父の前を辞去した。部屋を退出する際に、おや? と兄弟は足を止め、侍従に手を引かれこちらに向かってくる人物に目を留めた。
異様な老人であった。
服装を見るに官位は定かではないが相当の人物であると知れる。
しかしその双眸は恐ろしく、目は真っ赤に血走り、頬はがりがりにこけ、そのくせ額には長年の内儀の余りか双眸がうずまりそうなほどに皴が拠っている。
(恐ろしい顔の老人じゃが、はて、何処かで見覚えが)
公連も同じ思いらしく、薄気味悪そうな表情を浮かべつつ首を傾げつつ二人揃って会釈をするが、老人は二人の存在を気にも留めた様子もなく、よろよろと足取り覚束なく良兼の間に姿を消していった。
兄弟達と入れ違いに良兼の前に現れた老人――藤原護は、深く深く額づきながらぽたぽたと畳に涙を零し訴えかけた。
「――介殿。浅ましく生き永らえし修羅道の亡者とこの舅を笑ってくだされ。儂は、どうしても、どうしてもこの手で倅らの仇を討たねばこのまま死ぬことが出来ぬのじゃ!」
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