第3章 下野国府の合戦 7
下野国国府、国衙。
突然ぞろぞろと戦旗を掲げながら柵を潜ってくる良兼勢に下総国司は勿論領民達も仰天した。
「介殿、これは一体何とした騒ぎでござるか⁉」
神前の関とまるっきり同じ様子で目を剝いて飛び出してきた下野国府掾が、国府内を平然と先頭を行く良兼の前に立ちはだかった。
「なに、遠出をしたら日が暮れてしもうてのう。幾晩か宿を頼みたいのじゃ。すぐに下野守に取り次いでもらいたい」
「そ、そんな急に申されても」
「ならば某が直接守殿にお願い申そう!」
――将門は鞭を揚げ名を称へて、追ひ討つの時、敵は為方を失ひて府下に偪仄る。
翌日には将為らの援軍も到着し、下野国府は完全に将門勢に包囲される形勢となったのである。
下野領民らの動揺は計り知れなかった。もし国府が下総勢を抱え込んだまま陥落したとすれば府下一帯が焦土と化すのは目に見えていたからである。
「将頼よ」
「は」
府下の住民達の怯えようを目の当たりにした将門はいつにもなく厳かな面持ちで弟に告げた。
「俺は野本の戦にて人の世の地獄を垣間見たぞ」
「は……」
宵の空に黒煙たなびかせる阿鼻叫喚が脳裏を過った将頼もまた沈痛な面持ちで俯いた。
「親兄弟を奪われ、焼かれていく者らの悲鳴、嘆き。……未だに耳に残って離れぬ」
悲壮ささえも滲み出ているかのような兄の口振りに将頼も頷く。
「仰る通り、岩井攻めの際の乱捕、それさえなければ貞盛殿も我らとこの度刃を交えることはなかったかもしれませぬ」
将門は振り向くと、幕僚達を見渡しながら下令した。
「全将兵に伝えよ。譬え国府を巻き込み伯父らと乱戦となろうとも、府下の領民、家屋への火付け、掠奪は厳に禁ずる、と」
「仰せの通りに!」
国衙内にて。
「なあ、お頭。何も俺達まで国府入りするこたあなかったんじゃねえか?」
シロと呼ばれている黒僦馬の一人が昼餉に配られた雑炊を掻き込みながら口を開く。
「まあ、そう言うなや。こうして他の侍連中と同じまともな飯に在りつけているじゃねえかよ」
肩を並べて胡坐をかく大男が同じく汁椀を舐めながら苦笑する。
「それに、何でも将門の奴ら、この度の籠城戦、火付けも掠奪も絶対厳禁、違反した者は死罪だとかお触れを出したらしいぜ。火事場のちょろまかしもうかうかできねえや」
「だからどの道よ、俺達が負け犬連中にくっついて砦の中に雪隠詰めにされてることにゃ変わりがねえじゃねえかよ。このまま火でも掛けられちまえば逃げるに逃げられねえ。兵隊共の顔色見たかよ? この世の終わりみてえなツラしてやがったぜ? 旗色が変わった時にとっととトンズラ決めりゃあよかったんだ。だろ、お頭?」
「う、……う……んん」
(三角筋、上腕筋……)
「お頭?」
「んんっ、……うふ、うふふ……」
(大腿二頭筋、……うふふ、きっと大胸筋も……)
「――おい! お頭ってばよ!」
「うきゃあっ⁉」
一人飯茶碗を脇に避けてあらぬ妄想に耽りつつ一人なにやらモゾモゾしていた頭目は思わず黄色い悲鳴を上げた。危うく妖しい雲行きであった。
「大丈夫かよ、お頭?」
危うく茶碗をひっくり返しそうになる頭目を呆れたようにシロが見下ろした。
「殿、良くない知らせですぞ。――あれをご覧あれ」
明くる朝、遂高に呼び出され、陣より外へと顔を出した将門は、国衙の門に翻る真っ青な旗印に思わず顔を顰めた。
蒼天色に藤紋を染め抜いた、下野藤原一門の幟である。
「……昇っているのはあの一竿か?」
「国衙の前門後門それぞれ一竿ずつのようでござる。恐らく――」
「我が勢力圏に身内の痴話喧嘩を持ち込むな。さもなくば更に旗の数は増そうぞ。――といったところか。恐らく、これは伯父上方にも同じ意思表示であろう」
「下野は藤原の勢力が強うございますからな。嵯峨源氏の時のように、これ以上一門の争いに他族を巻き込みとうございませぬ。朝廷も、次こそは黙ってはおるまい」
将頼も、晴天に翻る藤原蒼旗を眺めながら呟く。
「何よりも、藤原は強いぞ。あの百足退治で聞こえた猛者もおるからのう」
頷いて、将門は振り返り全軍に告げた。
「西門を解放する。――戦は終わりじゃ」
応おおおおおおう、と早朝の陣営に将門勢の勝鬨が響き渡った。
――便ち囲方の西方の陣を開き、彼の介を出さしむるの次に、千余人の兵、皆鷹の前の雉の命を免れて、急に籠を出づるの鳥の喜びを成す。
良兼勢の新兵らが皆解放の喜びに沸く中、只二人のみ、別種の含み笑いを残しながら下野を後にしたのである。
「これで完全に石田の貞盛は我が陣営。将門は孤立したも同然にございますなあ」
うふふ、と笑いながら囁く良利に、良兼もニヤリと笑いながら頷く。
「そしてこれにて初陣を果たし千余騎の新兵、死線を越えし強者と成れり。後は伊予の荒くれ共が戻るのを待つのみじゃ。甥御殿、せいぜいその首今のうちに磨いておるがよい!」
(……ここで良兼を討つべきであったかもしれぬ)
撤退していく敵勢を見送りながら、将門には一つの懸念が浮かんでいた。
この度の出征の前夜に美那緒から告げられていたことがあったのである。
――主様。あの夜……主様が妾を連れだしてくださった夜に、どうしても腑に落ちぬことがあるのです。
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