第3章 下野国府の合戦 5


「……あちゃあ! これはうっかり林を出たら丸見えだぞ!」

 思わず経明が素っ頓狂な声を上げる。

 見渡す限りの青々とした葦原の遥か向こうにぽっつりと真っ赤な花が咲いているように見えるのが赤旗に囲まれた良兼方の本陣である。無論、そこらじゅうの葦の茂みにも幾重に伏兵を潜ませているに違いない。


 ――爰に将門は機急在るに依りて、実否を見むが為に、只百騎を率ゐ……


 ……と、そして今ここに至るわけであるが、鬼怒川支流沿いの灌木の向こうは果てが見えぬ程の平原地帯。その真ん中地点に敵陣が張られているから、遮蔽物は人の腰ほどの高さの葦の茎葉のみとあっては、おいそれとは物見に近づけない。

「だが、伝令の申した通り、千は下らぬであろうな」

 遠目から見ても、陣の規模、そして幟数。並の物々しさではない。これだけの軍勢を維持させるだけの兵粮を召し上げられた土地の者達の嘆きようが目に浮かぶようである。

「この軍勢に鬼怒川を下って来られてはまずいが、今手を出してもとても太刀打ちできぬ。悔しいが、一旦引いて後陣の真樹殿と連携し迎撃の支度を致そう。うかうかしていたら、そこらをうろついている伏兵に見つかりかねぬ」


 ――略気色を見るに、敢へて敵対すべからず。


 物見の勤めは終えた。……そう思い将門らが馬を引こうとしたその時であった。

「いたぞ、あの林の中ぞ!」

 向こうの茂みから叫び声がしたと同時に嚆矢が放たれ、一斉に一面の葦原が波打った。敵伏兵が仕掛けてくるつもりなのであろう。

「しまった! ……こうなっては是非もなし。某、しんがりを務めまする。殿や御前らはお逃げくださいませ!」

 経明が矢を番えながら叫ぶ。

「馬鹿を申すな! それにもう遅い、今に川の向こう側まで囲まれるぞ。此処で雌雄を決するほかあるまい!」



「なんじゃ、あのこんもりとした灌木の中に潜んでおったか。あれでは百騎にも満たぬ小勢じゃのう。まさか将門はおるまい」

 遠くに見える川沿いの灌木を指して良正がせせら笑った。

「……いや。将門は必ず此処におりまする。まさにあの茂みの中に。野本、川曲とあの男の戦振りを見ておりましたが、彼奴はどんな小勢であっても必ず先頭を率いておりました故」

 黒裏頭の頭目が確信したように答える。

 それを聞いた良兼が「ふむ……」と暫し考え込んだ後、

「よし、敵は少数の物見勢じゃ。散兵を前面に出し灌木に向けて射線を集中させよ! 初陣の新兵共に、豊田攻略前に日頃の練度を存分に発揮させるがよい!」

 大将の号令一下、葦原一面に散開していた伏兵達は一斉即座に盾を掲げ陣まで横列隊形をとりながら三重四重の囲みを拵え、それに弓隊もまた連動し将門勢らが潜んでいるであろう木立に矢を向けた。なかなかの機動力である。

「横列三段掛けの射法か。射手はざっと三百と見た。ここに留まっていて集中放射を受けてはひとたまりもないな」

 相手は若い新兵が大半と見えるものの、拙くもそつのない用兵を見やりながら感心したように唸る遂高が暫し思案の後に進言する。

「殿。こちらも徒兵から仕掛けましょう。しかし、派手に出れば矢の的になりかねぬ。楯を棄て、野伏の戦法で動きましょうぞ!」

「承知した。後は我ら騎馬に任せておけ!」


「敵は既にこちらの一部の隙なき横列陣形が見えているであろう。なに、相手は野本、川曲と戦続きで兵馬も兵粮もやつれこけておろうよ。すごすごと引き揚げるか、捨て鉢になって打ち掛かってくるか知れぬが、僅かでも敵が動きを見せればそれが合図じゃ。無駄な矢は撃つなよ? まだ豊田という本丸が目の前に控えておるからのう!」

 

「殿、徒兵の用意、整いましてござる!」

「よし、我らも出るぞ。後れを取るな!」

 応! の掛け声とともに将門を先頭に将頼、経明ら騎馬方が木立を飛び出した。


「よし、掛かってきおったわ! 残らず射殺してしまえ!」

 歓喜して拳を振り上げる良正が声を上げると同時に、突如「うわあっ!」

と最前線の陣から次々と悲鳴が上がった。

「敵じゃ、敵の伏兵がすぐ目の前に来ておる! ぎゃあっ!」

 報告を上げた一列目の兵も盾を乗り越え懐に飛び込んできた将門兵に首を掻き切られ血飛沫を上げた。

 葦の葉一つそよがすことなく続々と目の前に忍び寄る野伏の奇襲に、堪らず第一列の兵達は楯を棄てて後退する。それを追う将門徒兵ら。相打ちを恐れ二列目、三列目の隊列は動揺し殆ど弓を放てずにいる。

「ほう!」

 と感心したように良兼が声を上げる。

「しまった。最初と見えた騎馬らは囮であったか!」


 ――彼の介は未だ合戦の遑に費えずして、人馬は膏肥し、干戈は皆具はれり。将門は度々の敵に摺がれ、兵具既に乏しく、人勢厚からず。


 この戦の際の将門勢の様子を、『将門記』は右のように記しているが、良正はまさにその見立てを誤ったのである。

 先に述べたように、良兼勢は兵数、武装こそ十分に揃っているものの、兵の大半は実戦慣れしておらず、農期の合間に出稼ぎにきたつもりの領民が殆どであった。

 対して将門方は少数とはいえ選りすぐられた人選に野本、川曲村と度重なる実戦経験。それらを踏まえた決戦に備えた鍛錬。何よりもそれら戦に圧勝したという豊田侍の士気の高さを完全に侮っていた。


「む、迎え撃て! 前列は崩れたとて敵騎馬は少数じゃ。我らも騎馬を以て迎え撃つのじゃ!」

 慌てて態勢を立て直そうと号令を上げる弟を「愚か者奴が。はや戦の勝敗は決したも同じじゃ」と冷ややかな目で眺めやる良兼。その二人を他所に、良正のがなり声も終わらぬうちに数騎の黒覆面の騎馬達、その後を追うように、石田平氏の朱旗を立てた貞盛らが馬を走らせていく。


(……ああ、やはり貞盛殿は伯父らの元に与したか!)

 おおよそ予想していたこととはいえ、こちらへ弓を番え駆け向かってくる幾本もの深紅石田の幟を目にした将門は、微かな無念を胸中に覚えた。

 

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