第3章 下野国府の合戦 3


 ――而る間に介良兼は兵を調へ陣を張る。承平六年六月廿六日を以て、常陸国を指して、雲のごとく涌き、上下の国を出づ。


 この日、突如として翻った二千五百有余にのぼる紅の戦旗に上総・下総をはじめ坂東八国の国府は飛び上がらんばかりに仰天した。

 先にも触れたとおり、国府に連なる官僚の大多数は日頃から朝貢の上前を掠めてはせっせと私腹を肥やすに躍起になっている奴輩ばかりであるから、嵯峨源氏以来の常陸・下総の内紛からしていつ騒ぎを聞きつけた京方の検非違使庁が検分に来ぬものかと痛い腹をさすさすり戦々恐々していたところへまさに寝耳に水の騒動が上がったのである。このままではすぐにでも中央の令外官が押しかけてきて自分達の後ろ暗いところを糾弾されるばかりかあらぬ嫌疑まで駆けられるのではないかと、心当たりの多い者は生きた心地せぬ思いで無数の赤幟が自領を行き過ぎるのを見送った。


「閣下、これは一体何とした騒ぎでござるか⁉」

 香取の畔、神前の関に迫ったところで関守が血相変えて馬を駆ってきた。

 改めて見れば後ろの果てが見えぬ程の幟の大行列である。

「……な、なんじゃこれは⁉ 戦でもなさるおつもりか?」

 思わずあんぐり口を開けたまま言葉を失う関守に、良兼は小さく鼻を鳴らしながら、

「なに、隣国の縁者を訪ねるまでじゃ。禁遏きんあつ無用ぞ!」

 と、さっさと関を抜けてしまった。

「しかし、関を通過する度にこう一々騒がれたのでは喧しくて堪らぬのう。どうせ急ぎの道中でもない。山間の道を通って常陸を目指すぞ!」

 良兼の指示に応おおおおおうっ!と兵らが答える。口を開けたままの関守が悲鳴を上げて腰を抜かすほどの大合唱であった。



 無論、下総国豊田付近にも、良兼らの動きは伝え聞こえていた。

 特に豊田鎌輪の将門本拠地近辺の住民達、将門伴類、従類たちの間には激震が走ったと言ってもよい。

 今までのような野本の合戦や、奇襲前に撃退した川曲村の戦いのようななし崩し的に戦わざるを得ないような局地的な合戦とは敵兵力の規模も桁が違う。実質坂東平氏の棟梁格である良兼が大軍を以てこの小さな豊田の集落に正面切って攻め入る動きを見せているのであるから、領民らの動揺が如何ばかりであるか大いに察せられよう。


 しかし、鎌輪宿営所における幕僚達の軍議は意外にも静かなものであった。

「無用に騒ぐでない。国香伯父を討った時から、いずれ必ず決戦の日は来るものと決まっておったのじゃ。それに、この豊田の郷がすぐ戦場になるとは限らぬ」

 軍議に居並ぶ幕僚は、将門を筆頭として両脇には弟の将頼、将為、それに将武。対面には側近たる弓の名手経明や切れ者の大目付遂高、侍頭の文室好立ぶんやのよしたちらといった頼もしき猛者らが図面を囲んでいる。何れも将門の忠言なくとも敵の進軍に今更心を乱すような顔色の者は誰一人見られない。

「しかし、どうにも読めぬのは敵の進路じゃ。いちいち関を跨ぐのが面倒だというのならまあ判らぬでもないが」

 顎髭を撫でながら唸る大将に頷きながら遂高も口を開く。

「然り。豊田の我らが本拠地を襲うつもりであれば衣川沿いの間道を遡上するのが最も兵馬の労も少ない。殿の仰る通り今更柵や関の足止めを厭うこともあるまいに、衣川一帯をぐるりと迂回し進軍するとは。これではまるでこの豊田ではなく筑波山を目指しておるように見えますが……」

「水守か? しかし先の川曲の戦で兵の殆どを失った良正殿と合流したところで無駄に道中の兵粮を使い潰すだけぞ?」

 将頼もまた首を傾げながら口を挟む。

「……御大将」

 ふと、顔色を強張らせた好立が声を発した。

「先日、我らと和議を交わした貞盛様のこと。もしや敵の奴ら、貞盛勢を我陣に抱き込むつもりでは?」

 皆が思わず顔を上げる。

 将門が思わず膝を打った。

「成程。あの男は情に脆い。在り得ぬ事ではないな……」


 そこへ新治から早馬到着の知らせがあり、伝令の者が通される。

「真樹様より伝令! 良兼勢、今朝水守を出立、下野方面へ兵を進めているとの知らせにございます。その数、ざっと三千余り!」

 一瞬、軍議の場にざわめきが広がった。

「若干数が増え申したな……」

 遂高が何とも言えない渋い笑みを浮かべて呟く。

「敵は頭数を揃え終えたようじゃ。次は伯父殿奴、きっと筑波颪を背にこちらへ一気に駆け下りてくるぞ! ――直ちに戦支度をせい!」

 総大将の一声に、応!と幕僚が一斉に立ち上がる。

「殿。川曲村の件もございまする。この度は少なくとも物見に百騎の人馬を揃えた方が宜しいかと具申致しまする」

「気の利く奴じゃ。人選は任せた。選りすぐりの猛者を揃えよ。無論、この俺も物見の先頭に加わるぞ!」


「――お待ちください!」


 突如軍議の場に可憐な声が響く。

「御前様⁉」

 皆が入り口を振り返ると、何とそこには勇ましく合戦装束を身に着けた美那緒が鉾を構え弓矢を背に仁王立ちしていた。その後ろには、同じく戦着姿の萩野が、真っ青な顔で大槌を握り締めぶるぶる震えている。

「この度の合戦、私もお連れくださいませ! 私も久々に鉾を振り回しとうございまする!」

 同行を認めてくれるまでは梃子でも動かぬとばかりに立ち塞がる戦姫君の凛々しい眼差しに、今更誰も諫める者はいなかった。

「言っても聞かぬ気性なのは、昔から俺が一番よう知っておるわ。しかし姫殿、その装束はまだちと気が早いぞ?」

 将門の苦笑に、思わず皆も吹き出すように笑いだした。

「どうやら、久しぶりに姫殿の上総一の鉾捌きを拝観できそうですな!」

 頼もし気な好立の言葉に、美那緒もニヤリと勝気な笑顔を老将に向ける。

「必ずや、見事一番の手柄をご覧に入れまする!」

 その様子に大笑する将門であったが、ふと表情を改めて美那緒に問う。

「姫よ、勇ましいのは良き事じゃが、この度の合戦、そなたの実の父上と刃を交えることになる。無論、覚悟は決めておろうな?」

 何を今更、とばかりに、ふわりと結髪を靡かせながら扇子を翻すように鮮やかに鉾を一振りさせる。皆が思わず見惚れるほどの優美な鉾捌きであった。


「親不孝は、――これが初めてではありませぬ故!」

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