第3章 下野国府の合戦 2
これよりややさかのぼり――
承平五年師走。上総国武射郡屋形、平良兼営所。
館の主を前に額づき、時折相手の同情を伺うように顔を上げ涙ながらに陳情を述べるのは、つい先日川曲村にて甥将門に手痛い敗北を喫したばかりの良正主従らであった。
長年その傍らにて頼もしき右腕として仕えていた副将は、将門との一騎打ちにてあえなく討ち取られ、背後に控える従類達の戦の傷跡も生々しく、良正自身も戦傷を庇いながら座する態たらくであった。
血涙咽ぶが如き風体で低頭する舅を前に悠々と耳を傾けていた以前の場面とはまるきり逆の立場となった絵面である。
そんな見るも痛々しき実弟ら敗軍の将達を前に、上座にて厳めしい面持ちで差し出された書状を黙読する強面の男こそ一連の騒動の黒幕、平良兼。上総国介にして国香亡き今坂東平氏の棟梁であり、将門の妻である美那緒の実父でもあった。
――あぢきなくも寂雲の心を働かす。暗に疾風の影を追ふ。然れども会稽の深きに依りて、尚し敵対の心を発す。
川曲村の合戦にて、敵の虚仮脅しにまんまと嵌まり数十艘の大船団を失った上、真っ向からの騎馬勝負では十数騎の小勢相手に精鋭の大半を討ち取られ、
「兄上よ、後生でござる! 再び我が手を以てして天誅を果たそうにも、悔しや、手勢がありませぬ。何卒、何卒あの憎き甥奴を懲らしめる力をお貸しくだされィっ‼」
そもそも先の戦からして護からの見返りを当て込んだ募兵故あれだけの隊形を組むことが出来たのである。すっかり面目の潰れた敗将の元にわざわざ仕えようというもの好きな者など居るはずもなく、最早良正にはこのいけ好かない実兄を頼る他将門に対抗するすべはないのであった。
しかし、一通り書状に目を通し終えた良兼が背後に畏まる従類にそれを手渡し顔色も変えずに口にした返答は実に素っ気ないものであった。
「其許の陳情、確かに聞き届けた。……しかし兵は出せぬ」
「そんなっ⁉」
「愚かなる我らの甥の乱逆により一門の多くが傷を負い、百尋の田畑里村が荒土と成り果てたこと、坂東一門の棟梁として、まことに遺憾じゃ。討ち果てた常盤の同胞へも哀悼を惜しまぬ」
「で、では何故兵を動かしてくださらぬか⁉」
「良正よ、兵が揃わぬと其許は嘆くが、我らは将が揃わぬ。倅らをはじめ、主だった幕僚らは、ここに控えておる良利を除いて皆伊予に出払っておる。例の海賊征伐じゃ」
ちらり、と背後に畏まる従類を一瞥する。
承平・天慶年間は、京都から坂東にかけての東国においては、僦馬の党をはじめとした盗賊集団が街道周辺の治安を脅かしていた旨は先述した通りであるが、一方で、近畿から瀬戸内海にかけての西国沿岸を暴れ回っていたのが、小規模な船団を中心とした海賊集団であった。彼らの狼藉によりしばしば海路を経ての朝貢物が略奪されたり、時には官公庁が直接襲撃に遭ったりといった深刻な被害が続出したため、承平四(九三四)年、朝廷は追捕使の任命並びに海賊追捕の為に武蔵及び諸家の派兵を命じたのである。既に朝廷直属勢力や瀬戸内海沿岸諸国の国府の手に余る程に事態の悪化した海賊被害鎮圧のため、良兼の二人の息子、公雅・公連らをはじめとした上総平氏の主力将兵らは皆、朝廷の命を受けて伊予国掾藤原純友率いる海賊討伐軍に召集・派兵されていたのであった。
「野本、川曲の戦を伝聞する限り、あの甥奴、なかなか一筋縄ではいかぬ曲者とみた。現に其許もあれ程の大軍を以てしても太刀打ちできなかったではないか。豊田勢と事を構えるとあらば、まずは幕僚らを揃え然るべき軍議を設け、十分に策を練った上でなくては兵を動かすことは出来ぬ」
「い、一体何を悠長なことを言っておられるか! だいたい、伊予に出向していった将兵らはいつになったら帰ってくるというのかっ⁉」
あまりに気の遠くなるような話に思わず良正は金切り声を上げた。以前泣いて自分に縋り付く護を散々勿体つけて嬲り者にしていた己の所業を忘れたかのような為体である。
「たとえ幕僚おらずとも、この上総には同門の従類伴類統べて数千の兵を抱えておるではござらぬか! 川曲で甥奴が企てたような小賢しい策など弄せずとも、内海伝いに一気に下総を圧し攻めるだけで難なく一捻りに出来まするぞ! そうこうしているうちに、先の戦の痛手から将門は息を吹き返しおる。そもそもじゃ、兄上よ! 元はといえばこの度の騒動、兄上の娘御の出奔が発端だったではないか! 一門の長として、何ら呵責は抱かれぬのか⁉」
そこまで啖呵を切ったところで、ふ、と良正は口を噤んだ。
(……そうじゃ。何故今まで兄上は自ら動かなんだ? 自分の愛娘が、それも良家との婚姻を目前としていた時に将門奴にかっ攫われたというに、なぜかその後碌に追跡もしなかったではないか。もし、あの直後すぐに上総数千の兵力で豊田へ踏み込んで将門を抑えておれば、舅殿ら嵯峨源氏一門が悲惨な目に遭うこともなかったはずじゃ。筑波山麓が焦土となることもなかったはずじゃ。兄上さえ真っ先に動いておれば、国香兄も討たれずに済んだのじゃ)
そんな思いに至った良正の額に、知らず脂汗が伝う。
(……まさか、兄上よ、わざと身内争いを拗れさせようとでもしておるのか? しかし一体、何のためにじゃ?)
唐突に脳裏に過った不気味な懸念に、思わず生唾を嚥下し押し黙る弟を前に、上座の兄もまた強面の表情を動かさぬままじっとこちらを見下ろすばかり。
突如、その背後から「ほう!」と歓声を上げる者がいた。
「『雷電の響きを起すは、是れ風雨の助けに由る。鴻鶴雲を凌ぐはただ羽翔の用に資る』。――うふふ。なかなかグッとくる名文句ではございませぬか、我が君よ?」
見ると、良兼の後ろに控えていた優顔の青年が、先程主君から手渡された良正の陳述書に目を通しながら、しきりに感心したように頷いている。
良兼腹心、多治良利であった。
じろりと良兼が振り返るが、不躾に口を挟んだ無礼を咎めるような眼差しではない。
「思うところがあるなら申してみよ」
低い声で問う主に低頭し、ずいと一歩前に進んだ良利が顔を上げる。
「恐れながら意見具申致しますれば、身共も良正様のお求めに応じ、我が兵数千を以て動いてみるべきかと愚案致しまする」
「おお、そなたも我が逆襲に賛同してくれるか!」
思わぬ味方を得た良正が目を輝かせて腰を浮かせる。たった今まで脳裏に浮かんでいた実兄への不穏な想像は忽ち霧散してしまった。
そんな相手の喜びように苦笑しながら良利は申し訳なさそうに首を振る。
「しかし、豊田を攻めるは、やはり未だ時期尚早。こればかりは公雅様や公連様らがお戻りになられてからでないと役者が揃いませぬ故」
「ほう。では何故に兵を動かして見せるか?」
厳めしい目を細め、どこか面白がるように良兼が訪ねて見せる。
青年軍師も思わせぶりに薄い唇を歪めて微笑み返す。
「――実は我が心当たりの御一方、此度の芝居の予行に是非にも欠かせぬ演者がございますれば……」
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