第3章 下野国府の合戦 1
承平六(九三六)年神無月。豊田郡鬼怒川下流付近。
川曲村の合戦から一年後。
刈り取りも終わり、秋の耕起も済ませた水田には、落ち穂を啄みに訪れた鴉や水鳥、迷い込んだ泥鰌や小魚を捕らえようと舞い降りた真っ白な鷺や桃色の朱鷺といった色とりどりの羽根の色が、穏やかな賑やかさを筑波山麓の風景に添えていた。
下総は今や晩秋である。
北東に聳える筑波山、そして遠く西に臨む赤城山や秩父の山々の、目も眩むほどに鮮やかな紅葉の彩に香取大海の湖面を燃え上がらせていた豊穣の賑わいも宴後のように侘しく霧雨に濡れそぼり、さざめく鬼怒川の河畔には幾つもの落ち葉の小舟が浮かんでいる。
特に今朝は殊の外冷えた。
漸く一年の主だった仕事を終え、後は初霜を迎えるばかりとなった夜明け間もない田園を行く一行の他、辺りに人影は見えない。
その寂寞たる只中、馬を進める一群の先頭を行くのは豊田の若き主、平将門とその盟友、平真樹である。後に続くそれぞれの腹心ら合わせて十数騎ばかり。二度の合戦にて最早見慣れた顔触れとなったが、今回はいずれも戦装束ではない。
しかし、早朝の遠乗りのような軽々とした装いでもない。永き道行を見込んだ旅装であった。主従一同が浮かべる表情も戦の際には決して見せぬ何処か心細き不安な面持ちが滲んでいる。
ひと月ほど前の出来事である。
昨年二月、将門・真樹らと嵯峨源氏との境界争いを発端とした野本の戦によって、源扶ら三兄弟は討死、筑波山麓は戦火に焼かれる事態となった。これ程の大惨事にも関わらず、常陸国府は両者の調停に動くことも、事態を朝廷へ報告することもなく、終始全くの沈黙を通していたのである。理由は、本件の中心に於て北坂東に強い勢力を広げ、各国政庁にも影響力を振るっていた国香や良兼ら平氏一門の存在があったことが大きい。
源氏を巻き込んだ甥と伯父達の諍いは、遠い僻地の土豪同士の小競り合いとして、都人の耳朶に触れることすらなかったのである。
事態が急変したのは、川曲村の合戦より丁度一年後、二度目の収穫の季節を迎えようとしていた矢先の事であった。
――然る間、前大掾源護の告状に依りて、件の護幷びに犯人の平将門及び真樹等を召し進むべき由の官符、去んぬる承平五年十二月廿九日の符、同六年九月七日に到来す。
良正の敗北に大いに失望した護であったが、彼はすぐさま次なる復讐の行動へと移った。川曲村の敗戦を聞くや否や、護は速やかに都の検非違使庁へ将門一味らによる「息子殺害」に対する告状を提出したのである。太政官ら公卿らによる陣定会議の末、その年の暮れには当事者らの召喚命令が下されることとなったというから、護は極めて迅速に動いたものと察せられる。
ところが、紆余曲折遭って、この召喚命令が将門らの元に届いたのはその九か月後、翌年の秋も盛りの事であった。
……要は、野本の騒動における源氏の貴公子三名の殺害容疑が将門・真樹の二人に掛けられ、聴取と審議の為に京まで出頭せよ、との命令が一年遅れで下されたのである。一行の顔色が皆一様に晴れぬの無理からぬことであった。
「――しかし、なんとか収穫も終わり、出立までに勘定事も一通り間に合って良かったわい。白氏殿までご同行頂けるとは忝いことじゃ」
済まなさそうに言う遂高に対し、代わりに真樹が笑って答える。
「何の。儂も貴公らの若殿と同じく理務に堪えぬでな、配下で一番口の達者そうな奴を選んできたのじゃ。こ奴の助言に従って、ホレ、余計な荷物まで担いできておる」
一行の後方を、大きな荷車を引いた牛が二頭、朝露に濡れた黒い背中を光らせながら白い息を吐いている。余程高価な荷物らしく軽装とはいえ武装した兵士が数人、その周りを警護していた。
「一番達者は買被りにございましょうが、都とは業深き伏魔殿なれば、幾ら田舎の椋鳥が無鉄砲に理を説き誠を訴えたところで、果たして軒に吊るした
白氏もまたニヤリと笑って答えたものである。
配下達の遣り取りを背後に聞きながら、今一度、将門は香取の海原の向こうに目を向ける。
朝霧が立たずとも、既に豊田の郷が見える距離ではない。
しかし、美那緒もきっと旅行く夫の姿が消えて見えなくなっても尚営所の門前で見送っていることだろう。
自分もまた、こうして馬の背の上で、遥か彼方に白く霞む筑波の方を振り返っているように。
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