第2章 川曲村の合戦 9
「……愚甥奴、気でも触れおったか?」
向こう岸の高台から駆け下りてくる騎馬の小勢の先頭に将門と思しき大将格の人影を見て取った良正ら一隊は思わず渡河の途中で馬足を止める。
「それとも捨て鉢になって飛び込んで来たか? ハッ! いずれにせよ愚かの極みよ。丘上の陣に留まり弓矢を以て抵抗しておれば、多少は我らの兵力を削ぐこともできたであろうに」
単なる敵の失策と見た良正が小馬鹿にしたように鼻を鳴らす。その傍らに控えていた副将が手に握りしめていた指揮杖が音を立ててへし折れた。
「おのれ……おのれ許さぬぞ!」
自身が指揮を授かっていた作戦主力の船団を将門に台無しにされ、面目を大いに潰された副将が、怒りも露わに唇を噛み締め唸りを漏らす。
「若造奴……よくもこの俺を虚仮にしてくれおって! ――生かしては置かぬっ!」
怒髪を逆立て吠え叫ぶと、憤怒を顔中に浮かべながら単騎敵勢へと飛び込んでいく。
副将にやや遅れ、他の将兵らも、手柄の先を越されてはならぬと勢い込んで後に続く。術を見破られ尻尾を出してみせた相手は何程の事もない吹けば飛ぶ程の小勢、川を渡って梨を捥ぎに行くほどの手間である。先程まで慌てふためいていた様子とは打って変わった気迫であった。特に副将と共にまんまと一杯食わされた従類騎馬達の怒りも露わな猛進ぶりは凄まじい。
「将門っ、俺と勝負せい! 勝負じゃあっ!」
水柱立てるが如き勢いで対岸の河原に辿り着いた副将が、ぶんぶんと唸りを上げ大鉾を振り回す。
「どこにおるかァっ! 将門ォっ‼」
怒涛の気炎籠る副将の気迫に、切迫していた将門勢が思わず手綱を掴み踏み留まる。その一拍できた空白を駆け抜けるように赤糸威の鎧を纏った総大将が目の前に躍り出た。
「我こそ相馬小次郎! ――将門は此処に在るぞ!」
将門もまた鉾を携え手綱を片手に握り締めながら敵将の挑戦を受けて立つ。
そして両者の物凄い雄叫びと共に刃がぶつかり合う。――副将の方が速い。
「しめたァっ! その首もらったぞ将門っ!」
そのまま押し合いの力比べとなるが、将門が上から抑え込まれる形の鍔迫り合いである。このまま腕力で押し込めばじきに将門の首は落ちるであろう。
両者の拮抗を、周囲を囲んだ両軍の騎馬らが松明を手に固唾を飲んで見守る。
しかし、振り下ろした万力の如き鉾の大刃がじわじわと相手に押し返されていく手応えに、副将の顔色がみるみる変わっていく。――相手は、圧倒的に強い。
顔から首筋まで青筋浮かべた鬼のような将門の鋭き双眸に、焦燥に青ざめた副将自身の顔が映り込んで見える。
「っ⁉ ……こ、この猪口才な童奴がっ!」
完全に押し返される形となった両者の形勢逆転に将門勢が大いに湧き立つ。それに後押しされるかのように鉾に籠る力が一層増していく。
「ひ……っ! ま、待て、待ってくれっ!」
競り押され行く副将の顔は、驚愕を通り越して既に恐怖の色しか浮かんでいない。
ぎり、と凄まじい笑みを浮かべた将門の荒い吐息が、最早悲壮に顔を歪めるばかりの副将の鼻先に触れ、とうとう恐慌の絶叫が喉から迸った。
断末魔の悲鳴の後に、血飛沫上げながら副将の首が宙に飛び、拮抗を失った副将の馬が鋭い嘶きを上げ、引っ繰り返って腹を見せた。
「……その身に刻むがよい。物見の者は目に刻むがよい。――これが貴公らの挑んでおる下総豊田侍の刃の味じゃ!」
真っ赤な血潮を浴びた将門が血塗れの鉾を振り上げ虎の咆哮を上げると、郎党達もまた呼応し宵の空へ吠え猛る。たった十余騎ばかり、しかしその吠え声の迫力は先程の丘の上のまやかし物の比ではない。
猛者で鳴らした副将の完膚なき討死に絶句する良正はじめ常盤勢には最早渡河時の威勢は残されていなかった。
そこへ闇の中から次々と矢が放たれ、ようやく良正らが正気づく。
西に向かって対岸し、日没間際の眩しい逆光を仰ぎ続けた良正勢に対し、夜の闇へと沈みゆく東側に潜んでいた遂高ら伏兵の方がいち早く夜目が効いている。
「いかん、皆応戦せよ!」
泡を食って散兵する良正兵らへ、蜜蜂の群れへ挑む雀蜂の如き獰猛な勢いで以て次々と将門配下達が斬り掛かっていく。
たった十四騎の猛虎らに蹴散らされ、水守精鋭百騎が敗走するのに、さほど時間はかからなかった。
――将門は運有りて既に勝ちぬ。良正は運無くして遂に負くるなり。射取る者は六十余人、逃げ隠るる者は其の数を知らず。然して其の廿ニ日を以て、将門は本郷に帰る。
承平五年十月二十二日。
常陸川曲村の合戦は将門勢の勝利に終わった。
日頃より鬱屈募る領主一味が小勢を前に叩きのめされ敗走する一部始終を観戦していた民衆らは大いに留飲を下げ喜びに沸き、何よりも敵大勢を前に完全勝利を果たして見せた将門将兵らに称賛の声を惜しまず、平将門の勇名は忽ちのうちに坂東一円に聞こえるものとなった。
河原で繰り広げられる乱戦の一部始終をはらはらと見下ろしていた白氏は、味方の勝鬨と村人らの歓声が夜の静寂を驚かせるに及び、漸く胸を撫で下ろすとともに、頼もしき総大将の勝利の背中を見つめる。
「……自ら打って出て見なければ最後までそれが本当の勝利は見えぬ、か。その結果、見事、己等が圧倒的な強さと勝利を示して、敵の背に完膚なき敗北を刻みつけて見せたか。これだけ堂々と勝敗を示して見せたのじゃ、当分叔父殿は恐れ恥じ入って下手な手出しはしてこぬだろう。……成程、まだまだ某も浅慮であったよ」
独り言ちながら静かに微笑む。
「……それにしても、我が主が矢鱈とあの若殿に惚れ込んでいる理由、某にも分かった気がするわい。尤も、少々危ういところは見受けるが」
――爰に良正幷びに因縁や伴類は、兵の恥を他堺に下し、敵の名を自然に上ぐ。
「……やれやれ、戦の気配を嗅ぎつけて来たってのに、空振りですかい?」
将門らが去った後、祭りを終えた後のような顔でぞろぞろと家々へと引き上げてきた村人らをやや離れた灌木から眺めていた裏頭を被った配下が、溜息交じりに振り返る。
「今回は致し方ないさ。だが将門の周りを張っておけば、遠からずまた戦が起こるだろう。当分仕事には事欠かぬだろうて」
同じく頭巾を被った頭目が詰まらなそうに答える。
「はは、仰る通りさ。で、お頭はどちらに付きやすかい?」
「そりゃお前、羽振りの良い方に決まっているだろうよ」
別の配下が揶揄うように口を挟む。
「果たしてあの八十町田の小地主から、たんまり褒美が賜れるとおもうか?」
(……将門、か)
結局今宵は鞘のまま抜かず仕舞いの鯰尾鉾を見上げながら心中で呟く。つい先刻、将門が斬り倒した副将の者より一回りも大柄な拵えである。
その一騎打ちの顛末は、雄々しい鉾捌きは頭目の目に鮮やかに焼き付いていた。
……そして、未だ我が腕に残るは在りし日の戦にて、この大鉾を弾き返した一撃の重さは忘れられぬ。
今更ながら、野本にて預け置いた一戦が惜しまれてならぬ。
(ふふ、あの逞しい一太刀よ、屈強な筋肉よ……嗚呼っ! 早く再びまみえたいぞ。――将門!)
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