第2章 川曲村の合戦 8
「――見よ! 敵の船団は我らの威勢を前に、戦わずして総崩れじゃ! 諸共よ、今一度声高らかに鬨を上げい!」
応おおおおおっ! と威勢の良い歓声が藍色に染まった小貝川の岸辺を震わせる。
しかし、拳を振り上げ気勢を上げるのは十数騎程度の将門郎党らのみではない。
下総側河岸を埋め尽くしているであろう大軍の如き歓呼、林の如き戦旗の群れ、雷鳴の如き戦鉦の鳴り響きに地を轟かす蹄の鳴動――それらの正体は避難していた川曲村の住民達であった。
彼らの手には鍋や釜など煮炊きの金物、それを布切れ結わえ戦幟に見立てた竹竿で戦鉦のように打ち鳴らしていたのである。茜色の夕陽を受ければ白地の布切れなど皆朱色に染まって見えてしまうし、鈍い金物でも反響の大きい渓谷で打ち鳴らせば思いの外に音が通る。
その後方では、女子供達が地べたに敷いた板切れへ両手の椀を打ち鳴らし馬の蹄に似せた音を立てていた。子供騙しも甚だしいが、これを何十人と一斉に打ち鳴らし、そこへ本物の馬の蹄が十数頭も加わればまさに大軍の行進となる。
将門らが布陣する小貝川西河岸は、川曲村船着き場から見上げると、勾配の険しい丘陵が弧を描くように川を挟んだ集落を囲む形となっている。水流の影響を受けた奇抜な造形の岩石や、歪な形に生育した丈の低い灌木など、普通であれば風景の一部としてさして気に留めることがないようなものでも、それらが黄昏時の西日の残光を浴び、不気味な色濃い陰影を纏うようになれば、何やら伸び切った影の後ろに大勢が息を殺し隠れ潜んでいるような不安を見る者に与える。そして天井に蓋をするように東の空から広がり行く宵色の天幕が、その効果をより一層引き立たせる。
それら周囲の舞台装置が絶妙な役割を果たし、現代で謂う処のジオラマ効果を常盤勢の前に見せたのであった。実際は十数騎程度の騎馬らと丸腰の民衆らが、丘の上で鳴り物鳴らして騒いでいるだけの一幕でも、逆光と薄暮の夕闇に惑わされ、向こう相手の顔形も判別せぬ状況下の良正将兵らは、恰も対岸に犇めき合う大軍が今まさに迫り来るように幻視したのである。特に雁の群れが良い掴みとなった。実は遂高や従卒達がこっそり河原へと降りて、蘆の茂みに塒を構えた水鳥たちを驚かして一斉に飛び立たせたのであったのだが。
「まったく、とんだ奇策もあったものじゃ。まさかこんな児戯が上手くいくとは」
まんまと白氏の謀った術中に陥った良正勢を見下ろしながら呆れたように経明が呟く。
「しかし、村人達も良く我らの企てに快く力を貸してくれた」
川曲の村人からすれば良正は領主、将門は敵の首魁であり、当初は将門らへ恐怖の眼差しを向けていた彼らであったが、この当時、国司をはじめ国衙に連なる受領らは押し並べて私益に走り平民らは重税に苦しんでいたとされている。白氏の起策に基づき、将門直々の口から依頼を受けた村人らは、日頃領主より虐げられ蔑ろにされてきたことに対する意趣返しのまたとない機会として、嬉々として味方に加わったのであった。
(いやはや、久しぶりに肝が冷えたわい。こんな子供騙し、一寸でも企ての歯車がずれてしまえば敵の矢面に身を晒しに赴くようなもの。それも敵の目に我らの虚勢がどう映るかは光加減次第の当てずっぽうときた。まさに偶然頼みの運頼みじゃ!)
配下達と共に河原に身を潜める遂高も額の冷汗を拭い溜息を漏らす。
(……それにしても、野本の戦に続いてこの度の絶体絶命も見事に逆転劇と相成るとは。我らが御君、ご自身が自信たっぷりに仰る通り余程の悪運強き御仁と見える)
既に日の落ちた薄暗き丘の上を眩しそうに見上げる。
今や舞台と客席は入れ替わり、対岸で繰り広げられる清々しいまでの敗走劇にやんやの歓声をあげる配下や村人達を従える彼らの主君は、今まさに拳を振り上げ鳴虎の如き咆哮を上げていた。
先行の別動隊を率いていた良正が血相を変えて船着き場に駆け戻ってきた。
上流の渡し場を目指し意気揚々と兵を進めていた良正であったが、副将からの伝令を受け、すぐにそれを将門の策と見破ると、慌てて馬の首を返して村へと引き返してきたのであった。
「愚か者共奴っ‼ 何を狼狽えておるか、よっく見よ! あの敵はせいぜい十騎程度の物見の小勢ぞ、丘に並んで騒いでおるのは皆竹竿の案山子じゃっ! 向こう岸の騎馬の松明を数えてみるがよい!」
主君に一喝され、取り返しのつかぬ失態を犯した悔しさと怒りに声を放って号泣する副将らを尻目に良正は川岸へ馬を向ける。
そして、出発の際には川面を埋め尽くすほどに舳先を並べていた船団が、今は一艘残らずどろんと消えてしまい、まるで冗談のようにがらんとした川岸を目の当たりにし、忌々し気に歯軋りを鳴らした。
「なんという腰抜け共じゃ、所詮は褒美に群がるだけの烏合の衆か! 尤も、どのみちこんな醜態をさらすような臆病者揃いとあっては、実戦では糞の役にも立たぬであったろうが」
青筋浮かべ悪態吐く良正であったが、彼の表情にはまだ不敵に口角吊り上げるばかりの余裕が見える。
「……しかし見よ! 将門奴、わざわざ川曲の国境まで出向いてくるとは気の利く奴よ。周りの喧しい雑衆共は恐らく戦禍を避けた村人か。改めて灯の数を見るに、敵勢はやはり騎馬十数騎といったところであろう。腑抜けの雑兵は皆尻を捲って逃げ去ったとはいえ、我が水守の生え抜きは一人も欠けずに揃っておる。――者共よ、我らが跨る頑強な筑波駒には、この程度の浅瀬に渡し船などそもそも無用じゃ。この闇では敵の矢ももう届かぬ。将門の首級は目の前ぞ、見事討ち取ってみせよ!」
大将の号令の下、良正配下の将兵達は闇夜の河原に大声轟かせながら地響きの如き蹄の音と共に将門陣の松明目掛けて次々と川に飛び込んでいった。
(――しめた! 奴らまんまと誘いに乗ってくれたぞ!)
将門の傍らで対岸の様子を伺っていた白氏らが、水飛沫上げながら川を渡りこちらに攻め寄せる敵勢の様子にほくそ笑む。
(この闇では、我らの弓の狙いが定まらぬものと見たようだが、それだけ派手な水音を立てて近づいてくればいちいちこちらに居場所を示してくれているようなものじゃ!)
船団や傭兵達は皆逃げ去ってしまったとはいえ、渡河する敵の数はおよそ百騎、それも良正が直接統率する常盤水守館選りすぐりの精鋭騎馬隊である。しかし、馬も多少泳ぎを仕込まれているとはいえそれなりに流れも水深もある川の渡河、どうしてもその足は鈍る。更に、白氏達や丘陵で待ち構える味方勢十四騎も、総大将将門をはじめ皆弓に覚えある者達ばかり。その腕前は先の野本戦にて源勢を相手に大いに示した通りである。当時の騎射手一人が装備する矢の数は最大二十四本。合わせて三百を超える矢を密集隊形の頭上から浴びて果たして何騎無事に川を渡る事ができるか。
「はっは。見よや、諸共よ! 水守の叔父殿、頼みの船団に逃げられ御自ら膝を濡らして参ったぞ!」
将門の揶揄に郎党達がどっと湧き立つ。先刻まで豊田を飲み込むほどの敵の大軍を前に絶体絶命にあった彼らは、見事その危機を乗り越えたばかりではなく、今や仇敵の息の根を完全に断つことさえ容易い条件にある。後は足元に向けて弓を引くばかりである。
しかし、将門の口から出た命令に白氏は耳を疑った。
「――さて、諸共よ。いざ、筑波の客人を丁重に出迎えてやろうではないか! 鉾を構えっ! 迎え撃つぞ‼」
「わ、若殿っ、狂われたか⁉」
思わず馬上から身を乗り出し白氏が悲鳴を上げる。
「此処から動かずとも真下の水音目掛けて矢を射かけるだけで我らの勝利なのですぞ! だのにこの丘陵を掛け降りて正面からぶつかりに行くつもりか⁉ 敵は良正直下の従類伴類が百騎に近い、まともに当たっては勝ち目がありませぬ!」
食って掛かる白氏に対し、将門はまるで悪戯を仕掛ける前の悪童じみた笑みを向ける。
「白氏殿。打つ手なき我らの窮状を、ここまで導いてくれたそなたの妙案、ただ舌を巻くばかりじゃ。だがのう、勝負の結果というものはとどのつまり、直接自分で打って出て見なければ最後までそれが本当の白か黒かなど判らぬものよ! ――諸共、ついてこい‼」
唖然とする白氏を他所に、経明はじめ郎党達は先陣切って馬を飛ばす主君の気勢に後れを取ってはならぬと先を争い駆け下りていった。
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