第2章 川曲村の合戦 7


  一斉に打ち鳴らされる対岸からの鉦の音と、嵐に幹を揺らす林のような幟竿の群れ、そして渓谷を轟かす大軍の鬨の谺に、副将ら揚陸部隊の動揺は実に著しいものであった。何しろ武具の殆どは船に乗せ終え、将兵の半数も船縁に足を掛けているところ、謂わば脱皮途中の蟹のような尤も無防備に近い状態である。奇襲の有利と褒美の皮算用に沸いていた先程までの士気は既に夜霧と散っている。見るからに数の上でも、地の利を見ても相手の優位は明白な状況であった。それに対する自軍の不利は、戦に不慣れな俄か兵士や船頭ですら腕組みせずとも推して知れる。

 今にも対岸の敵は小高い丘陵の上から川を挟んで一斉にこちらへ矢を射かけてくるであろう。宵口の朧の月夜をまるで今し方の雁の大群が菫の空を覆ったように、新月の夜更けのように矢の嵐で真っ黒に塗り潰し、無慈悲な一斉掃射は河原も甲板も川の水も自軍の血で真っ赤に染めることであろう。

 その様を思い描いた傭兵や舟人足達に忽ち恐慌が広がっていく。慄きに思わず手綱を強く引いてしまい、大きく身動ぎした馬に振り落とされた兵士が川に転落し、その水柱に驚いた馬らがまた背中の主を振り落とす。船上の動揺は陸の上にまで連鎖し、混乱に陥った徒兵らが松明を片手に右往左往する。

 この様子を見下ろして勢いづいたか、対岸の鬨の声は更に大きく轟き渡り、無数の幟竿は唸りを上げて振り回される。

 やがて船団の一艘が出航の合図を聞かぬうちに舫綱を切り捨てて漕ぎ出した。

「おい待て、貴様等何処へ行くか――⁉」

副将が目を剝いて舟へ向けて叫ぶ。明らかな戦線離脱、敵前逃亡である。

 一隻が離脱すれば、それを見た他の舟らも我先にとそれに続く。あれ程の大軍が此処まで押し寄せてくるようでは、とても豊田を目指しても揚陸奇襲の効果は見込めまい。豊田の川岸で待ち伏せを受け、揚陸はおろか舟から降りぬうちに矢衾にされるのは目に見えている。

 敵が矢を番えぬうちにと、敵の矢が届かぬところまでと、兵の半ばを船着き場に残したまま離れていく舟を追い、慌てて鉾を放り捨て川に飛び込む者もいれば、武具を脱ぎ捨てながら本陣とは反対側の藪の中へ逃げ去っていく者らもある。


「ああ、そんなっ……!」

 目の前で繰り広げられる自軍の無様な醜態に、為す術もなく副将は両手で顔を覆った。最早収拾が着かぬ。


  船団は瞬く間に崩壊した。



 辺りがすっかり宵闇に飲まれる頃には全ての舟が川岸から消え、河原に燈された味方勢の松明の数は副将の周囲に数えるほどばかりとなっていた。


 そして川の向こうからまさに迫ろうとするのは、幾百、幾千とも知れぬ大軍率いる将門である。

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