第2章 川曲村の合戦 5


 同日夕刻、新治郡川曲村付近。


 将門主従ら偵察隊が馬を飛ばし、川曲村西側対岸の丘陵に辿り着いた時には、既に日は赤城山の裾野へ傾きつつあった。

 蹄を鳴らしながら河川を見下ろす丘の方へ近づくと、薪の気配と共に大勢が火を囲みこちらを伺う気配があった。

 見れば、西日に照らされた河川付近には川を渡り戦火の気配を遁れてきた多くの村の民らが火を起こした傍で身を寄せ合っており、将門らの姿を認めた民衆の幾人かがくぐもった悲鳴を上げてどよめいた。

 避難民らからすれば突如目前に現れた騎馬の一群は敵国の首魁である。自国の筑波山周辺が将門らに焼き尽くされたのも彼らの記憶に新しい。怯えの様子も露わに我が子を抱き寄せ身を震わせる母親の姿に将門は居たたまれず目を逸らす。

「――殿、あれをご覧あれ!」

 配下の素っ頓狂な声に丘陵の岩陰から敵陣を見下ろしてみると、今まさに良正勢先発隊が接岸された舟へ乗り込もうとしているところであった。



 当時の坂東平野は後世の関東に比べ平野部の奥地にまで広い塩湖・湖沼が侵食していたため、現在と流路はだいぶ異なるものの鬼怒川・小貝川や利根川水系などを水路に利用した水上運搬が、陸運と並ぶ重要な物流手段の一つとして非常に発達していたと推察されている。

 鬼怒川東岸に位置する川曲村は、香取の海を経て上総へと至る水上交通網の一拠点であり、将門本拠地である下流の豊田郡へ街道と水道を繋ぐ玄関口でもあった。

 そんな水上流通の中継地点である川曲村は、今や朱旗を掲げた徒兵の盾の壁に四方を囲まれ、実に物々しい様相を見せている。

「やんや、半月ばかりでよくもこれだけの傭兵が我が元へ集ったものじゃ」

 川沿いの本陣より、村落をぐるりと囲って猶余りある自軍の大勢に満足そうに頷いた良正は、続いて河岸に係留する大小数十艘の渡し船に視線を移し、更にほくそ笑む。

「やはり、筑波一帯の源氏所領を餌にして兵を募った効果は覿面じゃのう。彼奴等の多くは土地を失った浮浪農民じゃ。戦で働きを為せば再び田畑を手に入れられると皆大いに意気込んでおる。そして我らは野本の戦で失った荒れ地の耕し手を労せず手に入れることが出来る。我ながら実に互いの理に適うた妙策じゃて。見よや、あの者共の戦意の高さよ!」

 自画自賛に恵比須顔を綻ばせる良兼の傍らで副将も同意を示す。

「船頭や舟人足共の集まりも良うございましたな。いずれ田畑の収穫が落ち着けば、米や塩の運送に慌ただしくなりまする。その前のひと稼ぎという腹積もりでござろう」

 しかし、主に追従しつつも副将の顔色は何処か冴えぬ。

(……それに引き換え、我が従類達の士気の低さはどうじゃ)

 数多の舟を繋いだ桟橋付近には、馬を引いた良正郎党達が乗船用意の準備を進めているのだが、彼らの表情もまた皆一様に浮かぬ様子であった。

(まあ、無理もあるまい。大事な収穫の時期に駆り出され、その上に相手は我らと同門の豊田勢ときた。あちらの勢に縁者を持つ者も少なくはあるまい。幾ら褒美を積まれたとて気の進むものではなかろうよ)

 この度の争い、身内同士の競り合いとなるのは何も甥と伯父達だけではない。向こうの郎党一門から妻を娶った者もいれば、こちらから出向させていた親しい同僚も敵勢に加わっているのである。

 斯く言う副将も将門領近辺の出身であった。

 そこへ従卒の「乗船用意宜しい!」との報告の声に、彼の煩悶は中断した。

「御館様。先発の揚陸部隊、乗船の準備が整いましてございます」

「よしよし。――者共よ、改めて申すことでもないであろうが、この度の作戦の進行、今一度肝に銘じておくのじゃ!」

 鉾を握り直した良正が、配下達に対し、改めて確認を促す。

 即ち、川曲村より鬼怒川を南下した副将率いる水上部隊が敵本拠地西側へ揚陸・奇襲を試み、並行して良正率いる本隊が陸路より敵の東側から挟み撃ちとする、という策である。敵勢が西側からの攻撃を避け東側に逃走を試みたとしても、陸路の機動部隊が執拗に敵を鬼怒川に押し付け身動きを許さぬうちに殲滅せんとするものであった。

「仮に将門奴がこれを察し今から西か東へ動いたところで今更結果は変わらぬ。敵は水陸いずれかには背後を突かれることになるのじゃ。彼奴の首を討った後は、豊田をはじめ、その所領全て焼き尽くせ。草木一本残してはならぬ。護殿の嘆き、我らの手で晴らしてやらねばならぬでな。姪の無事も、拙者にとっては取るに足らぬことじゃ。捕らえた者の好きにして良いぞ。これも身内の不始末への戒めよ。惨々にいたぶってやるがよい。では者共よ、一門の不心得者一味を血祭りにあげようぞ!」



「布陣早々に夜討か。それも川を下っての奇襲とは。……今から鎌輪宿に取って返してもとても迎撃は間に合わぬな」

 界下に見下ろす敵陣の様子に叔父らの思惑を察した将門が舌打ちを漏らして悪態づく。

「恐らく敵はこれより陸河二手に分かれるものと考えまする。降河する船勢の他にこちら側へ渡り、下総側から陸路を下る一勢がありましょう。……しかし、この農繁期に一体どんな餌をちらつかせたらこれだけの兵馬や船を集めることが出来たのか」

 敵方の戦略を推察しながらも白氏は不可解さを拭いきれぬ様子で血の気の失せた唇を噛み締める。

「いずれにせよ、是が非でも此処で食い止めねばならぬ。今まさに叔父上の軍勢が我が営所や領民らを蹂躙せんと意気込む船出を我らが只此処で帽振って見送るわけにはいかぬ!」

 兜の緒を締め直しながら告げる主の言葉に力強く頷く郎党らの武者震いを見て、驚いた白氏が思わず将門を振り返る。

「お待ちくだされ。御覧の通り敵勢は舟人足を除いても三百は下りませぬ。対して我が勢は某を含め物見の十四騎ばかり。闇雲に丘を駆け降りたところであっという間に皆矢を浴びて河原に転がることになりまするぞ! 一体、如何なる策を以て挑まれるおつもりか?」

「策はない。……だが、見過ごすことは出来ぬ」

 不意に、ク、と将門の口元が不敵に釣り上がる。

「機はまさに今じゃ。今打って出ねば叔父上を止めることは出来ぬ。何、心配はいらぬともさ」

 そう言い放った上で白氏へニッと笑ってみせる。

 野本の戦以来うち沈んできた将門が久々に皆の前で見せる腕白坊主のような晴れがましい笑顔であった。

「この俺の武運の強さ、悪運強さよ、先の戦で見たであろう。白状すれば美那緒を攫ってきた夜も一か八かであったよ。……とどのつまりは武運悪運も果たしてどちらへ転んでいくか、打って出て見ぬことには判らぬものじゃ。勝つか負けるかの二者択一ならば如何なる勝負も五分と五分、十分勝機はあるというものよ!」

 主の気迫を目の当たりにした経明ら郎党らはどっと沸き返った。

「それでこそ我らが君、相馬で鳴らした虎殿じゃ!」

一同の様子に、ただ呆気にとられるばかりの白氏に対し、将門はおもむろに向き直る。

「白氏殿、そなたは真樹殿の大事な参謀じゃ。どうかこのまま真壁へと戻られよ。親爺殿からの危急の伝令、有難かったぞ!」

 礼を言う将門の背後で夕陽が山際に触れ、辺りに夕暮れの帳が影を差した。

 対岸からは出航用意の法螺の音が鳴り響き、それに交って塒を求める雁の低い声が足元の河原から聞こえてくる。

 ちらりと後方に目を遣りながら、将門が続ける。

「それと、済まぬが、そなたが立ち去る際に、あの民らを対岸の安全な常陸領まで誘導してほしいのじゃ。このまま此処に留まらせていては、我らの戦に巻き込んでしまう。最後に面倒を掛けてしまうが、頼まれてはくれぬか?」

若殿の言葉にふと辺りを見回してみると、先程まで怯えて震えていた村人達は、今や将門らに自分達への害意の懸念なしと見て取り、興味深そうにこちらの様子を伺っていた。

 視線を転じ、周囲を巡らした白氏は、自分を静かに見つめる将門に深々と低頭した。

「……仰せの通りに。しかしあの者らを逃がしてしまうのは未だ早うございまするぞ。――たった今、詰まらぬ策が一つ閃きましたれば」

 顔を上げた白氏の面には、只今の将門にも劣らぬ悪戯めかした不敵な笑いが浮かんでいたのである。

「……尤も、策というには合理性から程遠い、運に任せた術の類のようなものにございまするが。――然しながら、殿がご自身で大言される程の武運悪運強さに、某も賭けてみとうござる!」

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