第2章 川曲村の合戦 4

 

 同年神無月廿日。下総国豊田郡、鎌輪宿。


 見渡す限り黄金色の田園風景は今まさに収穫の季節を迎えていた。

 豊かな穀倉地帯である坂東一円に居住する者達にとって、この時期は貴賤を問わず特に多忙を極める。刈入れを終え、一週間程天日に晒し乾かした稲束は営所や各家々に運び込まれ、藁から籾を扱き落とし、空籾を除いた上で脱穀作業を行う。そうして玄米に加工した米の目方を図り俵詰めとしたものが続々と営所の米蔵へと運ばれてくる。担ぎ手の牛も馬も休みなしの、とくと手間労力の掛かる作業であった。将門側近らも、各世帯の計量や米蔵への運搬作業に立ち会い、或いは先の戦で働き手を失った家庭へ助力に赴くなど忙しく立ち働いていた。


……これ程彼らが労苦を費やしても、国府や郡司へ税を収めた後に領民らの手元に残るのはほんの僅かである。


「――おい、そこで何を呆けておるのじゃ?」

 稲束を担いだままぼんやりと上の空で明後日の方を見つめている経明を、傍を通りかかった遂高が不審な眼差しを向けて見咎める。

 賑わしく茜蜻蛉の飛び交う秋風に波打つ黄金色の稲浪が眩しい。

 彼らが農作業に勤しむのは野本の合戦で見事な活躍の末に討死を果たしたという男の家の三丁田(約三ヘクタール。現代の農耕技術並びに圃場環境・主食銘柄で作付したとして反収六百キロ玄米換算とすると約十八トンの米が獲れます)。矢を打ち尽くした後は二畳半の盾を振り回して敵を打ち据え、それが叩き割れても尚素手で相手を組み伏せ捻じ殺し、矢衾とされた後も敵に挑みかかり最後は立往生を遂げたという益荒男の如き次男坊を輩出した家庭であった。飯も一食に八合(お茶碗十八杯ちょっと)平らげたというから豪傑である。それだけの働きをした男の代わりを務めるとなると、人力でコンバインの代わりをするようなもの、五人掛りでも手に余る。

「日暮れの早い節だというに、一体何に現を抜かしておるのじゃ?」

 窘めながら経明の視線の先を辿っていった遂高は、それを見て呆れながらも納得顔で頷いた。

「……ははあ。なるほど」


「ふぅ……んっ!」

 畦にて待機していた萩野が、田んぼから手渡された稲束を背負籠に詰め込み、籠一杯に詰め込まれたそれを背負おうとするが、中々上手くいかずに何度も尻餅をつく。その度に野良衣の合わせが捲れ、真っ白な太腿が露わになる。

「よいしょ! よいしょっ!」

 漸く背に負った籠を荷役の馬の方へ運んでいく。重いものを無理に背負ったものだから、負い紐に左右を引っ張られ胸元が疎かになるが、よろめきそうな背の重みに息を荒げる本人にはとてもそれを気に留める余裕はない。

「うぅん……えいやっ!」

 漸く馬まで辿り着いた萩野が馬の背へ勢い付けて荷を乗せようとするが、わりと背の高い彼女がうっかり背筋を伸ばそうとすると荷物の重さにひっくり返りそうになるので、前屈みになって人の手を借りながら荷を馬の背に移そうとするものの、背負籠に引っ張られて野良衣がするすると引き摺られるものだから衣の裾が尻まで捲り上がりそうになる。


「……呆れた奴じゃ、でれでれと鼻の下を伸ばしおって!」

 相棒を叱りつけた遂高であったが、すぐに感心したように萩野の方を眺めやる。

「しかし健気なものじゃ。そもそも萩野殿は我が主と同じ平の血筋に連なる令嬢。上総国府の官女も務めていた、謂わば屏風の向こうの女房殿じゃ。それが主を慕うあまり官職も家柄も捨て去られ、今では百姓らと共に野良仕事も厭わらぬとは。……それにしても、」

 ほっ、と荷を積み終え項の汗を拭う萩野が見せる思わぬ艶めかしさに、これで割と堅物で通っている遂高も思わずニヤリと笑う。

「確かにあのしどけない姿は、どうにも目のやり場に困るのう。本来なら普段男子の前に御顔さえ滅多に晒されぬ御殿の官女じゃ。貴公が眩しく見惚れるのも判らぬではないが」

 照れたように苦笑しながら傍らの同僚に視線を移すが、経明は呆けたように口を半開きにしたまま若き人妻に見惚れているばかり。

「……のう、遂高よ」

「なんじゃ?」

「あの野良衣の下には、無論何も身に纏うておらぬのであろうな? ……つまり、あれとあれの間の翳りの奥に見えるのは、」

「お前大概にせいよっ!」

 そこへ見るからに意地の悪そうな皺くちゃの老婆が、死神の如き樫の柄の草刈鎌を手に鬼の形相で二人に迫ってきた。

「こンらオメエだず! この寝子の手も借りてェ時に何二人して油売っとるだばいっ‼ 明日は雨振るって言うただばい! 稲穂水さ浸けて芽ェ出たら使いモンにならねってお役人のくせに何で判らんかこのコボケナスっ!」

 怒声を上げながら大鎌の柄を振り回して二人の頭を小突き回す。

「ああンっ? さってはおめエだず、萩野の嬢ちゃんのケツさ見惚れてたんでばい! おお、おお、なんて嫌らしいコマセ童共だばい! この、この穀潰しの青瓢箪がっ!」

「痛ってえ!」

「働け、この!」

「待て、そっちは刃の方じゃ!」

 一頻り二人を打ち据えた老婆がペッと地面に唾棄すると、一段落つき畦に腰かけ開いた胸元をパタパタと仰いでいた萩野の方へのそのそと歩み寄り何やら耳打ちする。

「……おい。あの婆、何のつもりじゃ?」

 何気ない様子で耳を傾けていた萩野が突如顔を真っ赤にし、二人の方を一瞥すると慌てて胸元と裾を抑えて走り去ってしまった。

 唖然と立ち尽くす二人を尻目に老婆は再び地面に唾を吐き捨てると、夕陽を背に受け何処へと立ち去っていった。

「あの婆、一体萩野殿に何を吹き込みおったか!」

 怒りに拳を握り締める遂高の隣で、経明は頭を抱えてしゃがみ込んだ。

「あああ、俺はもうおしまいじゃ! よもや萩野殿に軽蔑されたのではないか?」

「今更心配せずとも、俺も軽蔑したわ!」

 ふと懸念を覚えた遂高が、落ち込む経明に釘を刺す。

「経明よ、貴公も存じているとは思うが、萩野殿は故国に夫君と幼子を残してこの地に出向いておるのじゃ。横恋慕を抱いたところで叶わぬぞ」

「それくらい、承知しておるわ」

 そんな遣り取りを交わす二人の目の農道を、疾風の如き勢いで走り抜ける騎馬武者が一騎。

 その背中を見送りながら経明らは目を丸くする。

「今の早馬、真樹殿の参謀であったな」

「確か、白氏といったか……」

 一瞬垣間見えた彼の表情、一刻を争う気配と見えた。

 これは只事ではあるまい。

 二人は揃って頷き合うと、灌木の木陰に繋いでいた愛馬へと駆けて行った。



「真壁より使いに参った。至急館主へ御目通りを乞う!」

 門前からの声に、郡司への上貢米を勘定していた将門は慌てて執務室から飛び出した。

 美那緒もまた驚いた様子で母屋から顔を覗かせる。

「一体何事じゃ⁉」

 押っ取り刀で玄関へ駆け付けた将門の前に膝をついた白氏が、弾む息を堪えながら喘ぐように告げた。


「若様の叔父、平良正が兵を起こし、大挙して豊田へ向けて押し寄せておりまする!」


 白氏の報告に将門は目を剝いた。

「そんな馬鹿な! 一体どうやって兵を揃えたのじゃ⁉」

 前述の通り、この時代は未だ兵農の境の分かたぬ状況。故に人手を特に要する農繁期の合戦は互いに避けるのが慣習となっていた。無理に兵を起こせば田畑の耕作はなおざりとなり、人心を失うに留まらず、いずれ国府への上貢も滞り領主自身の首を絞めることとなる。尤も、それを無理強いしても余りある見返りがあるというのなれば話は変わってくるが、いずれにせよあまりに常識を外れた敵の動きである。

「敵は結城郡川曲村に一旦陣を張り、鬼怒川河畔に舟を集めている様子。河を伝ってくるとなると、出航して数刻と掛からず豊田は敵の上陸を受けまするぞ!」

 切羽詰まったような白氏の口振りにも、事の危急さが現れている。


 叔父の名、そして新たな戦の知らせを耳にした美那緒が激しい悔恨に唇を噛み締める。全ては自分の逃避行が発端となった争いである。扶達のように、自分と浅からぬ縁のある者が再び将門と争い血を流すことになるかもしれぬ。


 そこへ馬を駆った経明らが門前に到着した。

「殿、白氏殿、何事でござるか!」

 詰め寄る二人を前に暫し黙考していた将門が顔を上げる。

「いずれにせよ、敵勢の状況を確かめぬことには始まらぬ。直ちに川曲村へ物見に赴くぞ。――二人共、俺についてこい!」

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