第2章 川曲村の合戦 3


 同年長月。常陸国筑波郡水守、平良正居所。


 屋敷の馬場には、まことに毛並みの見事な黒馬が数頭、そして黒漆も艶やかな八葉車が留め置かれていた。それらの装飾にはいずれも嵯峨源氏を示す紋章が示されている。

 しかし、この駿馬や牛車の持ち主が放つ号泣は母屋から数棟隔てられたこの馬場にまで聞こえ、車番の牛飼童や付近を通りかかる家人をハッと竦ませるのであった。


「――嗚呼っ! 良正殿や、儂は倅達の無念を思うと、この身をずたずたに引き裂かれる思いなのじゃ! 倅達の仇を思うと、憎しみに六腑が真っ赤に燃え滾る思いなのじゃっ! 嗚呼っ‼」

 互いの腹心ら居並ぶ応接間にて、屋敷の主人であり将門の叔父――平良正の前で見せる前常陸国大掾、源護の悲嘆ぶりは哀切の極みを通り越し最早鬼気迫る様子であった。

「嗚呼っ! 良正殿、良正殿っ、どうか! どうか倅達の仇を討つお力をお貸しくだされ、のう‼」

 額づいては白髪を振り乱し面を上げる老爺の顔面が真っ赤に染まっているのは、連日の号泣の余り涙腺が罅割れ裂けた双眸からダラダラと流れ出る血涙と、猛烈な歯噛みにより歯茎が膿み潰れた口角から零れ出た血泡によるものである。

 半年前の戦の後、息子達の訃報を耳にした護はその場で昏倒し、数か月もの間人事不省に陥っていたという。

 つい先日漸く正気を取り戻したばかり、未だ半死半生に等しい衰弱しきった身体を引き摺りながら常陸まで漕ぎつけてきたのは、まさに激しい復讐の執念によるものという他はない。

 幽鬼の如き瘴気をその身に纏っているようにさえ見える前大掾の有様に、最初は憐れみを感じ同情の涙を浮かべていた同座の者達もやがてその執念の凄まじさに圧倒され、今やその悍ましき狂執の化身を前にして慄きに顔を強張らせぬ者はおらぬ。

「……舅殿。拙者も同じ仇の手で兄国香を失った故、貴殿の断腸の悲痛、我が身の上に重ねられて止みませぬ。……しかしのう、」

 一同の中で只一人、察し顔を崩さぬまま黙って舅の話を聞いていた良正であったが、やがて大仰に嘆息しながら護へ首を振ってみせる。

「先の合戦にて我が一門が被った災禍もまた甚大。筑波付近の所領は焼け野原となり、民は悉く散り失せ、当分彼の地での耕作は望めぬ有様じゃ。甥の貞盛もまた、今は雌伏の時也と、一先ず将門と手を打ち、耐え難き無念を堪えながらも殊勝に領地の復興へ臨んでおると聞く。……貴殿の御領とてご事情は同じはずじゃ。お互い、まことに忍び難き思いではあられようが、今はまず領民らの安寧の為にこそご尽力されるべきではないか? 亡くなられた御子息らもきっとそれを望んでいるものと拙者愚推致しまするが……?」

 真っ赤に血走った護の眼差しを真直ぐに見つめ返しながら、静かに諭すような口振りで良正が語りかける。

 しかし、護は更に威圧を込めて娘婿を睨み据えるばかり。


 ……やがてぶるぶると肩を震わせながら護は血を吐くような嗄れ声を発した。

「そ、其許は、儂の嘆きの深さを何も理解されておらぬ!」

 まるで咬みつくような勢いで良正に食ってかかる。

「己の身に重なる思いと其許は今申されたな! 成程、儂とて貴殿とこうして対面するまでは、仇敵を同じとする我が娘婿故、儂の悲憤に耳を貸し共に涙してくれるものと只信じ、直ちに兵を起こし共に戦旗を掲げ立ち上がってくれるものと只々信じ、病みやつれた我が痩躯に鞭打つ思いで其許の元へ這ってきたのじゃ。それこそ、きっと儂と同じ思いを重ねてくれようとな! だが、只今其許が儂に向かってその口から放言されたは、こ、この義父に向かって、さっさと恨みを呑んで焼野の土を耕せとな⁉ 実父の仇敵と手打ちに走った親不孝息子を見習えとな⁉ ああ、何という情けない言葉じゃ! なんと心無い男の元に娘を嫁がせたものじゃ!」

 そう叫びオイオイと声を放って再び泣き崩れた。

 義父の狂態を目の前にしながらも良正は表情一つ動かさぬまま、黙って憐れみを込めた眼差しを向けるばかりである。

「其許に儂の哀しみの何が判るというのじゃっ! 破落戸ごろつきの小倅に息子の花嫁御寮を横から掠め取られ、可愛い倅を全て手に掛けられた挙句、我が屋敷も、領地も、民も、全てを焼き尽くされた悔しさが! 面目も潰され、一門の将来も潰され、全てを奪われた我が絶望が如何ほどのものか、其許になど判るものかっ! うわああああーっ‼」

 浅ましい程にあられもなく激情を曝け出す老爺の姿には、先程まで復讐鬼宛らの妖気を漲らせていた面影は最早見られない。今一同の前で床に蹲り血涙に咽んでいるのは、全てを失い慟哭に悶えるばかりの哀れな一人の老人である。

「舅殿。……ご期待に沿えず、まことに申し訳ないが」

 微かに涙を眦に光らせながら、護の前で良正は深く低頭した。


 ……突如、護はがばと顔を上げる。額づく良正をじっと見つめる護の眼差しは、先程の物凄いものから一転し、まるで漆黒の洞窟に蝋燭の明かりが微かに燈ったような虚ろを宿していた。


「……ならば、良正殿よ。我ら源氏の全てを其許に差し出そうぞ。――それでどうか、将門の首を‼」


 巌に徹していた良正の頬がピクリと引き攣った。

「下総、常盤に跨り下野に及ぶ筑波一帯の所領も、幾万の民も其許のもの。一千騎を越す我が源氏将兵の全て其許の配下としよう。……無論、女達もじゃ。源一門の婦女子はもとより従類、伴類の妻女も子女も全て其許の思うが儘に致すがよい。――だからお願いじゃ、将門を討ってくだされ、どうか将門を討ってくだされっ!」

 正気の沙汰とは思えぬ主の言葉に護側近の者達が仰天して飛び上がった。

「御館様⁉ い、一体何を宣われるかっ!」

 血相を変えて声を上げる従者の声も最早その耳に聞こえぬ様子。

 老人の両目に浮かぶのは今までよりも一層凄みを増した狂気に他ならなかった。憎悪が全てを塗り潰してしまったが如き双眸であった。

「……御戯れは止されよ。一門の大御所たる貴殿が軽々に口にすべきことではありませぬぞ!」

 眉を顰め窘める良正を前に護が叫ぶ。

「我が倅達が皆死んでしもうて、何が領地か、何が民かっ! 儂が只々ひたすらに望むは、我が仇敵、我が怨敵将門の首のみじゃ!」

 あまりに大それた申し出に流石の良正も悩まし気に腕を組む。


 ……しかし彼の思案はごく短いものであった。


「――貴方様の我が甥への憎しみのお気持ち、まさかそこまで御強いものであったとは……!」

 独り言のように呟くと、顔を上げた良正は和らいだ表情で護に頷きながら微笑みかけた。

「……判り申した。舅殿の御心痛の深さ、決して軽んじていたわけではござらぬが、恥ずかしながら只今の勿体なき御提案を伺うに及び、漸く拙者も御子息らを失われた御身のお嘆き、我が痛みと知るに至ったものでござる」

「嗚呼っ、良正殿。それでは我が申し出を受けて頂けるか!」

「最早、将門は我が甥に非ず、我らが仇敵なり! 共に力を合わせ、あの破廉恥漢奴を攻め滅ぼしましょうぞ!」

 まるで今迄から掌を返したような主人の変わり身ぶりに、家臣達も困惑したように視線を交わし合う。

「おお、おおっ! それでこそ我が娘婿殿じゃ! これで扶達も冥途にて浮かばれることであろう!」

「では早速兵を集める故、約定書を取り交わしましょうぞ。先程の貴殿の御提案も努々忘れずに書き付けてくだされよ。それを掲げて参集を求めれば、近隣の兵共、先を争って我らが軍旗に集い、戦場では大いに発奮を示すものであろう!」

「御館様、御乱心為されたか! 我が源氏の臣や筑波の民を平氏に売り渡すおつもりかっ⁉」

「御君よ、何卒思い留まりくだされっ!」

 縋りつかんばかりの態で主を止めようとする従者達の抵抗も、良正家臣達に押し止められる。

 護は只もうウットリした顔色で良正から差し出された約定書にさらさらと筆をしたためた。


「ああ……儂には、もう既に将門奴の首級を目の前にしているような夢見心地じゃ。どうか笑うてくりゃるなよ。儂は今感無量の余り、筆を持つ手が震えてならぬ。将門奴の血を浴びれると思えば、儂の小指の先までもが、喜びに小躍りを禁じ得ぬのじゃ!」



 行きと帰りとで打って変わり、車中の主は喜色満面、馬上の従卒達は一様に消沈という異様な雰囲気を醸す一行が屋敷を後にし、一人自室に引き上げた良正はつい先ほど取り交わした約定書を両手に、一言一句を舐り回すように読み返した。

 何度も何度も忙しく視線を文面に上下させるうちに、やがてその肩がわなわなと震えはじめる。


 やがて、ふうーっ、と深い溜息を吐くと同時にぽつりと独り言が漏れた。

「……素晴らしい。将門を討てばその所領と合わせて筑波山がそっくり我が物となるか。北坂東のほぼ半分が我が庭となるか。……素晴らしい、実に素晴らしいことじゃぞ!」

 とうとう堪え切れずに大きな高笑いを上げる。表で茣蓙を敷き川魚を干していた雑仕人達が驚いて顔を上げ、何事かと顔を見合わせる。


「――うひゃひゃひゃひゃひゃひゃっ! 耄碌爺奴もうろくじじいめ、こちらが勿体をつけてやったらまんまと有り金全部叩いていきおったわ。それも期待以上の大盤振る舞いじゃ。これは笑いが止まらぬて、うひゃひゃひゃっ!」


 もう体面を取り繕う必要もあるまい。良正は誰に憚ることもなく本性を曝け出し哄笑の独白を続けた。

「将門が憎くないのか、だと? ああ、憎いともさ。舅殿に誘われずとも、いずれあの忌々しい良将の小倅、この手で殺しにかかっていたところであったよ。何もあの老い耄れを意地悪く焦らさずとも初手から二つ返事で飛びつきたいところであったが、そこは駆け引きよ。折角の申し出、ちっとは業突張って多少の色を望んでみたところで罰当たりにはなるまいて」

 良正の顔に残忍な影が浮かぶ。

(……良持奴、拙者は幼少の頃からあの兄が嫌いじゃった。拙者を妾の子と蔑み、疎んじおって!)

 幼少の折の様々な渋い思い出が過り、表情に浮かんだ陰影がますますどす黒いものとなる。

(長兄ぶった鼻持ちならぬ国香も、何を考えているのか腹の読めぬ薄気味悪い良兼も嫌いじゃったが、良持は特に大嫌いじゃった。粗野で野蛮極まりない下品な男であった。陸奥出向から戻ってきた時など、俘囚共の肥臭い匂いをぷんぷんと纏わりつかせ我慢ならなかったわ。坂東平氏の重鎮たる立場を忘れ、身分卑しき陸奥の賎民共に矢鱈と肩入れしおって。早々に死んでくれてせいせいしたものじゃ!)

 ふん、と小馬鹿にしたように鼻を鳴らす。

(だから、良兼らが良持の倅を陥れる計画を持ち掛けられたときは、誰よりも率先して事を運んだものじゃ。そもそも、あの悪垂れの将門から姪との婚約と親爺の遺領を取り上げるだけで済ませるというのが生温い仕置きであったのじゃ。最初から殺しておけば無駄な戦などせずに済んだものを。……尤も、)

 にんまりと子供が見たら泣き出すような満面の笑みを作る。

(――その結果として、拙者は間もなく坂東一の大分限者となる。これにて拙者も八国の国司が束になっても太刀打ちできぬ受領持ちじゃ。これは死んだ良持やこれから死ぬその倅に感謝せねばなるまいのう!)

 脳裏に広がる桃色地図に再度の哄笑を一頻り響かせていた良正であったが、やがて笑いを収めると、傍付きの者を呼び寄せた。

「これ、誰か居らぬか!」

「お、御前おんまえに」

 普段の勤めの通り戸口の外に控えていたが為に、主の独り言から大笑いに至るまで聞きたくもないことを否応なく聞かされ続けていた気の毒な従者が青い顔を引き攣らせながら現れた。

「直ちに兵を集い、合戦の準備を致せ。従類、伴類のみならず、搔き集められる限りの兵を揃えよ!」

「はっ!」

 畏まって退出する従者の背中へ念を押すように呼び掛ける。

「良いか、将門は手強いぞ。源氏の二の足を踏まぬように、迅速に兵を整えるのじゃ。能う限りの素早い兵を用いよ!」



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