第2章 川曲村の合戦 2


 同月。下総国豊田郡、鎌輪宿(将門居所)。


 鬼怒川の畔に在る将門本拠は、豊富な水源に囲まれ八十町程の肥沃な農地を抱えた豊かな土地であった。

 初夏を目前に控えた水田は青々とした稲葉がそよぎ、童らが棒切れを振り回しながら歓声を上げ蝗や蛙を追いかけ回している。日当たりの良い草地では近くの御厩の従類達が都への上貢として育てている毛並みの良い馬を連れ、草を食ませている長閑な光景が見える。

 今はまさに梅雨の最中の貴重な晴れ間である。入道雲が遠くに昇っているうちにと、従類伴類を問わず男手は皆田畑に出て伸び放題の草を刈り、その妻や娘らは自宅や営所の洗い物を真っ青な夏空にたなびかせる。

 この「営所」というのは後に謂う処の「砦」に近いものだそうだが、厩や食糧庫、酒や漬物等の発酵蔵を備えた上に平時の住居も兼ね、規模の大きなものでは衣類や日用品、武具などの工廠も併設していたというから、後世の山城や武家屋敷のような性質のものであったろう。

 その豊田営所の周りで忙しく立ち働く女達の合間を、ふさふさの黒髪を背に揺らし頭に手拭いを巻いた萩野が、野草を詰め込んだ大きな籠を両手に抱え、ほっほっ、と息を弾ませながら小走りに進んでいる。

 寝殿の前を通りかかると、将門と彼の妻であり萩野の主である君御前――美那緒の姿が見え、歩みを止める。

「殿様、御前様。ご覧あそばせ、紫草がこんなに採れましたよ!」

 微かにそばかすの見える可愛らしい顔を綻ばせる萩野の笑顔に、将門らも揃って目を細める。

「これは良い染め物が拵えられそうじゃのう」

 紫草は、その名の通り主に根を紫色の染料や薬の材料に用いる。現代の関東地方では野外に自生するものはほぼ姿を消してしまったが、『更級日記』をはじめ古典文献においてはしばしば本種の可憐な白い小花の坂東平野一面に咲き誇る様子が初夏の彩として描かれている。

 籠の隅に山百合の開きかけた蕾が添えられているのを摘まみ上げた美那緒が萩野に微笑みかける。

「この花が咲き始めるという事は、もう夏はすぐ目の前なのね」

「御前様もたまにはお外へお出になれば宜しいのに。もう筑波山では一番蝉が鳴き始めましてよ?」

 眉を八の字にする萩野に苦笑しながら主人の方を見やった美那緒の表情が、微かに曇る。

 たった今まで自分や萩野の前で浮かべていた将門の微笑は、既に影を落とした沈鬱の表情に沈んでいたからである。

(ああ、主様は未だに野本の戦の惨劇を気に病んでおられるか……)

「御前様?」

 女主人の浮かぬ様子を心配そうに萩野が首を傾げる。

 美那緒より幾つか年長で、普段は皆の前で明るく振舞うこの侍女も、元を質せば平氏所縁の出自を持つ上総介付の女官であり、良兼娘の遊び相手として幼少の頃から共に過ごしてきた幼馴染である。将門との逃避行の後、程なくして女主人を慕う余り夫と幼子を上総に残したまま下総まで追いかけてきたのであった。その背景には兄公雅の手引きがあったというが定かではない。

(……この娘の平穏も、私達の為に巻き添えにしまったのだ)

 そう思うと、曇りのない眼差しで自分を覗き込む侍女の眼差しにも思わず目を伏せてしまいそうになる。

 そして、将門から聞いた、激しい憎悪に歪んだ凶貌を浮かべたまま斬り掛かってきたという扶の最期を思い返すにつけ、圧し掛かるような重い胸の痛みを覚える。


 突然将門との婚約が取り消され、代わりに扶との縁談が持ち上がったのは、良将の死から幾日も立たぬうちの事であった。

 戸惑いと深い哀しみに暮れた美那緒であったが、扶にとっても寝耳に水の事であったに違いない。彼は互いに想い合っていた幼馴染の少女と添い遂げたばかり、まるで筒井筒の縁と周囲から祝福されていたのである。

しかし、父達にけしかけられたのであろう婚前の妻問の作法として扶が美那緒の寝処を訪ねてきた最初の夜。寝具の上で身を強張らせ屹と睨みつける美那緒に触れようとするどころか、扶は部屋の敷居を潜ろうとせず縁側に腰かけたまま所在なげな困り顔でとりとめのない事を一人語りするばかりで、明け方を待たずに帰ってしまった。

そんな夜を幾夜か過ごすうちにいつしか打ち解け、互いに笑顔で言葉を交わすようにさえなった。


 そして或る夜、帰り際に扶は寂しそうな笑顔を美那緒に向けて告げた。


「――もう今宵限りで此処には来ませぬ。毎夜其許の元から帰る度に、妻が哀しそうな顔で起きて自分を待っておるのを見るのが辛うなりました。短い間であったが、楽しいひと時でござった。連夜お休みの邪魔をして済まなかった。……さらば」

 そう言って去っていった扶の哀しそうな顔が忘れられぬ。

 己の立場故、また源平両一門の繁栄の為とはいえ、この強いられた妻問は、彼ら夫婦に哀しい傷を残したという。

 将門が自分を上総から連れ去ってくれた時、只自分は天にも昇るような幸せを心の底から感じていた。しかし、愛妻の心を傷つけてまで守ろうとした一門の矜持と将来を突然踏みにじられた扶の絶望と怒りはどれほどのものであったろうか。彼が憎しみに心を囚われたのも当然の事であったろう。


(皆、望んで憎み合うたのではない。望んで殺し合うたのではない。……何と哀しい争いであったろうか)


 そうして未だに戦の記憶に深い苦悩を抱える夫の横顔に浮かぶ翳りを垣間見るにつけ、美那緒は強い胸の痛みを覚えるのであった。



 ……未だ将門の脳裏には、炎を上げて燃え盛る石田舘や、紅蓮の火焔に呑まれていく山麓の家々が焼き付いたままであった。

(これが戦と知っておるつもりであった。……しかし、あれは、獣の所業であった。恰も餓鬼道の絵図であった)

 幾度も身の内で割り切ろうと試みたが、夜目を閉じるたびに、瞼の裏は未だ煌々と筑波山の宵を焦がす戦火が煌々と闇夜を赤く染めているのだった。



 将門が人を手に掛けたのは、野本の戦が初めてではなかった。

 滝口警護の職に就いていた将門は体面上清涼殿の衛士として勤めてはいたが、当時の京の治安は悪化の一途を辿っており、急遽増員された検非違使庁の下卒も規律とは程遠い者達ばかりであった。時には宮中の衛兵らも治安維持に駆り出され、洛中で武装した群盗と刃を交わす事態も珍しいことではなかった。先の合戦で彼が見せた手腕もその時叩き込まれたものである。



 源氏勢敗走の後、敵陣周辺の葦原を改めていた時の事であった。

「おい、兄上。こ奴らは――⁉」

 素っ頓狂な声を上げる弟の傍に駆け寄り、彼が掴み起こした敵の亡骸を覗き込んだ将門は息を飲んだ。

「これは……! ――まさかとは思うたが」

 最初に自分を奇襲し返り討ちにした黒裏頭の徒兵の亡骸へ歩み寄ると、既に硬直しかけていた小柄な亡骸の覆面を解き、露わとなった死に顔に将門の表情は悲痛に歪んだ。


 ――そこにいたか、将門!


 そう叫んで斬り掛かってきた敵の声、そして刺し貫かれた時に挙げた悲鳴は猛々しい男武者の声音ではなかった。

 未だ隆起に乏しい幼い胸を朱に染め横たわるのは、未だ女童ともいえる年頃の若い娘であった。

 沈痛な面持ちで将頼が手を合わせる遺骸もまた、その姉妹とも言えそうなあどけない女童である。

「勇ましき兵らなれど稚気が匂ったが、やはり……」

 振り向くと、沈痛な面持ちの真樹がこちらに馬を寄せてきていた。

「田畑を失い、或いは苛政を遁れ、故郷を棄て流浪に走った百姓の子弟らの末路は過酷じゃ。野垂れ死ぬか人買いの手に渡るか、運良く生き延びてもこの娘らのように良民に仇を為す野盗に堕ち果てるか。……今の世に珍しいことでもないが、痛ましいことじゃ」

 将門の傍らに下馬した真樹が居たたまれぬ様子で呟き、同じように合掌する。

「……しかし、この娘ら、我らへ斬り掛かるに迷いが見えなかった。人を斬るに躊躇いのない太刀であった。……斯様に幼気な身の上で、一体今日までどれほどの修羅を乗り越え地獄を垣間見て生き永らえてきたのか」

 虚ろに虚空を見上げる娘の双眸に、そっと触れる。冷たく凍えた瞼は、決して閉じてくれようとしなかった。



 物思いに沈んでいた視線を、ふと営所の庭に転じれば、洗濯物や食材の入った籠を手にした雑仕女達が忙しなく行き交っている。作業の手を休め井戸端で談笑に耽る娘達も見える。……ともすれば、自分が殺めた黒裏頭の女兵に重なりそうになる。



 貞盛より将門の元へ和睦の申し入れがあったのは、その一月後のことであった。

 


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