第2章 川曲村の合戦 1
――又筑波・真壁・新治三箇郡の伴類の舎宅五百余家、員の如く焼き掃へり。哀しき哉、男女は火の為に薪と成りぬ。珍財は他の為に分かつところとなりぬ。
当時の合戦には、中世以降のそれとは大きく異なる特徴がある。
その一つが敵地集落への放火・略奪といった焦土戦術が専らとされていたことであった。
後の戦国の世においては、戦の褒美は領地を得ることであり、戦功により肥沃な穀倉地帯を得ればそれを耕す手が必要となる。その為、たとえその地に戦火が及ぼうとも土地の民、即ち非戦闘民と彼らの耕作環境は出来るだけ無傷で済まさなければならぬ。
しかしこの時代、戦となれば平民全てが兵として弓を取り、或いは鉾を携える。そして彼ら伴類の働きに対する大きな褒賞は敵地にて恣にできる掠奪であった。有事に在って市民は存在せぬ、というのが当時の価値観である。戦火に於てその生々しさは浮き彫りとなる。
戦術の一環として敵の戦闘力の大元を潰すため、また軍功としてより多くの褒美にありつくために、将門配下の手によって国香伴類らの家屋に次々と火が放たれていく。炎と黒煙、そして焼け出された後も兵らの矢を浴びのた打ち回る者らの呻き、血に狂った者達からけだものじみた狼藉を受ける女子供の悲鳴や慟哭が上がるたびに、益々兵達の狂乱じみた士気も声高らかに真っ赤に燃え上がる夜空を震わせた。
――箭に中り死せる者は意はざるに、父子の中を別れたる。楯を棄て遁るる者は図らざるに夫婦の間を離たれぬ。
戦火のどさくさに紛れ近辺の野盗共も掠奪に加わり、護・国香ら本拠とその近隣集落は阿鼻叫喚の地獄と化した。
――山王は煙に交りて巌の後に隠る。人宅は灰の如く風の前に散ず。
……そして全てが焼き尽くされ、奪い尽くされ、灰燼となり果てた石田営所――自身の生家を目の当たりにした国香子息、平貞盛が未だ生々しい焼け跡の上に呆然と膝をついたのは合戦から数か月を経た承平五年初夏の事であった。
当時の地方貴族子弟の慣習に習い都に仕官し、左馬寮の武官職に就いていた貞盛は、父の訃報を受けたものの残務の余り遅れて帰郷し、その日、彼は数年ぶりに真壁・石田の土を踏んだ。その彼が真っ先に目にしたのは、自身の従兄弟と母方一族との合戦に巻き込まれ一面の焼け野原となった市街地の有様であった。
言葉もなく顔を覆い肩を震わせるばかりの貞盛はじめ共に都から戻ったばかりの彼の従者達の周りに、続々と見知った郎党達が集い、同じく涙に暮れる。その中には彼の妻の姿もあった。
生き残った従類・伴類らの手により一部では復興の気配が見え始めていたものの、合戦前に居住していた者の多くは他所へ散ってしまい、集落の大部分は真っ黒な残骸を晒したままである。
「――嗚呼。これが筑波の麓の花と栄えていた我が故郷か、……我が生家か!」
屋敷を囲む土塀のみが焼け残った営所跡地で泣き伏せる貞盛の傍らに、弟の繁盛が同じく嗚咽に咽びながら歩み寄る。
「父上の亡骸は、将門奴の手勢共に辱めを加えられる前に辛うじて炎の中からお連れし、既に荼毘に付しておりまする。しかし、母上は……」
「……まだ、行方は判らぬのか?」
貞任の横で声を詰まらせながら妻の関御前が答える。
「加波山の山中をお一人放心したように彷徨われているとの話が人伝に聞こえてくるばかりでございまする。その御姿を垣間見た樵達は山姥じゃと恐れて山に立ち入らなくなったとか。……義母上の御身を思うと、胸が張り裂けそうでございまする!」
藤原氏の出身である貞盛の母は、燃え上がる石田館から一人脱出した後、行方知れずとなっていたのである。
「……兄上よ。これから後の始末、どうされるおつもりか?」
弟の言葉に、貞盛が涙に濡れた顔を上げる。
「我ら郎党、既に父上御弔いの戦支度は整うておりまするぞ!」
見渡すと、その場に集う郎党、従類伴類全ての者が眦怒らせて頷いて見せた。
「この場に居る者らは皆、将門勢に家屋敷を焼かれ、営みの糧を奪われ、妻や子を殺められ、言葉に出来ぬ辱めを被った者達じゃ。この恨み、後に残したままでは収まらぬ!」
腹心の一人が血を吐くような怒りの声を上げる。
「若様、どうか我らに弔い合戦の号令を、何卒!」
「泉路に在る我らが主上も、きっとそれを望んでおられる。若様、将門奴を八つ裂きにしてくれましょうぞ。豊田の奴ら、一人余さず地獄に突き落としてくれる!」
口々に深い恨み言を交えながら復讐を求める郎党達を一人一人見つめながら、最後に貞盛は弟の顔を見つめながら問い返した。
「――その果てに、其許らは豊田猿島を火の海にするか? 我らの真壁石田を焼かれたように」
「当然じゃ! 我ら同胞が受けた仕打ち、薪木のように焼かれた妻子らの無念、彼奴等へ層倍に仕返してやらねば済みませぬぞ!」
「ならば将門勢の無垢な女子供も薪木のように皆焼き殺すか? 我らがそうされたように」
「……っ!」
繁盛は思わず言い淀んだ。「その通りじゃ!」と女子供への殺戮を言葉にして首肯することはどうしても躊躇われたのである。
「将門襲撃の経緯は帰郷前から聞き及んでおる。……もし将門が野本の合戦の後に石田への夜討を思い留まっておれば、替りに其許らが豊田に対しこの非道を行っていただろう」
涙を拭い、立ち上がりながら言葉を続ける。
「そして、将門勢は今の其許らと同じように復讐に燃え我らに挑みかかろうとしただろう。我らがここで事を為せば、たちまち戦の憎しみは水輪のように広がり、やがて坂東八国は無間の地獄絵図と化すであろう。……諸共よ」
今一度一同を見渡しながら、貞盛は皆の前に宣言を下した。
「――将門と和睦を図る。この戦、そもそもの端緒は我が父上や叔父上らによって企てられたものじゃ。我らの手で戦鉾を納めねばならぬ。坂東の土を、これ以上戦禍の血に染めることは出来ぬ!」
若き主の言葉に、うわああっ! と天を仰いで慟哭する者あり。地に伏せて拳を打ちつける者もあり。
唇を噛み締め立ち尽くす弟の肩に手を掛け貞盛は詫びた。
「許せ、次郎よ。この兄とて皆と気持ちは同じじゃ。しかし、父上亡き後の所領の管理、戦に焼かれた故郷の復興をなおざりには出来ぬ。何より、母上の安否、未だ判らぬままなのじゃ。……それらを捨て置いて憎しみに駆られ戦に走るわけにはいかぬのじゃ!」
(父上、どうか許し給え! そもそも、この度の戦、源氏との婚縁のしがらみに端を発するもの。将門は、只それに抗うたに過ぎませぬ。その挙句が、御覧の通り民らの営みを焼き尽くし、多くの哀しみと憎しみを残す惨い有様じゃ。これ以上、我らの身内争いで坂東を戦火に巻き込むわけにはいきませぬ!)
――貞盛、倩案内を検するに、凡そ将門は本意の敵に非ず、斯れ源氏の縁坐なり。
――将門に睦びて芳操を花夷に通じ、比翼を国家に流へむと。
程なくして貞盛の母が近郊の山中を彷徨っているのを発見・救助され、喜んだ貞盛らが屋敷に迎え入れたが、既に母は正気を失っていた。
息子達の顔すらも判別がつかぬ虚ろに変わり果てた母の様子に、兄弟らは只々悲嘆に暮れるばかりであった。
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