第1章 野本の合戦 8
漸く薄らいだ雲の切れ間から差し込む黄昏の日差しが、戦の後の野本一帯の平野を橙色に染めている。葦原に横たわった数多の亡骸から流れる血の紅が、燃えるような入日に照らされて猶生々しい。
戦いの果てに陥落した扶本陣。その地面の上に並べられた三兄弟の首級を前に、将門は忸怩たる思いに唇を噛みながら膝をついた。
(扶よ、本来ならば我らは争う間柄ではなかったはずなのじゃ! それを、我ら平氏の身内の諍いに巻き込んでしまったばかりに、このようなことになってしまった。……どうか許してくれ!)
有望な三人の実子を一度に失ったのである。嵯峨源氏における護一門は再起不能であろう。最早我らに対し再び事を起こす余力はあるまい。
将文、将武、将為ら援軍に駆け付けた弟らと勝鬨の喜びを分かち合うも束の間の内に、差し出された戦勝の証である彼らの首を目の当たりにした将門は、込み上げる動揺を皆の前に隠しきることはできなかった。
若き主の悲嘆を前に暫し沈痛な面持ちを浮かべていた真樹が、やがて口を開いた。
「……して、若様。この後はどうなさるおつもりか?」
老将の問いかけに顔を上げる。
将文が言葉を継ぐ。
「敗残兵の殆どは追撃の末に討ち取りましたが、我らの手を遁れた者は北の方角へ逃げ延びた様子。大方は本拠地の真壁へと落ちていったようでござるが、幾人かは石田の方へ走った者も確認しておりまする。――国香伯父の営所の方じゃ」
周りにいた者達が重い溜息を吐いた。決定的であった。
……この戦だけでは済まぬ。――ならば。
おもむろに立ち上がった将門が皆を振り返った。
皆を見渡しながら、静かに告げる。
「――先手を打つぞ」
それは決して揺るがぬ決意を秘めた眼差しであった。
同日深夜。常陸国石田、平国香居所。
将門の伯父、常盤国府大掾にして坂東平一門棟梁平国香は人払いをした応接間にて、沈痛な面持ちに打ち沈んだ三人の男達と対座していた。
間もなく日付が変わろうとしている時刻であるが、この夜更けに屋敷を訪れ、既に床に就いていた所へ面会を求めてきた者達を前に迷惑そうな顔もせず、寧ろ彼らを労わるような素振を見せる国香の表情には、目前で首を垂れる男達と同様の痛ましい様子さえ垣間見えていた。
「……それで、扶君は討死果てられたか」
国香の静かな問いかけに、男の一人が涙を浮かべながら頷いて答えた。
「攻め寄せる敵勢を相手に勇ましく戦われるも、最後は武運拙く傷を被り、馬から落ちたところを討ち取られましてござる。その後、我ら郎党は敵の追撃を振り切るうちに散り散りに……上手く真壁に逃れ得た者もいるかもしれませぬが、多くは途中で討たれたでしょう。悔しい限りにございまする!」
咽び泣きに暮れ哀切込めて語る男達を見れば、皆大小の傷を負い、無傷の者は一人もおらぬ。
彼らは野本の戦を逃げ延びた源氏勢の落ち武者達であった。
将門とその援軍による挟撃の果てに源氏勢は惨敗し、源三兄弟は悉く討死を遂げた。その後、逃げ延びた側近らは或いは護の本拠地真壁へと落ち延び、或いは彼らの後ろ盾である国香の元に走り、共に亡君の弔い合戦をと助太刀を求めたのである。
彼らの話を聞き終えた国香は、嘆かわし気に腕を組み嘆息した。
「三人の御子息を一度に失われた護殿のお嘆き、如何ばかりであろう。その御心中、察して猶余りある。そもそも我が愚甥への仕置きについて、共闘を持ち掛けたのは我らの方、この戦における源氏方の損失は我ら平氏にその責任がある。……宜しい。明日にでも良兼、良正らの元へ馬を飛ばし、戦の支度にとりかかろう。将門奴、今度は儂の手で直々に懲らしめてくれる」
その言葉に、源氏郎党達は感涙に咽びながら平伏した。
「感謝の極みにございまする。我が主君もきっと浮かばれることでございましょう!」
「護殿は儂の舅、身内として当然の勤めじゃ。それに、このまま戦を放置し、愚甥の増長を野放しにでもしておけば、いずれ坂東に混乱をもたらすことになりかねぬ。今のうちに彼奴を叩きのめしておかねば取り返しのつかぬ禍根を世に残すこととなろう。これもまた身内としての勤めじゃ」
そう言うと、国香は遺臣らに微笑みかけた。
「後は儂に任せて、そなたらは休まれよ。近日中には、護殿の元に我ら桓武平氏の軍勢が数多の朱幟を掲げて馳せ集うであろう。安心して今はひと眠りするがよい」
大掾の労わり深い言葉に何度も感謝を述べながら男達が部屋を退出していった。
一人部屋に残った国香は眉間に深い皴を刻みながら考え込んだ。
(将門奴、あれでも我が身内故直接手に掛ける事に躊躇を覚えておったが、どうやら甘く見ておったか。大人しく豊田猿島の新田を良兼達に譲り、姪を返しておれば命までは取らずにおいたものを。……ここまで事が拗れてしまった上では、矢張り、一門の棟梁であるこの儂の手で彼奴に引導を渡してやる他はないようじゃ)
考え込む国香の元へ、血相変えた腹心が息せき切って駆け込んで来た。
「大掾様っ――敵襲であります!」
不寝番が気づいた時には、既に石田舘の周囲はぐるりと松明に囲まれていた。
将門の号令一下、次々と火矢が屋敷に放たれる。
昼間より吹き続ける強風に煽られ、忽ちの内に屋敷は炎に包まれた。
(……これで、もう後には引き返せぬ)
恐らく今この場にいる将門勢は皆、真っ赤に燃え上がる伯父の屋敷を見つめる将門と同じ呟きを心中で漏らしていたことであろう。
既に石田に至る前に、将門勢は近隣の国香本拠地である大串を始め、国香郎党が多く住まう野本、取木に攻め入り、従類の家屋全てに火を放ち焼き尽くしていた。
――屋に蟄れて焼かるる者は烟に迷ひて去らず。火を遁れて出づる者は矢に驚きて還り、火中に入りて叫喚す。
「……不覚を取ったわ」
立ち尽くす国香の声音は、無念さよりも諦観の方が先に聞こえる。
「この戦火、今宵の天を焦がすのみに留まらぬであろうな……」
営所全体に炎が回り、煙を上げる屋敷周辺を悲鳴を上げ逃げ惑う家人達の混乱を母屋から静かに見つめながら、国香は一人小さく呟いた。
火焔の合間に見える宵闇の向こうには、同じく炎に呑まれゆく麓の集落が赤く見える。
「そなたが踏み出したは果ての見えぬ修羅の道ぞ。最早事は戦に収まらぬ。将門よ、早まったことをしたな。……否、」
自嘲を含んだ吐息を漏らしながら、国香は目を閉じる。
(事の抑々は、身内の縁と言いながら、婚族の縁を立て親族の縁をなおざりにし、甥であるそなたをここまで追い詰めた我らの咎か。……この伯父を許せ、小太郎よ)
此処に於て、常陸国府大掾平国香は燃え盛る屋敷の一室にて自害し果て、野本の合戦は将門の勝利に終わった。
石田舘焼き打ちの二日後、将門勢は護領である筑波、真壁、新治の三郡へも侵攻の上これを悉く焼き尽くし、五百を超える源氏の郎党、伴類の家屋敷が一昼夜のうちに灰燼に帰したという。
――其の日の火声は雷を論じて響きを施す。其の時の煙色は雲と争ひて空を覆ふ。
この夜。
筑波山山麓一帯の家々を焼き尽くしながら立ち昇る戦火の黒煙は、いずれ坂東の地を焼き尽くすこととなる戦乱の迎え狼煙として漆黒深き新月の夜空を猶黒く染めたのである。
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