第1章 野本の合戦 7


 ――将門は幸ひに順風を得て、矢を射ること流るるが如く、中る所は案の如し。


 互いの陣の間は四町余り。狙いに当たる間尺ではないが、矢の届かぬ距離ではない。

しかし向かい風の煽りを受けた源氏方の矢は将門勢に届くことなく疾速を失い、対面の敵を圧倒し天を覆う程の矢の雨は悉く葦原の茂みに呑まれて消えた。自身の放った渾身の一矢が途中で潰えていく様を目の当たりにした源氏の弓兵達は、信じられぬ思いで立ち尽くしている。

「すわっ⁉ 見よや、我らの矢が皆敵に至る前に跳ね返されておるぞ!」

 第一射の威力を見物と決め込んでいた扶達は余りの光景に目を剝いて馬上から腰を浮かしかけた。

「憎き逆風かな! それ、弓手共、何を呆けておるか! 貴様等の強弓、今こそ弦の音も高らかに唸らせてみせよ!」


 対して、追い風を矢羽根に受けた将門方が放つ矢は、一矢も逸れることなく源氏陣地に降り注ぎ、甲冑を射貫かれた騎馬手がもんどりうって馬から転げ落ち、勢い強く盾を突き抜いた矢が身を潜める歩射手を次々と串刺しにした。


「やった、これはいけるぞ!」

 忽ち阿鼻叫喚の悲鳴と怒号、混乱極まる喧騒がこちらにまで響き渡る敵陣の様子に、思わず真樹が拳を振り上げる。

「僥倖の順風じゃ! 我らが風を掴んでいる間に一気に畳み掛けるぞ。矢の続く限り射続けよ!」



「ぐあっ!」

 最前列で弓隊の指揮に当たっていた茂が右肩に矢を受け太刀を取り落とした。

(チィッ!……潮目が変われば仕事の途中でもさっさと手を引く――僦馬の傭兵共が離脱したのは、この逆風を読んでのことであったか!)

 苦し気に肩を抑えながら前線に立つ弓隊を見渡す。その目前で、次々と兵達が矢に撃たれ地に伏し、或いは馬から転がり落ちて呻き声を洩らしている。

 無事に立っている者は一人もおらぬ。

(無念じゃ! 我らも己の大勢に奢らず機微を察しておればこんなことには!)

 歯軋りして悔しがる茂の眉間を虎落笛の如き烈風を鳴らしながら矢が貫いた。


「うああああっ⁉ 茂、茂よっ‼」

 弟の死を目の当たりにし、悲痛な叫び声を放つ扶の傍らを矢が掠める。

 源氏弓隊殲滅の戦果を見て取った将門勢は掃射を継続しながら弓隊を横列隊形に組み慎重に前進させており、既に三町近く前方まで迫っていた。狙いも扶ら本陣に集中し始めている。

「将門! 将門っ‼ ――将門奴ェっ‼」

 白眉の相貌を般若の如き憎悪のそれに豹変させた扶が絶叫を迸らせながら太刀を振るう。

「騎馬総員へ、これより敵陣への斬り込みを行う! 徒は後詰とし、弓に持ち替え突撃の援護をせよ。一人残らず八つ裂きに致せ!」

 隆も涙に咽びながら兄の横で鉾を扱き上げる。

「……茂よ、今お前の仇を討ってくれるぞ。憎んで余りある相手と思っておったが、ああ、七生先までも猶殺し足りぬ! ああ! 殺しても殺し足りぬわ将門奴‼ ――騎馬隊、突撃にィっ!」

 扶の突撃予令に、配下達は張り詰めた面持ちで得物を構え、手綱を握り締める。敵を蹂躙するに余りある程の自軍の兵力とはいえ、相手の戦意の高揚は否応もなしに伝わってくる。


 その背後から、上天へ向けて高らかに鏑矢が放たれた。



「――ああ、皆よ、見よ。追い風再び我が旗の下に吹き込んだぞ!」

 終始厳めしい顔色を崩さなかった将門が、ここにきて初めて相好を綻ばせた。

 前進する配下らも、思わず歩みを止めて歓びの溜息を吐く。

「豊田の援軍じゃ!」



 突如響き渡る鏑の音に、思わず振り仰いだ源氏勢は飛び上がらんばかりに仰天した。

 遥か後方に靡くのは林の如き平氏の朱幟。

 豊田周辺を治める将門の弟達の軍勢が、風を足にして背後に迫っていたのである。その数、ざっと見渡しただけでも今の自軍に匹敵して猶余りある。

 これを見た源氏勢の動揺は著しいものであった。

 所詮は俄か徴用の伴類を主とした軍勢である。一人が逃げれば皆その後に続いて脱落していく。徒兵の殆どは弓矢や鉾を放り出して続々と逃亡を始め、長年仕えていた従類の騎馬兵すらも最早勝敗明らかなりと主を見限り馬首を返し逃げ出す有様。

 ここに戦の形勢は完全に逆転したのである。



「……最早これまで。兄ちゃん、逃げてくれ!」

 敵陣の後ろから天地を轟かす友軍の進軍の鬨を耳にした将門勢の矢の勢いが一層激しさを増していく中、兄を庇うように雨霰の如き猛攻を前に立ちはだかった隆が背中越しに懇願する。

「隆よ⁉」

「兄ちゃんは、我ら源氏と平氏を一つに纏め上げ、いずれ坂東の将来を導いていかれる御方じゃ。こんなところで潰えてくれるな! ――ぐうっ!」

「隆、隆よ! もうよい、下がってくれ!」

 今やこちらに集中される矢雨を幾本も受けながら兄を庇う弟の背中に縋りつきながら扶は泣き叫んだ。

「兄ちゃんが、ここで死んだら、この戦、止めるものが、誰もいなくなってしまうぞ。もし此処でしくじれば、今に、坂東を巻き込む、大きな、戦と、なる、ぞ。……がァっ! ……今は生き延びて、必ずや……将門を討ち取ってくれ。俺たちの……仇を……どうか――ぎっ⁉」

 激しく血反吐を吐きながら隆は馬の背に崩れ落ちた。馬もまた耐えかねたように力尽きて主を乗せたまま倒れ伏した。

「……ああ」

 足元に倒れる弟の亡骸を呆然と見下ろしながら、扶は深い嘆息に喘いだ。

「已んぬる哉。……最早この戦、此処に勝敗決したり。――嗚呼っ!」

 慟哭に顔を覆いながらも、扶の燃えるような戦意は未だ潰えていなかった。

 扶には、美那緒との縁談の前に先に娶っていた正室がいた。

 政略結婚ではない、お互いに想い合って添い遂げた妻である。

 もし隆の言う通りに、この戦が坂東八国を巻き込むものと広がったとしたら、妻も平穏では済まぬことになるであろう。

(……だがよ。隆よ、茂よ)

 顔を上げた扶は、今や目の前に迫った敵の軍勢の一角をぎりりと眼差し激しく睨み据える。 

 敵の首魁、将門の姿も、既に視界に捉えられる距離にあった。

(……将門をすぐ目の前に認めながら、お前達の仇に背を向け我が身可愛さに逃げに走れるこの兄と思うかっ!)

 周囲を見回す。

 正面の敵勢、背後の敵勢。それぞれに応戦の叶う自軍の残存兵力。抗えぬ数ではない。


「――来るがよい、将門奴っ!」


 居残った忠臣達を周囲に固め、迎撃の構えを見せる扶ら源氏本陣に向かって、弓を鉾に持ち替えた将門勢は鬨の声を上げながら一斉に突進していった。




 ――扶等は励むと雖も、終に持って負くるなり。仍って亡ぶる者は数多し。在る者は已に少なし。

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