第1章 野本の合戦 2

 

 同日夜半。常陸国新治郡、真樹邸。


 主の心尽くしの饗宴も締めを済ませ、酔い心地の一行らが用意された寝処へ引き上げていく背中を見送りながら、広間に居残ったのは将門と将頼並びに従者二人、そして真樹とその腹心らである。

「お引き留めして申し訳ない。……実は明日の調停の件について少し懸念がございましてな」

 おずおずと口を開く真樹の様子に、将門が微かに眉を顰める。

「護殿には予め話を通しておる。明日、真壁に向かう前に件の境界の実検に立ち会って頂く事で了承を得ておるし、使いの者の話では、我らの仲介に大変喜ばれていたとのことであるから、特に不穏なことにはならぬと思うが?」

 前常陸国大掾源護。平安初期に隆盛を誇っていた嵯峨源氏頭目の一人である。その娘らは将門の叔父や従兄弟達に嫁いでおり桓武平氏とは婚戚関係にあった。筑波山西側に掛けて広大な領地を有していたが、山麓東側を治める真樹とは所々境界が接しており、境目に関わる揉め事は以前から両者の悩みの種となっていたのである。双方共に深い繋がりがある将門が間を取り持とうというのは護にとっても渡りに船の申し出であるはず。

「それが、どうやら穏やかに済みそうにないのじゃ」

 深い溜息を吐く真樹の傍らに控えていた腹心、菅野白氏が後を紡ぐ。白村江の戦いで故国を追われ、坂東の地に根付いた百済家臣の末裔であった。

「この度の境界争いの発端、扶様が主導しているらしいのです」

 その言葉に思わず将門主従は顔を見合わせ、そして同時に頭を抱えて溜息を吐いた。

「……成程。それは穏やかではないのう」


 源扶。護の長子であり――本来美那緒が嫁ぐはずであった男である。


(……此処へ来る道中で、親爺殿が美那緒を見て驚かれていた理由がわかったわい)

「しかし、こうなってくると、我らの申し出への護殿の喜ばれ様、何やら含みを感じてしまうのう」

 将頼が悩まし気に腕を組む。

 何しろ、息子の花嫁泥棒一味がいけしゃあしゃあと紛争の調停に割り込んでくるのであるから、単純に手放しで喜ぶはずはない。

「伯父貴連中の逆襲にばかり気を揉んでおったが、そういえば確かに先の一件のとばっちりを食った御方がいたのだったな」

 これは参った、と将門は苦虫噛み潰した顔で頭を掻いた。今まで常陸の方から将門へ直接抗議の音沙汰が聞こえてこなかったという事は、伯父の方から護へ何らかの詫びを入れているのであろう。まさか娘を甥に掻っ攫われましたなどと正直に申し開いたはずはないから、そこは体よく穏便に取り繕ったに違いない。しかし、今になって真樹に対し扶が先頭に立って境界騒動を起こしたということは、例の一件に直接関わっていた共犯者に対する遺恨の顕れに他ならない。

 つまり今回の境界争い、そもそもの原因は将門にあった、ということになる。

「俺のせいで親爺殿には迷惑を被らせてしまったな。……深くお詫びいたす」

 低頭する将門であったが、真樹は「いやいや」と首を振った。

「何も境界争いは今に始まったことではありませぬ。寧ろ、この機会に両者の和睦と相成れば、雨後の土の如く却って我らと源氏との結束が固まるというもの。筑波をそれぞれ東西に支配する我らと嵯峨源氏が結託するとなれば、流石の伯父殿も太刀打ちできませぬぞ!」

 そう慰めるように語った老将は、どんよりした一同の空気を吹き飛ばすような笑い声を上げた。



 寝処にて。

 就寝の支度を済ませ、将門が宴から引き上げてくるのをそわそわと待ち焦がれていた美那緒は、ようやく部屋に現れた主人の顔色を見て目を丸くした。

「あなた、どうなされたのです?」

 妻の驚きの声に、心配いらぬと笑いかける将門であったが、どうにも気落ちの気配は消せぬ。

「なに。明日の仕事が一つ余計に増えただけじゃ」

 思わず零れそうな溜息を堪えながら寝巻に着替え、寝具に身を横たえる。

 早々に布団を被ってしまった夫を、暫し所在なさげに見つめていた美那緒であったが、やがて諦めたように傍らに潜り込んでくる。自分が戻るまで起きて待っていてくれた妻に聊か心苦しさを感じたものの、どうも今宵は心労の方が重い。

 ふと、左の腕に柔らかな温もりが押し付けられる。

「……御心配事がおありなら、どんなことでも、妾にお打ち明けくださいませ」

 耳元で囁かれる気遣いの声の方へ寝返ると、心配そうに自分をじっと見つめる妻の双眸が夜の薄明かりに光っていた。

「本当に大したことではないのじゃ。只……今日は少し疲れておるだけじゃ」

 穏やかに微笑みかける将門の懐に、美那緒が顔を埋める。

 熱い吐息が胸の肌に伝わる。

 何やら疼きを覚えぬでもなかったが、今宵は愛しい人を腕の中に抱きしめるのみに留めた。

(……流石に、明日は美那緒を連れて行くわけにはいかぬか)

正直なところ、明日の懸念事を思い本当に気疲れを感じてもいたのである。

(何とか穏便に事が進めばよいが……)


 将門の心中には何とも言い知れぬ胸騒ぎがあった。

 すぐ傍で穏やかな寝息を立てる妻の温かみが只々有難かった。


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