第1章 野本の合戦 1


 承平五(九三五)年如月朔日、常陸国新治郡付近。


 雪を被った筑波山を右手に見やりながら、馬上の若侍――平将門は手綱を握る凍えた掌へ白い息を吐きかける。

 この日は日差しの暖かな小春日和であったが、平野を吹きすさぶ北風は冷たく、将門を先頭に進む馬の一群を寒さに震えさせる。

 とはいえ、後ろに続く同輩らは皆、冬着の着膨れに蓑を重ね、平原を走る筑波颪に息を凍らせながらもその足取りは軽い。ちょっとした遠足気分といった風情である。

(……京の冬に比べればまだ雪も少ないが、この坂東の空っ風ばかりは故郷に戻って四年を数えても未だに慣れぬな)

 そう心中で呟いてみて苦笑を漏らす。

(京で十年余り青春を送ったとはいえ、思い出深く幼少を過ごした生まれ故郷の気候になかなか馴染めぬというのも妙なことじゃ)

 この当時は「中世温暖期」といわれる地球規模で比較的気温の高い時代であり、それに伴う海面上昇により「香取の海」のような巨大な塩湖が坂東平野に現れた他、世界各地の地理や風土に影響を与えたとされている。現代と同様、もしくはそれ以上に温暖な気候であったと推察されるが、それでもやはり冬となれば風は冷たく凍てつき筑波山も雪化粧に覆われる。

 行く手に積雪はないものの、今朝の霜が冬晴れの日差しを浴びて溶け、足元に眩しい潺となって流れを作り、お蔭で湿原の間を縫う道は半ば泥濘と化している有様。馬に乗る者はまだしも徒で続く者達は着物の裾を泥に汚され閉口したが、裾を捲り上げれば時折吹きすさぶ筑波颪に毛脛を凍えさせることになるから為す術がない。

 すん、と鼻を啜る将門の後ろで不意に盛大な嚏が響き渡り、思わず振り返った皆が失笑を漏らした。

「やれやれ。兄上の寒がりが感染りましたか」

照れ笑いを浮かべる弟の将頼に、将門も頬を緩める。

「安心したぞ。寒いのは俺だけかと思うておった。この大事を控えて風邪でも引いたとあっては正樹殿に面目が立たぬでな」

「いや、確かにこの冬の寒さは特に堪えますもの。年の瀬には滅多に積もらぬ雪にまで見舞われましたしのう」

 将頼の傍らで破顔しながら家臣の多治経明が口を開く。

「とはいえ、今日は珍しく穏やかな日和でござる。されど、こういう日和こそ気持ちが緩んで却って風邪を召し易いものじゃ。お二人とも、ご用心なさいませ」

同じく郎党の坂上遂高が労し気に眉を寄せる。

「なに。後ろでは美那緒達がああして平気な顔で馬を進めておるのじゃ。前に立つ我らが風邪じゃ何じゃと震えておるわけにもいかぬよ」

 そう言って振り返る将門らの視線の先では、将門の妻、美那緒こと君の御前と、女主人が跨る馬を引く雑仕人や侍女らが空っ風も何のそのと、市女笠を靡かせながら後に続いている。

「それにしても、流石は良兼様自慢の娘御じゃ。馬も上手に乗りこなされるし、弓矢も達者ときた。まったく、我ら男武者顔負けじゃわい」

 経明が感心したように呟く。

 しかし、すぐに「おっと」と思わず口元を抑え、ちらりと主の方を伺う。


 昨年秋の一件以来、将門と伯父良兼との関係は一触即発と言っても良い。

それから年が明けた今日に至るまで、まるで上総方から何の音沙汰がないことが却って不気味な沈黙として将門主従らに不安を抱かしめてさえいる。


 桓武天皇の孫に当たり、将門の祖父である高望王が臣籍に下ったのが寛平二年(八九〇)。上総介として坂東に就いた後にこの地に根を下ろし、その子らがそれぞれ上総、下総をはじめとした諸国に勢力を伸ばし、後の世に栄えることとなる北条氏や千葉氏といった東国における平氏の礎を築いていったのである。


 この頃、特に坂東では既に律令制による班田管理が変質・崩壊しつつあり、四年の任期が明けても任地に残ったまま土着化した国司や官人が放棄田や寄進田、貧農から貸付の抵当に得た口分田を私営田として先を争うように搔き集め、収益を蓄え込む風潮が広まっていた。

 加えて、俘囚地から坂東各地に移住を強いられた帰属蝦夷らが度々反乱を試み、それら混乱に伴う治安の悪化に備えるためと称して土着豪族は挙って従類・伴類と呼ばれる半農の私兵を囲い、後の世にいう武士団のような武装集団を形成していった。

 既に廃止されていたものの、防人として男達は皆太宰府警護や蝦夷遠征に長年駆り出された経験から武具や弓馬の扱いにも長けており、自ずと民らに兵の下地が仕上がっていたのが坂東の地であった。

 そこに顕れた親族同士の土地を巡る諍いである。この一件に限らず、いつ何処で剣呑な煙が立ち上ったとしても不思議ではない情勢であった。

 この度将門ら一行が父の代からの知古である土豪の元へ向かっているのも、彼の領地と隣接する豪族との境界を巡る揉め事を調停することが目的である。


 これは口が滑った、と主を見やる経明の迂闊な独り言を気にした風でもなく、将門は後方の妻ら一行に手を振ってみせる。

 開けた道とはいえ主要街道のように整備の行き届いた幹道とは程遠く、この季節では車を引くことも難しい。

 それなら馬で付いていきます、と伴を二人連れて将門らの後を続く美那緒が跨る鹿毛は相馬郡の産で些か気性が荒い。

 よく乗りこなせるものじゃ、と経明の横で将頼も感心して頷く。昨年晩秋に晴れて祝言を上げたばかり。長年の離別と逃走劇の末に結ばれた新婚の夫の元を一刻も離れがたいのであろう。

 見ているこちらも当てられそうじゃ、と顔を綻ばせて手を振り返す主と新妻の様子に苦笑いを浮かべながら視線を戻した忠臣らが、「おお!」と声を上げる。

「殿、御覧じろ。行く道の先からも我らに手を振っておられる一行が見えますぞ!」

 遂高の指す方へ目を向けた将門も歓声を上げる。

「なんと、わざわざ此処まで出迎えに見えられたか!」

 喜び勇んで馬を走らせる主の後ろを経明、遂高の二人も続く。

 大政山を背景にこちらへ近づいてくる数騎の一行。その先頭で愛想よく手を振っている恰幅の良い老人こそ、この度の調停の依頼主であり、二人の脱出劇において大いに貢献した老将――平真樹である。亡き父の旧友であり、将門にとっても幼少の頃から良く知る慕わしい相手であった。

「若殿、お久しゅうございまするな。無沙汰を続けていた上に当方の面倒事でわざわざ足を運ばせてしまい、心苦しく思っており申した」

 駆け寄ってきた将門と下馬の礼を交わしながら申し訳なさ気な笑顔を向ける。

「水臭いことを申されるな。親爺殿には昨年以来こちらから礼に伺おうと思っていたところじゃ。しかし上総の伯父貴の動向に気を揉んでいるうちに今日まで来そびれてしまっていた。無沙汰の失礼はこちらの方じゃ。却って返礼の機会を貰って嬉しく思っていたぞ!」

 呵々と笑う将門らの元に後続の一行が追いつき、ふと視線を向けた真樹が目を丸くする。

「……おや、此度の御一行には姫様も加わられていたか」

 驚いた様子の真樹の前で美那緒もまた下馬の礼を執り、にこやかに微笑みかける。

「お久しゅうございまする、真樹様!」

「妻もまた親爺殿に改めて礼を申したいと同行をせがまれてな。あまり大勢で押し掛けて貴殿を煩わせるのも恐れ入るが」

「いやいや、身共にとっても姫様は御幼少よりよく知る我が娘も同然の御方じゃ。大いに歓迎致しまするぞ。おっと、これはしたり! 既に夫婦の契りを交わされておる御方を姫様とは失礼仕った。御前殿、この爺もお逢いしとうございましたぞ」

 好々爺の眼差しで美那緒を見つめる真樹の横で突如将門が大きな嚏を放った。釣られるように将頼も兄に負けぬほどの大嚏を放つ。

「さて、こんなところで立ち話を続けていては風邪を召されてしまう。若殿、丁度我が営所にて新しい酒を仕込み終えたところじゃ。今宵は存分に飲み明かしましょうぞ!」

 酒と聞いて一行の者らが皆歓声を上げる。

「はは、持て成しは有難く存ずるが、生憎俺は下戸じゃ。何卒お手柔らかに頼むぞ!」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る