壺を背負う女

彼は誰

第1話

 堤防というよりは、湾をぐるりと囲むブロックのようにささやかなその天端に、高崎は腰かけた。反動さえも地中へ落ち込んでいった臀の重さに思いがけず自身の疲れを知らされた。年々臀が重くなっていく。彼の母親も同じ仕方で腰を下ろしたものだった。曲がった背を伸ばすことも、背負った壺を下ろすこともせずただ海を眺めた。壺の中には、今晩の食糧やタオルや洗剤など、生活の色々が入っていた。

 さあ林を海が抜けるか、といったところで彼の子供はもう彼の手を離れて駆け出していった。左右に傾きながら、まるで千鳥足の小さな姿が、逆光の中へ溶けていく。ふいにしゃがんだ。彼はその蛙のような後姿を目に留め、もうこれより先は見えることもないと思って、子供から目を逸らした。自身の手が両足の間にだらりと下がっていた。今しがたするりと抜け出した湿っぽい手の感触が残っていた。

 彼はしばらく俯いたままでいた。目は開いていたが、瞑る方が不自然に力がかかるので開けていたといった具合だった。何だか蝉の声がするな、と思った。そんなはずはないと分かっていた。ようやく春めいてきた日射しの下、バタバタと風にコートの裾を吹き上げられながら今日もここへ来たのだった。彼は耳を澄ませた。風の音、人の声、車の音が立つが、蝉の声はしなかった。ふと目の力をゆるめると、やはり蝉が再び鳴いた。彼はまた目を閉じて、よくよく波の音を掴もうとした。耳元を過ぐ風の隙間から。……しかし、波は含み笑いをするような、潤いのある音を間断なく立てており、じりじりと木肌を削る音とはまるで異なっていた。足元の反射の眩しさに目を細めたとき、彼は何かに気づき、おもむろに二三度、瞬きをした。そこでようやく確信した。自分は視界いっぱいの砂地に蝉の声の粗さを聞いていた。砂は西日を受けて赤や緑や青や黄に輝いた。目を閉じ、開ける度に、それは彼の前で表情を変えた。同じ日の光が彼の瞼の上にも注がれ、睡たさが念写されるのをそのままにした。彼は実家のソファの上で背を丸めて横たわる、仕事終わりの母親の姿を思い浮かべていた。やはり彼女も、昼寝の浅い息継ぎのひまごとに、この砂浜と同じ彼の幼い顔がうとうと目に入ったことだろう。

 波しぶきとも砂浜とも区別のつかない白さの中で、遠くから何か予感のようなものがやってきて、彼は手を後ろに投げやった。やがてその手を踏みつけ、彼の肩と首、それから背中に温度をあずける生き物の感触があった。その見知らぬ新鮮さに思わずどきっとしたが、何のことはない、自分の子供だったし、それを自分は知っているはずだった。彼はおもてを上げた。振り返りはしなかった。

「よし、」

 それは彼の母親がやはり、同じタイミングで吐き落とした口癖だった。

 彼は立ち上がったが、透き通る抜け殻を背負っているような軽い心地がした。決して嫌な感じではなかった。生活は陽射しに透かされるほど薄くなり、もう消えようかと思われた。

 彼は親を知った。彼の肩はざらざらした砂を撫ぜた。毎年いつの間にか抜け殻は風に連れ去られている。人の声も遠くへ消えかかっていた。

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