第2話
流れてきた音楽は、あの人がいつも演奏していた曲だった。
落ち着いて、静かで、どこかもの悲しい大人の曲だった。
タイトルは、……、聞いた気だけはする。もう、覚えていないし、思い出せもしない。
さすがのマスターもいきなり声を漏らした私に視線を向けてしまったけど、すぐにグラス磨きに戻ってくれた。ありがとう。正直、恥ずかしくて仕方なかったんだ。
そうか。
そうだ。そうだった。
だから私は、頑張ったんだ。
あの人に少しでも追いつきたくて。
※※※
「だからさァ」
それは、あの人の口癖だった。
高校生だったころ、友人の付き添いで初めて行った合コンで知り合った男の人。あれよあれよと気付けば恋人と言われる関係性を結んでいた男の人。
「やっぱりブルーノートこそジャズの神髄なわけよ」
ミュージシャンを目指していた彼の周りには音で溢れていた。
会いに行けばいつだって彼は楽器を手に窓辺で音を奏でていたんだ。小さなボロアパートの一室で。
「もの悲しさっていうの? この不思議な音程が奏でる悲しさを分かるのが通ってわけでさぁ」
私に音楽の知識はない。
経験値だって小学生のころのリコーダーが精一杯だ。必死に練習した指の動きを覚えているかと言われたら口笛を吹いて誤魔化した。
だから、音楽を語るあの人がとても格好良かった。
夕日を背に語る彼の横顔をいつまでも見ていられると友達に語る私の横顔には飲み干した紙パックが押し当てられた。
あの人が何を語っているのか理解は出来なかったけど、語ってくれることが嬉しくていつまでも聞き続けた。
せめて何か話せることが出来ないかと調べ物だってしてみた。まぁ、分からないということが分かっただけで終わったけれど。
お金のないあの人を支えるためにバイトまで初めて、あの人に代わりに食事をつくってあげて、掃除もしてあげて、求められれば身体まで重ねて、そして。
※※※
「結局捨てられたわけなんですよ」
「それはそれは」
思い出してみればなんということはない。
そうだ。あれも今ぐらいのことだった。一晩中抱かれて、起きた私に残されていたのは置き手紙だけだった。なお、財布の中身はなくなっていた。
「それは捨てられたわけじゃないわよ。そんな男、縁が切れて良かったと思いなさいな」
「まったくだ。同じ男として信じられん」
手紙の内容すら忘れてしまったけれど、確か子どもっぽい私と付き合ってられないとかそのあたりのことが書かれていたはずだ。
今になって思えば、いやいや、なにを私に非があるように言っているかの一言だったけど、当時の私にそれを言うことなど出来はしないのだ。
「やっぱりそうですよね? いや、思い返してみれば腹が立つというか」
「当たり前よ! いやねぇ、いつの時代でもクズな男は居るんだから」
「わしがその時に居てやったら一発ぶん殴っているところだ」
腹が立ってはどうするか。
それはもう愚痴るしかないじゃないか。目の前のマスターに。
そうしたら釣れましたとも。
離れて座っていた婦人と老紳士が。
「それで、貴女はそれからどうしたの?」
「大人になればあの人が戻ってきてくれると親の反対押し切って上京しまして……、それから気付けばもう三年ほど……、しかも入った会社がブラックで……」
「最初随分と顔色が悪かったのはそれが原因ですか」
「駄目よ、身体が壊れるまで働いちゃ」
「まったくだ。若いもんが先に倒れてどうする。倒れるのはわしら老人だけで充分」
「あら、わしらとは誰と誰を差しているかしら」
「ぁ、いやっ! その、わしだけ! わしだけ!」
変わらない優しい笑顔の奥に底知れない何かを醸し出す婦人に老紳士が大慌てする。厳格そうな紳士が慌てるのは申し訳ないけど可愛らしかった。
「なんとなく……、格好良かったんです、ブルーノートの音も落ち着きあって、大人っぽくて」
「確かに、ブルーノートの語源はブルースと同じく憂鬱を表すブルーから来ていると言われておりますが」
独特の香りが鼻につく。
マスターが手にしていたのは、綺麗な黄色をした丸い花。
「落ち着きがあれば大人かと言われれば、どうでしょうか」
「マスターの言う通りね。最近の人は大人しいというか自分からモノを言えないとか言うじゃない。でも、自分の言いたいことをはっきり言える人も大人だとあたしは思うわ」
「ほれ。それにブルーといえば、空色とか意味もあっただろ。お嬢さんも大空のように元気よく生きてみる方がええ。絶対にええ」
「そういえば、ノートはどうして? 憂鬱な気持ちをメモにしたから?」
「ああ、ノートには元々音色という意味もあるのですよ、だからでしょうね」
婦人の疑問にさらりと答えたマスターは、自慢げにそれ以上知識をひけらかすことはなかった。ああ、そうだ。きっと、本当は。
「じゃあ、お嬢さんが目指すのは空色の音の意味でのブルーノートっていうので、どうだい」
「良いわねぇ! この夏空みたいに元気の良いブルーノートだと良いわ!」
「さしずめ、初夏色ブルーノートとでも言いましょうか」
まだ私は何も言っていないのに。
あれだけ他人に干渉しない空気が良かったとか思っていたのに。
「あら」
なんだろう。
この気持ちは何だろう。
「貴女、その顔よ。その顔のほうがずっと魅力的よ」
飲み干したアイスコーヒーの氷がからんと澄んだ音を立てる。
音が鳴ったら、仕方ない。
始めよう。
始めようとも。
「ねぇ、マスター。その花、一輪だけもらって良い?」
「ええ、構いませんとも」
せっかく綺麗に咲いているのにごめんなさい。
初夏を代表する黄色のあなた。
勝利を花言葉に持つあなたの花弁を私は食べた。
広がる辛みと酸味。苦みはなくても構わない。
「ごちそうさまッ」
「これから、どちらへ?」
お代を置いて、立ち上がる。
暑苦しいだけのスーツなんか脱ぎ捨てて。
「美容院!」
まずはこの髪をさっぱりしよう。
そのあとは、叩き付けてやるとしようか。
あの時代遅れのクソ上司に退職届。
その後は、
「分ッからぁぁん!!」
口ずさむのは、あの人が好きだった曲。
でも違う。
これは、憂鬱なブルーノートなんかじゃない。
私の。
私だけの。
「夏だァァ!!」
初夏色ブルーノートだ。
初夏色ブルーノート @chauchau
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