初夏色ブルーノート

@chauchau

第1話


「取れませんでしたじゃねェんだよ!」


「すいません」


「分かってんのか! 月末なんだよ、ノルマ達成してねェんだよ! じゃあ、どうするんだよ!」


「すいません、頑張ります。すいません……」


「ッたりめぇだろうが! 契約取ってくるまで帰ってくるな!」


 静かになったスマホを握りしめた手に力が入る。

 買ったばかりの新品に罪などなく、ヒビでも入ってしまえば後悔するのは未来の私。


 どこで何を間違えた。


 街の喧騒が遠くに聞こえる。

 聞こえるだけだ。実際には目の前で小さな女の子が父親の手を引いて楽しそうに笑っている。水族館に行くんだね。良いね、楽しんで来てね。


 何をしているんだろう。


 木陰に居てもじわりと滲む汗。

 切り時をとうに超えてしまった髪は、ショートカットと言うには長すぎて、セミロングと言うには雑すぎる。頬に張り付く髪の毛を除ける元気だってありはしない。


 こんなはずじゃなかった。


 動かなければ。

 祝日に稼働している会社は限られている。アポなんて取れているはずがない。動かなければ変わらない。動いても、変わらない?


「あつい」


 三十五度を超えてもまだ五月。

 降り注ぐ日光が馬鹿みたいだ。


 馬鹿は誰だ。

 馬鹿は、私か。


「あつい」


 吐く息まであつい。

 動け。動け。動かなければ。


 でも。


 まずは。せめて。一杯だけ。


 古めかしい木の扉に体重をかけた。



 ※※※



 肺に取り込んだ冷えた空気が全身を冷やしてくれる。

 靄がかった頭がクリアになっていく。ああ、駄目だ。本当にさっきの私は駄目だった。


 扉に負けない古めかしい店内は、きっとそれが趣味の人が作ったのだろう。だって、まさしくマスターと言うほかない人がカウンターの向こう側でグラスを磨いているじゃないか。

 お一人様ですかと聞かれることもない。無口なマスターの視線に導かれて私は席につけばよかった。窓際では新聞を読む老紳士、三つ離れた隣の婦人は小さなケーキを幸せそうに頬張っていた。


 流れる時間はゆるやかで。流れる空気は静やかで。

 誰も相手に干渉することはなく、誰もが干渉しあってこの空気を創り上げていた。


 誰かの元気を浴びたくはない私にとって、これほど最適な場所があるだろうか。

 朦朧としたさっきまでの私よ、よくやった。よくぞ、この店を無意識に選んだと褒めてつかわそう。


「アイスコーヒーをください」


 お手拭きで顔を、首を、全身を拭きたくなる気持ちを押し殺す。おじさん達は自由に拭けて良いなと思う。あれこそ男女差別の最たるものだ。


 引いていく汗に、私の頭も回り出す。

 愚痴を言えるようになれたら大丈夫。冷静にいこう。さぁ、まだ仕事はあるんだ。落ち込んでる場合じゃないだろう。


 今日の動きを再確認しよう。

 アポが取れている会社などはありはしない。そもそもあればこれほど苦労はしていないんだ。

 アポなし突撃営業に意味があるかなど考えてはいけない。やれと言われているんだからやらなくてはいけないんだ。


 お昼も超えて、残り時間は限られている。

 これが最初で最後の休憩だ。そうだ。効率を考えていこう。


 良いぞ、良いぞ。

 良い感じじゃないか。まさしく大人な女性っぽい考え方だ。やはり考え事は冷静になってからに限る。


 なるんだ。

 私だって大人の女性になるんだ。

 なれるんだ。なれるってことを。


「お待たせしました」


 証明するのは、何のために?


 置かれた黒い液体が私を連れ戻してくれた。

 思考の海に沈みそうになっていた私は、それはもうみっともなくビクついたことだろう。何も聞かず、何も気にしないマスターに感謝しかありはしない。


 ストローに口を付ける。

 口の中に苦さが広がった。


 いつからこの苦さが平気になったのか。

 違う。

 いつ、私はこの苦さが苦手だったのか。


 いつだ。


 いつ。


 いつ、私は。


『だからさァ』


「……ぁ」

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