初夏色ブルーノート
宇部 松清
第1話
初夏、なのだそうだ。
暦の上では。
夏、という言葉がついているけれども、体感的にはまだまだ春のようである。鞄の中に入れていたブルーグレーのカーディガンに袖を通して、明子は一つ身震いをした。
確かにあれは初夏だったかもな、と思うくらいに暖かかったゴールデンウィークが明けると、空気を読んで自粛してくれていたらしい分厚い雲達がわぁっと空を覆い、かといって雨を降らすでもなく、ただただ世界を薄暗くしていた。その上、纏わりつく空気は初夏とは名ばかりに冷えていて、さすがにコートまでは必要ないものの、視界の隅を通り過ぎていく自販機にホット飲料を探してしまうくらいの肌寒さである。
カシミア素材のそのカーディガンは昨年の初売りで買ったものだったが、ファストファッションの商品にしては質も良かったので、洗濯にもかなり気を遣ったものだ。そのお陰か、今年もまだまだ現役である。
しかし、寒いものは寒い。
今日も一日冷えることは出掛け前に確認済みだったが、さすがに五月ともなればいくら寒くとも厚手のスカートやらタイツやらを履くわけにはいかないし、足元だってブーツではなくパンプスになる。こういう時女って損だ、と明子は思う。男だったら多少素材が厚ぼったくてもきっと気にしないだろう。いや、一部のおしゃれに敏感な男性なら気にするのかもしれないが、女性のように、メイクから小物から、それこそ頭のてっぺんからつま先まで季節に合わせた装いをしなくてはならないなんてことはないはずだ。
薄手のストッキングを履くためには脛毛の処理もしなくてはならず、パンプスを脱いだ爪先に何の色もないというのだって味気ない。メイクだって季節に合わせた新色が出るし、服だってそれに合わせたコーディネートになる。そうなると、今度はバッグだって変えなくてはならなくなるし、それの大きさによっては中のものも整理しなくてはならない。ああ、さすがにファー素材のポーチは季節にそぐわないから――。
結局、何かを一つ変えれば、ずるずると引っ張られるようにすべてを変えることになるのだ。
女ってね、結構大変なんだから。
そんなことを誰ともなしに呟く。
彼女のそんな愚痴を隣で聞いてくれる人はいない。いなくなったのだ。このカーディガンをタンスの奥にしまう季節に。
ただ肌寒いというだけで次から次へと色んな感情が押し寄せ、明子はため息をついた。
何か温かいものでも飲んで気分を落ち着けよう。
そう思って、目についたカフェに飛び込んだ。
カラン、とドアベルが鳴る。
明子はこのドアベルの音が好きだ。
チェーン店のファミレスのような電子音などではない、自然な鐘の音である。店内に流れているBGMもしっとりとしたジャズだ。初めて入った店だが、ここは当たりだな、などと明子は思った。
「いらっしゃいませ、お好きな席へどうぞ」
愛想の良いウェイトレスがお冷を片手に寄ってくる。お好きな席と言われても、初めて入ったカフェにお好きな席も何もない。そう思いながら、何となく窓側の席に腰かけた。一人だけれども、孤独を感じたくはなかった。通りを歩く人達が視界に入れば、寂しさが薄れるような気がしたのである。
店内は、そこそこに賑わっていた。とはいえ、混んでいるわけではない。ちらほらと席が埋まっていて、客層も若い人やら老いた人やら様々で、けれど騒がしい学生はいなかった。それぞれが思い思いに過ごしている、そんなそこそこに落ち着く空間だった。
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