第15話 すみれ

「貴方には感謝しているわ」


 感謝なんていらないのに。


「おれ、ずっと貴方のこと見てました。やっと貴方のこと好きだって気がついたのに」


「ありがとう」


 彼女は驚きもせず答える。


「しあわせですか?」


 これでいいんだ。自分に言い聞かす。


「たぶん、これが幸せっていうのかな。でも、これで安心して一日一日が送れる気がする」


 彼女は幸せになったんだ。

 だけどなぜだろうか、この幸せを壊したい感情は。


 この指輪さえなければ。


 そう思った瞬間、指輪を口に入れていた。


「かまわないわ」


 彼女の声に我に返ると、その指輪を飲みこもうとしていた。

 そう気づいた瞬間、彼女の顔は近づき唇が触れたと思うと、舌が入ってきた。舌先に転がり込んだ指輪を彼女はそのまま舌で取り出した。

 彼女はその指輪を手にとるそのまましまいこんだ。


 僕はその一連の動作を見届けると彼女の首をそっと両手で包んだ。

 白くて細い彼女の首は、触れただけ折れてしまいそうだった。


「死にたいって言っていたよね」


 そう言いながら彼女の顔は涙で霞んでいたけれど、確かに頷いていた。


「約束したわ」


 手に力を入れると、彼女は小さくうめき声をこぼした。


「駄目だね、私って。自分が幸せになった途端、約束忘れちゃって」


 小さく掠れた声で彼女は答える。涙は僕が首から搾りだしたように流れる。


 何故こんなことをしているのだろうか。

 何がために何を失おうというのだろうか。

 殺したいんじゃないのに、ただ消したいだけ。

 何を?


 違う。


 消したいのでもない。ただ逃げ出したいだけ。悲しみから、そして苦しみから。


 僕の行動は……。


 彼女の涙が僕の手の甲を刹那的に暖める。


「生きたいですか?」


 彼女は頷く。

 手から力が抜ける。

 いつの間にか足首まで海に浸かっていた。


「生きたいなら生きたいって言えよ」


 怒鳴りながらも、もう何に苛ついているのか解らなかった。

 ただ、彼女に触れることはもう出来ない気がした。


「ねえ」


 彼女が呼びかけた。細い声は消え入りそうなのに、どこか力強い。


「ごめん」 


 僕は先に謝る。


「いいの。私のほうこそ」


 そう言って彼女はいつも着けていた銀の指輪を外す。


「きっと私は今日これを捨てに来たの」


 そう言って舌に乗せた。


「海に捨てようと思ったけれど」


 彼女は指輪を乗せたままの舌を引っ込めて、飲みこんだ。

 咽が大きく揺れた。


「あなたに教わったわ」


 僕は頷く。


「どんな味がしましたか」


「ちょっと苦かったかな」


 おかしくなって笑った。

 笑って少し冷静になると、彼女は前に進んだはずなのに、二人で悲しい顔をしていた。


「ちょっと待ってて」


 そう言って上着を彼女に被せ、急いで通りにあった酒屋に向かった。


 暗闇にぼんやりと光る店に入ると、発泡酒、少し高めのワイン、コルク抜きを買った。


 レジに商品を置いて、財布からお金を出しながら携帯が鳴っていることに気がつく。


 彼女からのメール。


―ありがとう―


 彼女のメールに少し喜んだ。

 けど、大事な何かを見落としている気がした。

 不安になって急いで海へと向かう。



 彼女はそこにいなかった。


 電話をかけても圏外になる。

 不安が高まる。


 見渡しても彼女は見当たらない。


 少し歩いた先に靴だけが綺麗に揃えてあった。


 海との境界線にあったその靴は、二つより添いながら、それでもどこか悲しそうに。靴に近づくと、ゴリッとした感触が足元広がった。砂をすくってみるとそこにはダイヤの指輪だった。


 彼女は海に向かった。


 もしそうだとしたら彼女が幸せだといったのは嘘だったのだろうか。


 それとも、幸せだから海へむかったのだろうか。

 なぜ指輪を捨てたのだろうか。


 彼女はいなくなったんだ。


 そう思うと冷静になった。

 指輪を手に取り眺めながら、流木に腰をかけると、買った発泡酒を開けて飲んだ。


 二本ほど空けると気持ち良くなってきた。

 彼女の存在が、空間が消えてしまったのかと思うと、何故殺したのが自分でなかったのか腹が立った。


 コルク抜きでワインの栓を抜きそのまま一口飲む。


 渋くてアルコール独特の苦みの裏にほのかな甘さがあった。


 指輪を口に含むとワインと一緒に飲みこんだ。


「結婚おめでとう。そして、さようなら」


 僕は独り言をつぶやいて、彼女の靴のところまで歩み寄った。海は靴をさらおうとしていた。


 海の前、ボトルを傾けると、赤いワインは海に広がった。


 まるで血のように海を少しだけ赤く染めた。

 空になったボトルを投げるとブーメランのようにぶんぶんと回りながら海に落ちる。


 彼女は確かにいた。

 ただ、その余韻だけを僕の心に残した。

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マシンマン @machineman

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