第5話 悪人たちの国

 再び目を開けた義月の目に映ったのは、闇の深くなった空であった。

「……っ」

 起き上がろうとすると、過酷なトレーニングをした翌朝の何倍もの激痛が筋肉に走る。

 悶え、呼吸を整えながら視線を泳がせた結果、ここが雑木林の中だと分かった。

 あまり深い場所ではない。木々の間から車道が見えていた。

 あそこをバイクで走っていたとき、後部座席から振り落とされたことは義月も記憶しているのだが――。

 激痛の隙間から記憶を覗き見ようとしたとき、隣に別の人間の体温があることに気付いた。

「龍登!?」

 そこに見た男の姿に、義月は自分でも驚くほどの大声をあげてしまう。

 ジャケットも、ジーンズも生地が擦り切れ、そこに覗く肌は傷口を大きく開けて血を流している。

 生命が危ぶまれるような大ケガである。

「大丈夫か!?」

 切羽詰まった呼びかけに対して龍登が示したのは、緊張感のないあくびだった。

「……よお、体の具合はどうだ?」

「お前の方こそ」

「オレか? まあ、かすり傷だ」

 強がってはいるがどう見ても龍登の方が重症だった。まともに動けそうにない。

「安心しろ、さっきマリサを迎えに呼んだ」

 人美による細菌テロで殺された龍登のセフレの中で、唯一生き残ったという女性の名だ。

 義月はやや抵抗を感じた。名前の響きにトラウマを刺激されている。

「来るまでじっとしていたほうがいい。ここはまだ、ヨミ教団のナワバリ内だからな」

 義月は生唾を飲む。

 人美を殺したことを決して許さないという断固たる意志を、八幡老人からは感じた。

 この状態で襲われたら凌ぐのは難しい。

 即時に殺されるか、過酷な拷問の末に絶命するか……いずれにせよ待ち受けるのは絶望であろう。

 見つからないことを祈りつつ、救けが来るまで息を潜めているしかなかった。

「一番の重症はあいつだな」

 龍登の視線の先に、車道に転がっている金属の残骸がある。アメリカ製の大型バイクだ。

 もはや修理さえ見込めないほどの損傷であることが、素人目にも分かる。

 義月は、ようやく何が起きていたのかを思い出した。

 後部座席から落ちかけた義月に気付いた龍登は、愛車を放り出して自らも飛び、空中で義月を抱きかかえると受け身を取って落下したのだ。

 受け身といえどもアスファルトの車道だ。惨たらしい傷がダメージの大きさを物語っている。

「……すまない」

 義月の謝罪に龍登が笑い声をあげる。

「意外と素直だな? 無口だし人形みたいに綺麗な顔だから、もっとアンドロイドっぽい性格だと思っていたぜ」

 アンドロイドは中学以降よく叩かれた陰口である。

 あの忌まわしき記憶の日までは、こうではなかったのだが――。

「人間のつもりだ」

「その割には動揺しねえな、オレだって最初に人を殺した時はおかしくなりかけたもんだ」

「……殺人は初めてじゃない」

「殺した相手は親か?」

 龍登に見抜かれ、義月は己の顔がひきつるのを感じた。

「崩れているぜ、お得意のポーカーフェイスが」

「何故、分かった?」

「これのせいよ」

 龍登が自らの右頬を指さす。

 それに習って自らの右頬を撫でる義月。薄いイボの集合体のようなものができている感覚を指先に感じる。

「何だ?」

「自分じゃ見えねえか」

 龍登は自分のスマホを取り出した。

「スマホのカメラ機能って手鏡代わりにも使えるんだな、こないだ気付いたぜ」

 渡されたスマホを義月が覗き込むと、右頬に緋色の斑点が稲妻状に走っているのが見える。今までこんなものは顔になかった。

「稲妻のギルティタトゥー。親殺しの罪紋だ。罪紋病って、聞いたことがあるか?」

「昨晩、人美から……」

義月がその手にかけた人美は、罪紋病の研究者だった。

 曰く、罪紋病はウィルス性であり、感染すると平均一週間ほどで発症。

 第一の症状として、体のどこかに刺青めいた斑点が出現する。斑点の形は患者の犯した罪によって変わる。

 暴力による殺りくを行ったものは狼の顔の形。嘘により人を傷つけたものは花の形というように。

「罪紋病のウィルスは宿主の罪の意識に反応して進化するらしい。病は気からってやつだな」

 だがそれだけではない、罪紋病には第二の症状として、患者に力と衝動を与え、同じ罪を繰り返させようとする性質があるのだ。

 ウィルスが脳を犯し、神経を支配し、罪を繰り返すために必要な能力を宿主に与える。

 人美に聞いた当初は理解しがたかったが、己が発症した今なら意味が分かる。

「俺に切り裂きジャックの動きをさせたのは、罪紋病の症状だったのか」

 おそらくは罪紋病の菌が脳や神経に働きかけ、肉体の限界以上の動きさせたのだ。

 それは義月が舞台で演じていた時、イメージしていた架空の殺人鬼そのものだった。

 病にかかればスペックが低下するというイメージがあるが、必ずしもそうではない。

 躁うつ病の躁状態のときには優れたアイディアが湧き出る傾向がある。また、キリンの首が長いのはウィルスにより肉体の変化を促されたという説もあるのだ。

「しかし、そんな反動がくるんじゃ無理は禁物だな」

 体に負担をかけすぎたがゆえに、ツケがきて走行中のバイクから落ちてしまった。

 龍登が庇ってくれなければ即死だっただろう。

「……ありがとう」

「感謝の気持ちはセフレになることで表してくれないか?」

「嫌だ」

「冗談だ。そういうのはレイプと変わらないって、お前のツレに怒られちまったからな」

 龍登はいたずら盛りの小学生のように笑っているが、義月は気が気でない。

 車道にバイクの残骸が落ちているのだ。道路脇の林に隠れているだけでは、すぐに敵に発見されてしまう。

「もっと奥に隠れたほうが……くっ」

 義月は再び立ち上がろうとして失敗した。激痛に声が出るばかりだ。

「そう焦るな、この辺りに奴らはいない」

「敵が、どこにいるか分かるのか?」

「この狼が言っているのさ、血の匂いがしないってな」

 龍登はボロボロになったジャケットから、誇らしげに二の腕を晒してみせた。

 岩のように隆起した筋肉の上に浮き出た黒い斑点は、狼の横顔にも見える。

「こいつが出ているときは殺気に敏感になるんだ」

「俺の居場所が分かったのも、ギルティタトゥーの力なのか」

「お陰で毎日退屈しないぜ」

 捕食される側の動物には風の匂いや音などから、敵の接近を察する能力を持っているものもいる。罪紋病の症状が、獣のような直感力を敏感にさせているのだろう。

 この男の場合は使い道が逆だ。わざわざ危険を見つけては飛び込みに行っている。

「悪い奴ほど強くなる、それが罪紋島だ」

 龍登は力こぶを盛り上げ、ギルティタトゥーを自慢げに見せつけた。

 罪紋病の症状で罹患者の才能が高められることがある。

 義月は身体能力までも役になりきれ、龍登は殺意を遠くからでも敏感に感じることができる。

 あの八幡という老人が、若い義月をねじ伏せる力を示したのも、罪紋病の症状かもしれない。

 だが病である以上、都合のいいことばかりでないことを義月は知っていた――。


 夜が白んでゆくまでの間、男たちは語り合った。その話題は主に人美の殺害に至るまでの経緯報告という殺伐とした内容だったが――。

「ご苦労だったな、これでお前らも好漢団の仲間だ! みんなで楽しくやろうぜ!」

 ご機嫌な龍登に、義月は冷水をかけるような返事しかできなかった。

「あいつらはこの島にいていい人間じゃない、すぐに釈放させる」

「何だよ、つれねえな」

「人にはそれぞれ居るべき場所がある」

「クソみたいな日本本土より、この島のほうがよっぽど楽しいぜ」

 人権党が政権を握って以来、日本は変わってしまった――これは上の世代の人たちが声を潜めてで言うセリフだ。

 今の日本しか知らない義月にしてみれば、実感は湧かない。

「住めば都だ、そのうちこの島の良さが分かるぜ! 特にお前は向いている、人美だけじゃなく、あれだけの集団に襲われて二人も殺せるなんて、そうできるもんじゃねえ」

 その言葉に義月の心臓は、重い鼓動を打った。

「二人……殺したか?」

 あの乱戦の中の記憶は薄い。人格を完全に切り替えイメージの中の切り裂きジャックに自分を委ねていたためだ。

「パッとみた感じ脳天を砕かれている奴が二人いた、まず助からんだろうぜ」

「すまないことをした……」

 義月は頬に生暖かい感触を覚えた。

「おい、どうしたんだよ!?」

 人形のように表情を変えなかった義月の涙に龍登は戸惑っている。

「生き延びたい一心だった……彼らにも人生があっただろうに」

 冷徹にふるまってはいたが、心がないわけではない。普段は感覚を麻痺させているだけなのだ。

 誰よりも人美だ――毒殺魔だったことは間違いないが、彼女を慕い、必要とする人間だっていたのだ。

 凍らせていた心が溶けて崩れてゆく。嗚咽が暗い林に響いた。

「俺はまた、殺さなくてもいい人を……」

「辛いのか? そういうときは話しちまえ! 貯めこんでいたら心が壊れちまうぞ」

 龍登の大きな胸が義月の顔を包み込む。七年ぶりに感じる父親のぬくもりだった。

「安心しろ、誰にも言わねえ」

 龍登は気付いてくれたのだ、一人で抱え込んでいる苦しみが義月の中にあることを。

 彼が信用できるなどはまだ思えない。

 だが感情の堤防は崩れてしまった。言葉が濁流となって流れ出す。

 義月の世界すべてを変えてしまった、あの忌まわしき日に至る話が――。


 十二歳の頃、義月は東京でも指折りの大劇団黒船座にいた。

 中学校に通いながら子役として舞台に上がる毎日。

 黒船座には父がいて、母がいた。姫麟も、祈里も、玄太もいた。

 永遠に続くかに見えた幸せな日常。その崩壊は、一人の女が劇団に入ってきたときに始まっていた。

「貴方が座長の息子さん? 顔はお父様に似ているけどやんちゃそうね」

 初対面の女にそう評される程度に、当時の義月は快活であった。

「新入りか? 年は下だけど、先輩は俺だからな! 敬えよ!」

 生まれてすぐに赤ん坊役として舞台にあげられている。この事実を盾に取り、自分はに十二年の芸歴があると義月はイキっていた。

「残念! あたしは二十年以上舞台にあがっているからもっと先輩よ! ほら、敬って♪」

 新入りの女優にマウントを取り返されて義月は面食らう。

「お前、いくつだ? 二十年とかすぐ分かる嘘つくんじゃねえよ!」

「さあて、いくつでしょう?」

 新入りの女は男を見下し弄ぶ小悪魔的の笑顔を浮かべる。二十歳を自称していたが、外見は高校生くらいに見える。

「だから呼び捨てはダメ。サリナさんって呼びなさい♪」


 サリナは小悪魔的美貌と蠱惑的なスタイルに加え、ベテランを自称するだけの高い演技の持ち主だった。

 新しいスター候補生が生まれ、黒船座のメンバーは新たな時代への予感を覚える。

「父さん、どうだった? 俺のトムは?」

 “トム・ソーヤーの冒険“の公演初日終了後、義月は感想を求めに父の楽屋のドアを開ける。

 芝居が終わると、座長である父に指導を受けに行くのが習慣なのだ。

 待っているのは親馬鹿な笑顔か? 役者魂の渋い顔か? 前者である可能性を期待して楽屋の奥に視線を移した。

 待ち受けていたのは小悪魔の煽情的な肉体であった。

「あら、義月くんご苦労様」

 衣装が艶めかしくはだけているサリナ。

 父はその間近でで気まずそうに衣装の乱れを治している。

 この楽屋で何が起きていたのか?

 思春期男子は己の妄想に動揺していた。

「元気で可愛いトムだったわ」

「お前の感想は聞いてない!」

 サリナに言い返すのが精いっぱいだ。

 父さんには母さんがいて、家でも劇場でも仲がいい。浮気なんかするわけがない。

 そう自分に言い聞かせて、妄想はしょせん妄想だと必死で否定した。

「父さん、どうだった?」

「今、忙しいから出て行きなさい」

 反応はそっけなさすぎた。初日公演にどれほど役者が力を入れ、緊張するか熟知しているはずの父に、気持ちの籠らない対応をされたことは、幼心に小さな傷を残した。


 次々回の公演ではサリナが主演に選ばれた。黒船座史上最速の主演抜擢である。

 従来ならば座長である父は、在籍歴の長い役者の中から演目に合わせて主演を選んでいた。

 同じ役者が連続して主演にはならないようにする。座長の自分はわき役に徹し、主役は他人に譲る。

 それが劇団内の人間関係を円滑にし、やる気を維持させる父の運営術だった。

 黒船座での実績が浅いサリナの主演抜擢は、劇団員たちの間に小さなヒビを入れた。

 しかし、大事には至らない。

 義月の母であり、座長の妻である美華がフォローをしたからだ。

「クレオパトラは私たちの誰よりも、サリナさんが似合っていると思うわ。舞台は劇団内の権力争いのためにあるんじゃない、お客さんに面白いお芝居を楽しんでもらうための場なのよ」

 不満を抱いている劇団員を美華がこう言って説得し、祝福ムードを作り上げてくれたのだ。

 “クレオパトラ“の舞台は成功に終わった。

 だが、次の芝居も、その次の芝居も父が主演に指名したのはサリナだった。

 十年以上、毎年公演を繰り返している“源平哀切記”の舞台では、美華の持ち役とされていた巴御前までもサリナが演じ、主演女優となった。

 巴御前としての演技は明らかに美華が上であり、常連の観客たちからは失望の声があがる。

 劇団員たちは配役を含め、座長に運営改善を求めた、

 だがそれは叶わなかった。

 座長は演技指導の名目のもと、常にサリナと一緒に座長室へこもっており、他の劇団員たちの前に姿を現さなくなっていたからだ。

 黒船座は静かに崩壊し始めていた。


 こんな状態では楽屋に若手や子役が集まっても、普段の活気が出ない。

「合同稽古がなかなかできないわ」

 すでに十八歳で、人気若手女優だった祈里は困惑していた。

「オヤジが説得しようとしても、座長が聞く耳持たないらしいからな」

 十二歳の玄太は演技に興味がない。たまにエキストラ出演しては小遣いをもらい、義月の部屋でプラモを組み立てる毎日を送っている。

 この姉弟の父親はコワモテの悪役俳優であり、座長に正面から苦言を述べられる数少ない人間だった。

 だがサリナに関して激しい口論をした末に座長に疎まれ、今は不遇な立場に追いやられていた。

「オヤジも八郎師重の役、下ろされちまって落ち込んでいるぜ」

 座長の妻である美華はさらに悲惨であった。夫と持ち役の両方を若い女に奪われている。

 彼女の持つ優しさや気遣いは、サリナのような悪女にとっては、付け込みやすい甘さに過ぎなかった。

「お母さん元気だして、お父さん、お仕事忙しいんだよ」

 八歳児だった姫麟はそんな風に母を励ましていた。父と母の間柄がもはや修復不可能だとは、気付いていなかったようだ。


 座長が薬物中毒だと噂され始めたのはその頃だった。

 まだ四十代だとは思えないほどやつれた肉体の中で、ギラギラと目だけが輝いている。

 伏見谷家の銀行口座は、底の抜けた桶のように額を減らしていった。

 常に無気力な目をし、話しかけても受け答えは要領を得ない

 かつて名わき役にして名座長と称えられた男は、廃人を演じる時の秀逸なサンプルでしかなくなってしまっていた。

 その横には常にサリナが腹話術師のように付き添い、座長を意のままに操っている。

 その女が視界に入るたび、義月の脳に怒りの針が鋭く穿ちこまれた。

 幾度も痛烈にツボを突かれ、少年の心を変容させてゆく。

 そして、忌まわしの日が訪れた――。


 その日、義月は女物の衣装を纏い、劇場の座長室へ向かった

 身内を自由に受け入れてくれた座長室のドアは、今や家族や劇団員が訪れても中に入れてくれない開かずの扉となっている。

 父がその鍵を開くのはサリナだけだ。

 だから巴御前の衣装を母から無断で借りた。今はサリナの役となっているそれに扮することで父にドアを開けさせ、話をするのが義月の作戦だった

 サリナは今、義月の自宅にいる。

 母をなじり、人格を否定し、金切声をあげて離婚届けに印鑑を押せと迫っているのだ。

 離婚すれば家はおろか、劇団も出て行かねばならないだろう。

 サリナは母の人の良さを分かっていて高圧的かつ攻撃的に、非道な要求を飲ませようとしていた。

 数日おきに見せられている胸糞の悪い光景。

 それを逆用して父への面会を試みたのだ。

 義月は座長室をノックした。憎しき女のノックの癖は芝居として習得している。

 青白くやせこけた父の顔がでてきた。

「サリナか……待っていたよ」

 眼前にいるものの正体に気付けない。

 成長期の体はサリナと同じ背丈になり。化粧をし、俯き加減で顔を隠しているとはいえ、息子であることを父に見抜いてもらえなかった事実に切なくなる。

 あの女から引き離せば元の父さんに戻る。自分にそう言い聞かせた。

れば、クスリで判断力の衰えた父の目を惑わすことさえできた。

「どうにも気分が良くなくてね……すまないがもう少し眠っていたいんだ」

 来訪者を部屋に入れると、父は仮眠用のベッドに伏せてしまう。

 数ヶ月ぶりに入った座長室は退廃していた。

 以前は大切に扱われていた芝居関係の資料や小道具は乱雑に散らばり、注射器や怪しげな薬のアンプルがあちこちに転がっている。

 薬物中毒だという噂が真実であることを思い知らされた。

 ベッドに父が横たわっている。本来の逞しく頼もしい面影は消えかけていた。

 胸の痛みを堪えつつ義月はカツラを外し、顔をあげた。

「父さん、俺だよ……」

 親子二人で話せる久々の機会。きっと本来の父を取り戻せると信じていた。

 声に気付いて父が目を開ける。

 息子を間近に見たその顔に浮かんだのは失望と嫌悪だった。

「何だ……サリナじゃないのか」

 不愉快そうに目を閉じてしまう父。

「父さん、話があるんだ!」

「出て行きなさい、サリナじゃないなら」

 芝居のことを話しても、母の話を持ち出しても父はサリナの名を口にするだけだった。

 義月の心は徐々に悪魔のそれへと変わっていった。

 着物の中から懐を取り出す。

 本当はサリナがここに帰ってきたら、これで顔を傷つけるつもりだった。

 男を惑わす小悪魔フェイスさえ失えば、父も目を覚ますだろう。そのためなら自分は捕まっても、父に嫌われても良いと覚悟していた。

 だが今の一言で確信した。

「お前なんか父さんじゃない!」

 家族として愛し、役者として尊敬している。

 だから、父に似たこの男が許せなかった。

 気づけば義月は眠っている父の胸の上で懐刀を振り上げ、振り下ろししていた。

「っ!」

 父の体がベッドの上で大きく痙攣した。

 見開く父の目にはっきりと義月の顔が映る。

「サリナ……救け……て」

 助けを求めるように一瞬伸びた父の右腕は、数秒で萎えてベッドの上に落ちる。

 目を剥いたまま、その呼吸は止まる。

 父が最期に呼んだ名は、義月の狂気を深化させた。

 後悔すら浮かびあがらない。

 幼い心は、この状況を利用してサリナを貶めようという憎悪に染まっていた。

 父の枕元にあるスマホを手に取ると、ロックを父の遺体の指紋で解除する。

 コールしてサリナを呼び出す! 罪を擦り付け、死刑に追い込む!

 探偵漫画から思いついた幼すぎる計画だった。

 高ぶる感情に痙攣する指は、意に反してサリナの着信欄の下にあった不在者着信欄の返信ボタンをタップしていた。

「しまった……!」

 すぐにコールを止めた。

 だが、着信履歴は母の携帯に残ってしまっている。


 久々の夫からの電話に座長室に駆けつけた美華は、そこで血にまみれた夫と、愛人の姿を真似ている息子を見てしまう。

「義月……」

「母さん……ごめん」

 母の顔を見たとたん、義月は己の罪深さに気付き、泣き崩れた。

 無言のまま立ち尽くす美華は、やがて息子が何をしたのか悟ったように頷く。

「大丈夫よ、義月……お母さんが助けてあげる」

 美華は呟くと、すでにこと切れている夫の胸に刺さっていた懐刀を引き抜いた。

 栓となっていた刃を取り払われた傷口から、紅血が地獄の泉の如く湧き出る。

「何をするの? もう父さんは……」

 義月が言いかけた言葉を母の言葉が制した。

「死んではいないわ、母さんがこれから殺すの」

 刺した。母は自分を捨てた夫の胸を刺した。

「母さん……? 母さん……?」

 何度も、何度も刺し続ける。

 返り血で赤く化粧されてゆく母の美貌に義月は慟哭し、狂気の叫びをあげた。

 それは母が懐刀を置き、息子の耳元でこう囁くまで続いた。

「あなたは何もしていない。これからもお芝居を続けなさい……いいわね」

 美華は幼い頃によくそうしたように義月に指切りげんまんをした。

 これを破ることは許されていない。

 美華は自首をして裁判を受け、罪紋島刑務所に送られた。


 座長を失った黒船座は解散。先代座長だった祖父は二人とともに東京から遠い稲盛市に移り住んだ。

 祖父は一年後に小劇団回天座を設立。義月と姫麟を再び舞台に立たせる。

 これらは義月が美華とした芝居を続けるという約束を守るため、そして幼い孫たちの深すぎる傷を癒すという祖父の愛情であった。

 噂を聞きつけて、祈里と玄太の本城一家も合流。

 元通りの日常を取り戻したかに見えたが、義月が元の快活さを取り戻すことはなかった。

 母との約束を守り真実を誰にも告げることはなかったが、己の罪を心に責め続けている。

 成長したその姿はアンドロイドと評される感情の薄い、寡黙な男であった。


「これを話したのはあんたが初めてだ」

 車道沿いの雑木林の中、夜明け前の闇空を見つめながら義月は己の過去を語り終えた。

 龍登は瞼を閉じたままそれを聞いていたが、話が終わるとそのままうなずいた。

「それで、お前は母ちゃんに会うためにこの島に来たのか?」

「俺も大人になった。身代わりをやめさせ、母さんをこの島から解放する」

 何度も慰問公演の希望を政府に申請したのは、ただ面会するためではない。

 無実の母を釈放に導き、代わりに本当の罪人である自分が服役する、それが目的だった。

「なのに、仲間たちを巻き込んでしまった」

 銃火器密輸の罪を捏造され、回天座の四人ともが投獄されている。

 一体、女所長ヨミに何の意図があるのか理解できないままだ。

「だから、あと八人をこの手で必ず殺す。仲間を釈放させるために」

「自分は出て行くつもりがないってことか」

 この島から釈放されるには三人の処刑と、その報告が必要だ。

 回天座の四人が揃って本土に戻ろうとすれば、合計十二人の生命を奪うことが必要になる。だが、義月は自分自身をその対象をから省いていた。

 島から出て行くのが三人ならば九人の処刑を報告すればいい。人美の処刑は報告したので残り八人。

 乱戦の中で殺したかもしれないヨミ教団の信徒は、報告を果たしていないのでカウントに入らない。

「だができるのか? お前は人を殺すのが辛いんだろ?」

 それは父殺しで摩耗している義月の心をさらにすり減らしていた。

「無理することねえよ、全員でこの島に残れ。これ以上は殺さなくても、生きていける方法はある」

「あいつらには元の生活が相応しい」

 義月は龍登が差し伸べてくれる許しの手を頑なに拒んだ。

「元の生活になんか戻れやしねえよ」

 またアンドロイドフェイスに戻っている義月に、龍登は厳しい顔で告げる。

「死刑囚だぜ? 釈放されても今までと同じ目では見てもらえねえ、それはお前も分かってんだろ?」

「……だが、俺は償いをしていなくては」

 心が潰れそうなのだ。その苦しみから逃れるために殺人を犯し、さらに重い罪悪感を抱え込む。もはや救いのない人間になっている自覚が義月にはあった。

「強すぎる責任感ってのも面倒くせえな」

 龍登は頭を掻いたが、すぐに不敵な笑みを義月に向けた。

「だったら俺の夢に協力すればいい」

 義月は眉を顰める。

 龍登は彼らしい、自信と力に溢れた声でそれを宣言した。

「悪人たちの国を作ることだ! 悪人たちが差別や偏見を受けず、やりたいことをやって生きられる国をな!」

「どこに?」

「この島にだ! オレたち好漢団でヨミを追い出し、他の囚人勢力を統一して独立国家を造る!」

 誇大妄想じみた構想だった。

 罪紋病は悪人にとって都合がいいばかりの病気ではない。発症してしまえば治す方法はなく、平均五年で発狂し、死に至る。

 この男はもはや狂いかけているのかもしれないと、義月は危ぶんだ。

 龍登の腕では漆黒の狼が吠えている。これが彼の精神を食い殺しつつあるのかも……。

 訝しんでいるとき、クラクションの音がした。

 車道の目視できる距離に白いワゴンが停車する。

「敵か?」

 身をすくめた義月だが、龍登は待ってましたとばかりに立ち上がる。

「マリサだ、お待ちかねの迎えだぜ」

 女がワゴンの運転席から下りてきた。

 近づいてきたその姿に義月は大きく息を飲む。

「サリナ……!?」

 義月とその家族の運命を変えた女と瓜二つに見えたのである。

「あなたが義月くん?」

 立ち上がれない義月の元ににマリサが立ち、まじまじと顔を近づけてくる。

 似ている! 顔も、スタイルも、声も憎しみの記憶にあるサリナと。

「さすがは俳優ね! 顔で売っているだけあるわ♪」

 声や話し方までもがそっくりだった。

 憎しみが蘇り、あの日の過ちを繰り返しそうになる自分を必死に理性で抑えた。

 違う、この女はサリナではありえない!

 そっくりだが、差異もある。サリナが女を前面に出したセクシーなファッションだったのに対し、マリサはスポーティーで健康的な服装。

 何よりサリナは今なら二十七才くらいになっているはずだが、マリサは高校生か大学生くらいに見える。

「名乗ってなかったわね。好漢団のマリサよ、よろしく♪」

 どう返事をして良いものか判断が付かない。ただ網膜に映るマリサの顔と、記憶の中のサリナの顔を見比べていた。

「動ける?」

 マリサに尋ねられ、義月は立ち上がろうと試みた。

 動けなくはない、当初に比べれば痛みも和らいでいる。だが、超激痛が激痛まで静まった程度だ。

「マリサ、俺のバイクは?」

「言われた通り積んできたけど、その体で乗る気?」

「当たり前よ! こんなもんかすり傷だ!」

 荒々しいシャドウボクシングを始める龍登。

 数時間前に酷い怪我を負っていたのにもう回復している。この生命力が彼本来のものなのか、罪紋病がもたらすものなのか義月には見当が付かなかった。

「オレは予備のバイクで帰るぜ、お前はマリサのワゴンに乗せてもらいな」

 龍登の勧めに対し、義月はすぐに返事ができなかった。

 理屈で考えれば別人だ。とはいえ、サリナと同じ顔をした女と二人きりの空間で過ごして冷静を保てる自信がない。


 結局、義月は再び龍登のバイクの後部座席に乗せてもらっていた。

 朝焼けの空の下、男たちを乗せた大型バイクがタンデムで車道を爆走する。

「ヤッフー! やっぱ車よりバイクだよな! この風! お前は分かっているぜ、義月!」

 我慢強いのか、神経が鈍いのか、龍登はケガのことなど忘れたかのようにアクセルをふかしている。

 一方、義月はバイクの振動に刺激される痛覚を堪えながら、必死で龍登の背中にしがみついている状態だ。今度落ちたら命はあるまい。

 それが分かっていても、マリサと二人きりになるのは嫌だった。

「ところでさっきの話はどうする? 協力してくれるか?」

 龍登の問いかけに、義月は逡巡した。

「悪人たちの国か」

 仮に釈放許可を獲得したとしても、回天座の仲間たちが本土で元通りの生活を送れるとは限らない。一切の偏見を受けずに市民生活を送ることは困難だろう。

 劇団の人気にだって影響してくる。

 ならば龍登言う通り、この島に皆で暮らすか?

 義月だって本音を言えば仲間と離れたくない。

 幼い頃からともに時間を過ごし、公演の成功を目指して切磋琢磨してきたかけがえのない存在なのだ。

 だが、姫麟も、祈里も、玄太も普通の人間だ。悪人たち町では生きてゆけまい。

 増してや、いつ他の囚人に処刑されるか分からない状況。好漢団に入ればその危険は薄れるが、ゼロになるわけではない――。

「俺は仲間たちを守る、それだけだ」

「そうか……オレはオレの道を行く、お前も好きな道を行け」

 ご機嫌そうな声が龍登の背中から返ってくる。

 自らと異なる考えのものを受け入れ、ともに生きることができる。罪紋病は進行しているようだが龍登は完全に狂っているとは判断できない。

 誇大妄想にも思えた国造りの夢、この男ならあるいは――。


 それでも、義月は固く意思を決していた。

 やはり仲間を釈放に導くべくだ。本土に帰せば、何か冤罪を証明する方法もあるはず。

 ゆえにあと八人を処刑せねばならない。極悪人だけを八人……。

 今は自分を支えてくれている、大いなる背中の殺人鬼こそがその一人となるやもしれないのだ。

 あってほしくはない。だが、もし仲間に危害を加えるようなら、自らの命に変えてでも……!

「俺たちの行く道にとって、互いが邪魔になったらどうする?」

 義月の問いに、龍登は遠足を待ちわびる子どものような声で答えた。

「そのときは……本気でやりあおうぜ!」

 琥珀色に輝く空の下、地平の彼方へ向け走る男たち。

 行く手を示すものは昇り始めた太陽だけだった。

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ギルティタトゥー~脱獄!死刑囚10万人都市~ 犬項望 @kenkoubou

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