第4話 罪紋(ギルティタトゥー)

 外見上は離島の街でしかない罪紋島が、妖魔悪鬼の地獄国であることを義月は改めて痛感していた。

「飲んでよ! キミのための心づくしなのに!」

 人美に満ちていた大人の余裕はもはやなく、意のままにならない若い男に焦りを見せる女の醜さを露呈している。

 彼女に提供されたカクテルにも、薬のカプセルにも、毒々しい色が付いているように義月の網膜には映った。

 遅効性の毒の混ざった媚薬を年下の男に飲ませ、弱っていく体に反して増大する性欲を弄びながら命絶えるさまを楽しむ、悪趣味で淫猥な毒婦。

 これがマスコミが報じていた高崎人美像である。

 絶対に飲むべきではない。

 だが、龍登と関係のある人間ではないかという疑いを義月はすでに買っていた。

 人美のヨミ教団にとって不俱戴天の仇。そしてこのバー『メラン』はヨミ教団の巣窟なのだ。

 勧められた酒と薬を拒むことは疑いを肯定するに等しい。酒場にいる信徒たちに襲い掛かられ無惨な死を与えられるだろう。

 今の義月はジョロウグモの網にかかり、もがき苦しむ蝶も同然だった。

 毒と快楽による死か? 暴力による落命か? 選択すべきは――。

「上手に飲めたわね、偉いわ」

 義月はカプセル薬を水で飲み下した。

 人美は幼児をあやす母親の顔で拍手をする。

 とたん、酒場の客の一人が立ち上がった。

「善行おめでとう!」

 赤ら顔の男が拍手と喝采を叫ぶ。

 他の客の中には、それを見て必死で笑いをこらえているものもいた。

「まだ早いぞ、モグラ」

 赤ら顔の客は、同席していた和服姿の老人に嗜められると慌てて拍手を止める。ソファーの背もたれの向うにモグラの如く首を引っ込めた。

 それが義月に確信させた。カプセルの中身はほぼ間違いなく、死に至る毒物、もしくは病原菌だろうと。

 酒場内の他の客も、死にゆく獣にたかるハゲタカのような目で義月を観察している。

 彼らは人美とグルなのだ。手口を知っているのなら、死亡予定時刻さえ見当が付いているのかもしれない。

 義月本人には見当も付かないが――。

「お酒は飲まないのかな?」

 人美が甘い声で追い打ちをかけてきた。

 義月は、初心な青年に再び人格を切り替えた。

「飲めないんです」

「あら弱いの?」

「いえ、あと四十分は待たないと」

「どうして? ぬるくなってしまうわよ?」

「僕、まだ十九なんです。 あと一時間経てば二十歳になるんで飲めるんですけど……」

 恥ずかしそうに告白した義月の顔を人美はしばしポカンと眺めていたが、すぐに表情を崩し、て大笑いし始めた。

「そ、そうだったの! キミ、未成年だったのね! 知らなかったわ!」

 腹を抱えて笑い続ける人美。数分まで漂わせていたひりつくような邪悪さは微塵も感じさせない。

「そんなに笑わないでくださいよ、人美さん」

「だって死刑囚なのよ、なのに律儀にそこは守るのね、かっわいいー♪」

「僕は冤罪です! 人美さんと同じです!」

 人美は笑い上戸なのか、笑いの波が治まるまでしばらくかかった。

「ごめんね、お詫びといったらアレだけど誕生日プレゼントをあげる」

 ルージュに彩られた唇が義月の耳元に寄せられる。

「二十歳になった瞬間に奪ってあげる」

 色めいた囁きが鼓膜をくすぐった。

「奪う? プレゼントなのに?」

「そうよ、キミの童貞と……あと一つ大事なものをね」

 義月の視界を、色香に輝く大人の瞳孔が占めていた。

「あら、童貞じゃなかった? だったら止めておくわ」

「い、いえ、童貞です! 本当の本当に童貞です!」

 義月が慌てだしたのがおかしいようで、人美はまた腹を抱えて笑い出した。

「い、いいんですか? 信じられない……こんな綺麗な人に」

 夢見心地で呟く義月に瞳は艶めかしい視線で頷いてみせる。

「良い誕生日プレゼントでしょう?」

「はい最高です! ……ところで、もう一つの大事なものって?」

「気になる? なっにかな~? 何を奪っちゃうのかな~?」

 ウインクをしながら体を揺らす人美。

 義月の中の疑いが事実なら、奪われるものは命――。

 だが、ここは恥ずかしそうな表情を作ってみせる。

「もしかして、ファーストキスですか!?」

 ピュアすぎる期待に、人美はまたも爆笑する。

「ええー! キスもしたことなかったの? もしかして、恋人いたことなかったり?」

「……はい」

 所在なさげな顔をする青年に、年上の女は寛大な微笑を向けた。

「なら奪うものはキスを含めて三つね、責任重大だー」


 身支度を整えてから二人でバーを出た。

 急がなければ日付が変わってしまうと人美がせかすので、速足で歩いた。


 路地裏のラブホテルに入り、交代でシャワーを浴びる。

 先にそれを終えベッドに腰かけている義月の隣に、シャワールームから出てきた人美が座った。

 義月と同じバスローブを纏った豊麗な体は、薄桃色に色付いている。

「間に合った? まだ零時になってないよね?」

 香り立つ肌は、湯に磨かれ艶めかしく輝いていた。

「人美さん!」

 若い欲望を堪えきれないかのように、柔らかな山脈に顔をうずめる義月。

「きゃ!? もー、慌てないの!」

「だって……今日一日でいろいろありすぎて」

 人美に優しく押しとどめられ、泣きそうな顔で義月は語る。

 二十歳になる前日に慰問公演に訪れたら、突然逮捕されて死刑を言い渡され、恐るべきルールに支配された街に放り込まれた。

 不安と絶望の中で人美と出会い、成人を祝われながら今、童貞を捧げようとしている。

 人生の激動に胸が張り裂けそうだと語ると、人美は両腕で優しく抱きしめてくれた。

 待望の餌を貰った子犬のように鼻を鳴らし、無我夢中で憧れの膨らみに顔を埋める年下の男の頭を、人美は愛し気に撫でている。

「本当、可愛い……顔も綺麗だし……ちょっと勿体ないくらい」

 何が勿体ないのかと義月が尋ねようとしたとき、スマホのアラームが鳴った。

 日付が変わり、義月が成人を迎えた合図だ。

「誕生日おめでとう」

「ありがとうございます!」

 義月はプレゼントを待ちきれないかのように息を荒げる。

「フフフ、我慢できないんだ? じゃあ、まずはひとつめね……キスから奪ってあげる」

 女の指が義月の顎を掴み、円熟した女の唇に引き寄せる。

 そこに若い唇を重ねる義月。

 芝居でも真似事しか経験はない。本当にファーストキスだった。

 濃厚なキス……義月は人美の口内めがけ舌を延ばす。

 そして――喉の奥に“それ”を押し込んだ。

「っ!?」

 人美は目を見開いて義月から体を離した。

 気付いたのだ、眼前の男の危険性に。

「何、今の!?」

「人美さんにさっき貰った薬だよ」

「嘘……? キミ、さっき飲んだじゃない」

「役者だからね、薬を飲む芝居くらいはお手のものさ」

 バーでカプセルを飲むふりをし、掌の間に隠しておいた。

 ベッドでは人美の女体に夢中になっているふりをしつつ再びそれを口に戻す。

 そして、ディープキスに乗じて人美の喉奥に押し込み、飲み込ませたのだ。

 女の顔がみるみると青ざめていく。

 慌てたようにサイドボードからバッグを取ろうとした。

 そのバッグを義月の手が先んじて奪う。

 中にピルケースが入っていることは、バーで確認済だ。

 すでに九十九パーセント、この女は毒殺魔だと推察していた。それが百パーセント。即ち、殺すに値する人間だと確信したのは今、この瞬間だ。

 狡猾なこの女なら、万が一の場合の解毒剤も用意してあると読んでいた。

「何を慌てている? 飲んでも問題ないはずだろ? あのカプセルが本当に風土病の予防薬なら」

 義月は口調と顔つきをアンドロイドと評される冷徹なものに戻していた。今まで人美に見せてきた伏見谷義月像は、彼女の好みに合わせた偽物である。

 誕生日も窮地を逃れるために、四ヶ月ほど先にあるものを先取りしていた。

「返して!」

 金切り声をあげ飛び掛かってくる人美を躱し、義月は窓を開ける。

 バッグを二階にある部屋から外へと放り投げた。

「解毒剤が!?」

 乱れたバスローブ姿のまま、血相を変えてホテルの部屋から飛び出す人美。

 義月はハンガーにかけておいた自らのジャケットを羽織った。

 バックが落ちた場所、つまり人美が目指すところは分かっている。足には自信があるので多少、タイムロスをしても帳尻は合わせられる。

 義月は元の服装に戻ると、獲物を追ってドアから飛び出した


 ラブホテルの廊下を走りつつ義月は、ポケットからそれを取り出した。

 ジャックナイフ、出発前に龍登に借りた凶器だ。

 下に降りる階段に向かって走る人美の背中を、義月は目で捕えた。

 日ごろから俳優としての体力トレーニングを欠かしていない。走力ならば女医のそれを上回っている。

 高速の追撃者に気付いた人美は、命乞いの声をあげた。

「殺さないで、お願い!」

 まだ抱きしめあっていたぬくもりが体に残る女の懇願。だが、義月は怯まない。

 その魂はすでに、カサノバとは違う別の役柄になりきっていた。

「淫婦に裁きの刃を!」

 命を断つ手ごたえがした。

 刃はうなじの肉を貫き、その向こうの骨を穿っている。

「あぁ……」

 人美は廊下に倒れる。ナイフを突き立てたタオル地のローブが深紅に染まってゆく。

「殺した……」

 この島における自らの最初の殺人を、義月は意識の遠くから眺めていた。

 今、この体を支配しているのは伏見谷義月ではない。切り裂きジャックの人格だ。

 十九世紀末にロンドンを恐怖に陥れた伝説の殺人鬼――それを元にしたオリジナルストーリーの芝居を演じたことがある。

 夜霧に潜む怪物の心になりきれば、殺人にためらいは生まれなかった。

 義月は、無機質な動作でスマホを取り出した。

「処刑完了」

 キーワード音声に反応し、囚人用のスマホにプリインストールされてる善行報告アプリが起動した。

 看守棟に執行を報告するためのプログラムである。

 スマホのカメラ機能で人美の亡骸を撮影する。自動的に画像は看守棟内のサーバーに送信され、ジーピーエス機能で殺害場所を知らせてくれるのだ。

 その後、業者が来て検死をし、遺体を片付けてくれる。

 囚人同士が相互に処刑を行うことが、この島では推奨されているため、処刑実行者には、報酬が振り込まれる。

 さらには三人を殺せば模範囚として、釈放審査を受ける機会が得られるのだ。

「あと八人……」

 呟いた義月は、ラブホテルから立ち去ろうと階段を降りだした。

 それを遮るかのように、階段の下から男たちの一団が昇ってくる。

「処刑おめでとう」

「善行称賛」

 祝いの言葉を叫び、拍手を打ち鳴らす男たち。

 処刑を為したものに喝采を送るのはこの島の風習だ。

 ファミレスで田中一家がコックを殺したときにも目撃しており、早く慣れるべきものと理解している。

 義月が違和感を覚えたのは顔つきだ。ファミレスの客たちは心からの祝福を表していたが、眼下から来る男たちの目は敵意に満ちている。

 彼らの中に見覚えのある顔があった。

 和服姿の老人と、彼にモグラと呼ばれた赤ら顔の男。この二人は、バー『メラン』にいた客だ。

 老人は足腰が弱いのか杖をついているが風格は威厳に満ちている。男たち全員を従えているように見えた。

 不気味さを感じた義月は、階段から廊下に引き返す。

 エレベーターへ走りボタンを押したが、ドアが開いたとたんにやはり男たちの集団が出てくる。

 服装はバラバラだが、襟にザクロを意匠とした金バッヂを付けている。ヨミ教団のシンボルがそれだと龍登から情報を得ていた。

「処刑おめでとう」

「善行称賛」

 敵意に満ちた響きに殺意を感じた義月は、己の体を捨てこの場での生存を優先した。

 廊下の窓を開け、飛び降りたのだ。

 二階とはいえ視界の悪い夜である。失敗すればケガをする可能性もあった。

 だが、男たちに捕まれば殺されかねない。

 直感が暴挙とも思える行為を実行させていた。

「よしっ」

 着地成功。芝居のアクションシーンのために積んでいたトレーニングは無駄にならなかったようだ。踵に痛みと痺れは感じたが気にしてはいられなかった。

 ホテルの裏庭から路地に走ると、そこで敵意の祝福を三度聞く。

「処刑おめでとう」

「善行称賛」

 ザクロエンブレムを付けた男たちだ。

 動きに統制がとれている。義月に意図的な圧力をかける動きだった。

 一本道の前後から男たちに迫られる。

「挟み撃ちか」

 進退窮まった。

「祝福しているのだ、逃げることはなかろう」

 枯れた笑い声が闇の中に響く。

 ラブホテルのネオン光を便りに目を凝らすと、例の和服姿の老人が杖を突きながら歩み出てきた。

「まずはおめでとうと言っておこう、投獄されたばかりの若き俳優よ」

 義月のことを知っていたらしい。看守棟で公演を行い芝居を見せているのだから、これに関して特に不思議はない。

「初日から看守たちを怯ませ、処刑までこなすとは若さに似合わぬ度胸だ。だが、殺す相手は選ぶべきだったな」

 老人の声には静かな怒りが籠っている。

「高崎人美は、我らヨミ教団の医長でな。罪紋病の優秀な研究者だった。彼女がいなくなると困るのだよ、非常に……」

 道を塞ぐザクロエンブレムの男たちが老人に同調して恨みの声をあげ始める。

「よくも先生を!」

「あの人がいなくなったら、俺たちは!」

 義月に殺意をぶつけんとする男たちを老人は手を翳して制し、話を続けた。

「自己紹介が遅れたな。ワシは八幡、ヨミ教団の司教をしている」

 ヨミ教団、刑務所長のヨミを女神と崇める囚人組織。

 龍登は、権力者に媚びを売るくだらない連中と蔑んでいたが、深夜に緊急動員をかけて数十人を動かせるとなると、かなりの規模の集団であると推測できた。

「仲間を殺された以上、ワシらは報復をする。そうせねば抑止力が働かなくなり、組織の人間が次々と殺されてしまうのでな。どこの囚人組織もそうして構成員の命を守っておるいのだ。そういった風潮を龍登に聞いておらんのか?」

 義月が返事をしないでいると、八幡は口元に笑みを作った。

「龍登も人が悪い、新入りを捨て駒に使うとは……」

 八幡が右手を一振りして合図をする。

 今まで待てを食らっていたスーツ姿の男たちが動いた。ナイフや警棒を取り出す。

 生きて返すつもりがないことは明らかであった。彼らはリンチするつもりなのだ、息絶えるまで……!

 義月は今、切り裂きジャックとしての非情な心を宿している。

 だが、あくまで演技。身体能力や武芸は若手俳優のそれでしかない。

 戦って生き延びられる確率は皆無だった。

 昼間のように項羽の気迫で追い散らす手も考えたが、八幡の物言いから推察するに、すでに見抜かれているだろう。

 ならば逃げるか……? それも不可能に近い。 ここは一本道であり、しかも前後を塞がれている。

 奇跡的にこの場を逃れたとしても、ここはヨミ教団のナワバリのただ中。好漢団のナワバリまで無事に帰り付ける見込みはない。

「今死ぬわけには……」

 呟くと義月は決意した。いかに卑劣な手段を用いてでも仲間のもとへ帰ると。

「おぉ?」

 八幡が声をあげた。

 走った、義月はまっすぐに八幡をめがけて。

 教団内でかなりの地位にいるであろうこの老人を、捕えて人質とすれば手下は手出しができないと踏んだ。

 それが付け込みうる、唯一の隙であり活路だった。

 間合いに入ると声とともに、ナイフを振り下ろす!

「悪いが老人!」

 致命傷にならない程度に傷つける!

 情からではない、動きを止め拘束しやすくするために!

 卑怯ではあるが、仲間たちのことを思えばここで死ぬわけにはいかなかった。

 そんな義月の計画は思いがけない理由で頓挫した。

「なっ!?」

 受け止めたのだ。

 八幡が老齢とは思えない俊敏さで義月の右手首を掴み、細腕とは思えない剛力で義月の肘関節をねじり上げている。

「いかんいかんぞ、見た目で人を判じては」

 老いた力が、若い義月の抵抗を圧殺してくる。

 右腕を捻じ曲げられ、後ろ腰に蹴りを入れられて、地面に押し倒されてしまった。

 年齢による体力差で相手を制圧せんとした義月の目算は、大きく外れた。

「ワシもこの島は長い。罪紋病にとうに感染しておる。……持っているのだよ、ギルティタトゥーを!」

 八幡は右腕に浮かぶ牛頭の獣人を描いたような刺青を見せつけた。

 人為的な刺青ではない。

 病による斑点。それが集合して独自の形を為し、人の目には意味のある形を為しているように見える。

 罪紋病と呼ばれるこの地の風土病の症状なのだと、バーで人美に教わっていた。

「罪紋病のウィルスが罪を喰らい、人に与えるのだ、再び同じ罪を為す力を!」

 八幡の右膝が鉄杭となって、義月の脇腹に食い込んできた。

「うっ!?」

 対応できなかった……齢九十は越えているであろう老人の動きに。

 内臓からくる鈍痛で全身が痺れ力が抜けてゆく。義月の足はもはや、大地に立つという役割をすら果たせなくなっていた。

 八幡の手にはジャックナイフがある。義月の麻痺した手から奪い取ったものだ。

 動けばこれに貫かれる……!

 朦朧とした脳に男たちの声が響く。

「さすがは大司祭様だ!」

「人美先生を殺った奴なんざ、凌遅刑か、ユダのゆりかごにかけろ!」

 中世や古代のろくでもない処刑方法の名だった。

 人美はその本性を知りさえしなければ魅力的な女性だった。さらには優秀な医学者でもある。

 彼女を殺めた人間への恨みは、まともな殺し方では解消し得えないということだろう。

 逃げ出したいが今の義月には手段がない。黙って残酷な最期が訪れるのを待つしかないのだ。

「待て、ここは人美にカタキを取らせよう、彼女の血を吸った刃物でな……」

 義月から奪ったナイフを見つめて呟く八幡。拷問は免れたようだが、それゆえに死がより間近に接近してきた。

 ザクロエンブレムの男たちも、人美が無念を晴らせるならばと頷き合っている。

 八幡は蔑みを多分に含んだ笑い声を、義月に振りかけた。

「父親より年上であろう男に殺されるとはな、どれだけ深い業を積んだのやら……」

 その言葉が、“親”と“殺”、二つの漢字を義月の脳裏に閃かせた。

 七年間脳裏から離れたことのない文字たち。父親の最期の姿。掌に残るあの忌まわしき感触……それらが色濃く蘇ってくる。

「俺の罪……」

 耐えることなく義月の胸を苛み続けていた罪悪感。それがジャックナイフの形を為して襲ってくる。

「逝け、小僧!」

 義月の全神経に不可思議な信号が駆け巡ったのは、刃先に貫かれる直前だった。

「何!?」

 驚愕した老人の声が聞こえる。

 気付けば、義月は夜空を舞っていた。

 道路上に尻餅を突いている八幡の姿が、数メートル眼下に見える。

 自分でも信じがたい跳躍力だ。

 舞台で切り裂きジャックを演じたとき、こんな風に跳びたいとイメージはしていた。

 身体能力の限界から断念していた飛翔。それが今、実現しているのだ。

「そのギルティタトゥーは親殺しの罪紋か!」

 八幡が何かを叫んでいる。意味は分からないが、それを考えるべき状況ではない。

 頭上を飛び越し、八幡の背後に軽やかに着地をした。

 何かにひるんでいるザクロエンブレムの男たちの合間を、義月は縫うように駆け抜ける。

 走る速度は疾風に、身の軽さは夜霧のそれになっていた。

「小僧を逃がすな!」

 八幡の号令に男たちが、左右から遅いかかってきた。

 一度は八幡に奪われたナイフは、跳躍しざまに奪い返している。刃が銀月を描いた。

「ぐはっ!」

 闇夜に描かれた銀色の閃きは、一人の男の断末魔とともに紅に変化する。

「がふっ!」

 赤く染まったその円弧で二人目の男まで切り伏せていた。

「貴様!」

 長身の男がドスを手に突進してくる。

 義月は右足で大地を蹴った。体が夜空に浮かびあがる。

 百九十センチ近い長身の男の頭を軽々と飛び越していた。

「飛んでくれるのを待っていたぜ、軽業師!」

 長身の男はドスを、宙にいる義月めがけて投げつけてきた。

 義月の体はすでに重力に捕らわれ落下し始めている。そこを目ざとく狙われたのだ。

 刃の軌道は体を確実に貫きうるものであった。

 義月は体を捻った、風に舞う鳥の羽根のような空中制動で落下軌道を捻じり変える。

 ドスは目標を逸れ星空へと向かった。

 一方、義月は着地と同時に、長身の男の脳天にナイフの刃先を突き立てた!

「お……おお」

 男の黒髪が紅に染まり、長身は地面に倒れる。

「ひぃ、化け物だ!」

「人間の動きじゃねえ!」

 ザクロエンブレムの男たちは怯えを隠せない。

 崩れかけた統率に八幡の声が激を飛ばす。

「ひるむな! あくまで罪紋病の症状だ! 人を力の限界には導けど、超えはせんぞ!」

 男たち顔から脅えが薄まる。

「そうだ人間なんだよな……俺たちと同じ」

 しかし、八幡自身その声は震えていた。

「親殺しのギルティタトゥー、化身の力! まさか使いこなすものが現れるとは」

 意味は理解できない。今はヨミ教団によるこの囲みを突破することが義月にとって先決だった。

「モグラ! 突っ立っていないで、何かせい!」

 八幡は、モグラと呼ぶ赤ら顔の側近に叱責を飛ばしている。

 彼は何やら言い訳めいた表情で老人に何かを言っていたが、それが通じないと分かると義月に正面からボウガンを向けてきた。

「止まれ! 止まらないと本当に撃つど! 当ったら痛てえど!」

 義月は脅しなど意に介さず走り続けた。

「止まんねえんか!? じゃあ撃つからな! あんたのせいだからな!」

 モグラが怯えながら放った矢は義月の髪をかすめる。それが突き刺さった場所は、別の男の体だった。

「え? オラこんなつもりじゃ!?」

 矢を受けた男は矢を深く胸に受けて倒れた。

「バカもの! 状況を考えろ! 貴重な飛び道具を!」

 八幡の叱責が聞こえ、またモグラが言い訳をしている。

 敵が大集団であること、囲まれていることが義月にとって逆に幸いした。

 いかに闇夜を吹き抜ける風の動きを手に入れようと、飛び道具の連撃を浴びれば危うい。

 それを敵がしないのは、同士討ちを招くからだろう。

 義月は襲ってくる敵の肩や頭を踏み台として跳躍し、あるいは軌道を変えて自在に宙を駆けた。

 着地地点で待ち構えるものもいたが、空中で後転をし軌道をずらしてからナイフをアイスピックのように振り下ろして頭蓋を突き砕く!

 ヨミ教団信者たちは狂騒に陥り、義月の動きを妨げようとするものは減っていった。

 自らが犠牲者には誰もなりたくないのだ

 義月の行方を阻んでいた人の壁が削れ、穴が開き、やがて失せてゆく。

 義月は跳躍の高みから突破口を見出した。

 停車している赤いセダンの脇を抜ければ、活路は開ける!

 確信し、地面に着地と同時に全力で駆ける体勢を作った。

 その刹那――!

「万物に化身し悪事を為した雷神ゼウスのごとく、己ならぬ存在になりきることができる、一流の役者よのお……!」

 八幡の声と同時に、義月はバランスを崩した。

「くっ!?」

 アスファルト上に転倒する。そこには、独特の匂いとぬめりに満ちていた。

「どうだ? ガソリンの海に落ちた気分は」

 停車していた赤い乗用車が燃料をどぼどぼと零している。八幡がタンクを杖で突いて噴き出させたらしい。

「見事すぎる動きが仇となることもある」

 八幡は手に着火済のライターを持っていた。今、義月の体も地面も油に塗れている。

「水も滴るいい男が、火に塗れて死ぬとはな!」

 八幡は笑いとともにライターを油の上に落とした。

 アスファルトは燃え上がり、炎の壁となって義月に迫ってくる。

 逃げようとしたが、激痛が走り体がまともに動かない。

「無理な動きのツケか……」

 人間の限界に近い動きを身体能力を顧みずに行っていた。その反動が今、全身を蝕んできている。

「これが贖罪か……父さん」

 迫りくる紅蓮の壁。火による死は数あるそれの中でも最も過酷だと聞く。自分はそれに相応しい罪を犯したのだと義月は自嘲した。


 灼熱が義月を飲み込まんとしたそのとき、大地が震え轟いた。

「どけ、雑魚ども!」

 闇を貫く男の声と眩い光。

 その向こうにはケンタウロスを思わせるシルエット。

 アメリカンバイクに何者かが跨っている。

 ビームランプを輝かせ、ヨミ教団信者たちを弾き飛ばしながらマシンは義月に近づいてきた。

 鋼の馬を駆る影は、劫火の中へと恐れもなく飛び込んできた。

「乗れ!」

 太い腕が伸びてきて義月を片腕だけで引っ張り上げ、バイクの後部座席に跨らせた。

 黒い炎の如く髪、夜風に靡く傷だらけのマント。不敵な眼光とともに男は笑う。

「この辺りで面白いことが起きていると感じて来てみりゃ、やっぱりお前か」

「あんたは……」

 義月が口にするよりも早く、八幡が彼の名を怒号した。

「荒丸龍登! ここをどこだと思っている!」

 龍登は不敵な声で怒鳴り返す。

「喧嘩は大好物なんでね! 争いごとの匂いがすりゃ敵にナワバリにだって駆けつけるぜ!」

 八幡が手下たちを鼓舞する。

「殺せ! 龍登を処刑したものは一信徒でも最高幹部に昇格させるぞ!」

 ヨミ教団の男たちは狂戦士の雄たけびをあげつつ、襲い掛かってきた。

 賞金首にされた龍登は嬉しそうに笑う。

「そうこなくちゃなあ!」

 龍登はバイクを走らせ、再び炎の海を突破する。

 敵のただ中でバイクから降りると、スーツ姿の男たちに向け歓迎の拳を固めた。

「ちょうどいい人数だ! 遊んでやるぜ!」

 金属バット持った男が左から殴りかかってきた。 龍登は振り下ろされた金属バットを軽々と右拳で叩き落とすと、左アッパーで男の顎を砕く。

「いっちょあがり!」

 今度は右足を飛ばす。

 サイズ三十五cmはありそうなバスケットシューズは、砲弾と化して別の男の顔を穿ち、首の骨をへし折る。

「二人目だ!」

 実に楽しそうな顔で喧嘩をする男だった。

「どんどん来い! 片付けてやるぜ!」

 龍登が歓喜を昂らせたそのとき、義月の視界が陽炎のように揺らいだ。

 耐え難い激痛に全身の筋肉が痙攣をする。限界を超えた代償が義月にさらなる支払いを求めてきている。

 異変に気付いた龍登が振り返った。

「義月!」


 数分後、義月は龍登の背中にしがみついて車道を走っていた。

 ヨミ教団のものらしき自動車やバイクは執拗に追ってきたが、龍登のそれを弄び、なぎ倒しつつ駆け抜けてゆく。

 しばらくすると追手の影が見えなくなった。

「ようやく撒いたな、まだまだ安心はできないが」

 後部座席に座っている義月に龍登が話しかけてくる。

 義月の様子がおかしいことに気付いた龍登は、喧嘩をやめてバイクを急発進させたのだ。

「すまなかったな、具合が悪いところを……喧嘩が楽しくてつい、な」

 義月は応えることができない。ただ全身の激痛を堪えていた。

「だいぶ派手にやったようだが、肝心の人美は仕留められたのか?」

「……ああ」

 それだけようやく短い返事ができた。

 龍登は満足そうな声をあげる。

「やるじゃねえか! しかも初めて殺したにしちゃ落ち着いている。お前、殺人鬼の才能あるぜ!」

「いや……」

 最後まで言い終えることはできなかった。激痛の波が再び高まってきたからだ。

 ついには腕にさえ力が入らなくなる。

「おい、どうした!?」

 しがみついていた龍登の背から腕が離れる。

 薄らぐ意識の中、義月は自分の体が猛スピードで走るバイクの後部座席から、振り落とされてゆくのを感じた。

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