第4話
次の休みの日、私としては珍しく昼前まで寝過ごしてしまった。
特別な予定があったわけでもないのだが、何となく損をした気持ちになった。いつもなら今くらいの時間にはもうショッピングモールのフードコートで参考書を開いているのに、と思った瞬間、難国Sの担当を外されたことを思い出して心臓がきゅっと締めつけられた。
別にあの授業を外されたからといって私の商品価値がゼロになったわけではない。もちろん今でも知識のメンテナンスは必要で、ちゃんと行うべきなのだが、寝坊をしたのも相まってか今日はどうしても参考書を開く気になれなかった。
花見さんからメッセージが来ていた。「担当交代のこと聞いたよ。俺もちょっとどうかと思うとこあるよ。藤田、大丈夫か?」と、花見さんが本気で心配してくれているのは分かるのだが、私としては正直言って傷口に塩を塗られた気分だった。悪いとは思いつつそのまま既読スルーした。
水道水をコップに注いで飲む。冷蔵庫がなくなってから数日が経つ。ぬるい水を飲むのにも慣れてきた。天気が良かったので洗濯を回すことにした。バサっとまとめて洗濯物を洗濯機に放り込み、洗剤と柔軟剤を入れてスイッチを押す。それでやることがなくなった。思えばショッピングモールに行かない休日なんて何年ぶりだろう。
仕事の時も含め普段この時間に家にいることがほとんどないので、明るい部屋はなんだか自分の部屋ではないどこか違う場所のように思えた。ベランダに続く大きな窓から透明な陽の光が部屋の中に差し込む。フローリングの茶色が私の知っている夜のそれとは違った。そういえば私はそもそも陽当たりが良いところが気に入ってこの部屋に決めたのだった。そんなこともうずっと忘れていた。
やがて洗濯が終わりベランダに洗濯物を干す。風も適度に吹いていて、この分だと夕方には十分乾くだろうと思った。洗濯物を干して部屋に戻るとまたやることがなかった。部屋の中は世界中の空白を詰め込んだかのように無音だった。今週、私は冷蔵庫に続きテレビも売った。だから今部屋の中で音を発することのできる物はスマホとパソコンくらいである。それとあと私か。その三つが何も言わない限りこの部屋はずっと無音だ。
パソコン。
そうだ、いっそもうパソコンも売ろうか。インターネットはスマホで見ることができるし、CDのインポートだって最近はしていない。仕事は予備校のパソコンでやる。じゃあもう要らないではないか、と一度頭によぎるとそこからは早かった。私はカシャカシャとパソコンを全方位から写真に撮る。鋭いシャッター音を浴びたパソコンは急に襲われた小動物みたく怯えているように見えた。だが許してほしい。これがサバンナのやり方なのだ。そして私はサバンナで生きていける人間だ。あなたを売ってそれをまた証明したいのだ。
パソコンを出品してスマホをテーブルに置きトイレに立つ。すぐにテーブルの上でスマホが震える音が聞こえた。まさかもう売れたのか、と思い急いで見に行ってみるとトリバイの通知ではなく普通のメッセージの受信だった。小野君からだった。まさか小野君も私の担当交代のことを知っているのか? と一瞬思ったがおそらくそれはないだろう。普段、担当講師の交代を事前に生徒に告知することはないし、そもそも小野君は私の授業を受講していない。
メッセージの内容は意外なものだった。「先生のこの前の友達、キューズってアイドルの人、なんか大変なことになってるよ」という文面の下にURLのリンクが貼られていた。いったい何の話だ? と思いリンク先に飛んでみると、「Quesの桜町未来、ロリータコスチュームでガールズバー勤務報道。所属事務所は桜町未来のグループ脱退、解雇を発表」という衝撃的な見出しが目に入った。非日常的な鋭い単語達に一瞬頭が追いつかず、私は「脱退」「解雇」と口に出して事の重大さを確認する。記事を読み進めると、どういう店で、いつから勤務していただとか、接客されたお客さんの声だとか(そこにはできる限りのいやらしい言葉が散りばめられていた)、そんなことが書かれていた。私は少なからずあかねさんを知っているので、記事に書かれていることは本人の悪気の有無は別にしておそらく全て事実だろうと思った。こういう芸能記事なんてだいたいは嘘や噂話だと思っていたのだが、ちゃんと本当のことを書いていることもあるのだ。記事の最後は「グループは来月に配信限定のシングル発売を予定している。現状このシングルの発売の可否について所属事務所は何も言及していないが、最悪発売中止の可能性もある。違約金の問題もあるが、グループとしてもこれからだという時にこの不祥事はあまりにも痛い」という言葉で締め括られていた。
私は記事のページを消してスマホをテーブルの上に置いた。いつかこんなことになるということはあかねさんだって心のどこかで分かっていたはずだ。
人が売れる物の絶対量に限界があるように、人が買える物の絶対量にも限界があると私は思っている。欲張っていろいろな物を買い込んで、結果全てを失ってしまうだなんてあまりにも馬鹿らしい。正直言ってあかねさんに同情の余地はないと思った。溜息をつく。小野君に「大変みたいだね」とだけメッセージを返し、トリバイで先程出品したパソコンのページをチェックする。いいね! はまだ一つも付いていなかった。
しかし夕方、やはり少なからずあかねさんのことが気になって、迷った挙句電話をかけてみた。意外? なことにあかねさんはすぐに出た。「もしもーし」なんて明るい声だった。
「報道見て、いろいろ大変なのかなって思って」
「へへ、無職だよ」
と、あかねさんは笑った。それは無理して笑っているというような感じではなく本心からの笑いに聞こえた。なぜ笑えるのか私には分からなかった。
「大丈夫ですか?」
「うーん。とりあえずお腹が空いたわね。今事務所の人に外出するなって言われてて、コンビニにも行けないのよね」
「食べるもの何もないんですか?」
「ないね。事務所の人が買ってくるとは言ってくれてたけど、癪だからいらないって言っちゃった」
「私、何か買って行きましょうか?」
「本当に? それは助かるわぁ。ありがとう」
それで私はスマホだけを手に家を出た。今日は自転車であかねさんのマンションを目指す。陽の長くなった夕方は夕方という感じがまったくしなかった。昼のようだった。それでも午後の暑さは霧が晴れるように少しずつ消え、夜にはきっと窓を開けて寝ると寒くなる程度にはなるのだろう。
覚悟はしていたが、あかねさんの部屋は相変わらず物で溢れていた。この前と同じ位置に通され、同じクッション。そしてこの前と同じようにコーヒーを勧められた。「あの、これ」と言って私はコンビニで買ってきたミックス弁当とパックの野菜ジュースが入ったレジ袋をあかねさんにわたす。何を買って行けばよいのか分からなかったので一番オーソドックスなものを選んだつもりだった。
「ありがとう。お腹空いて死にそうだったぁ。てか、マチちゃんはもう夕飯食べたの? コーヒー淹れちゃったんだけど」
「食べてないですけど大丈夫です。あまりお腹も空いてないんで。気にしないで食べてください」
「あ、そうなんだ」
別に気を遣わせないために嘘をついた訳ではない。本当にお腹が空いていなかったのだ。それにやはりあかねさんを前にすると少し緊張してしまう。
あかねさんは早速お弁当を電子レンジで温めて私の前で蓋を開く。食べ物の匂いがふわっと部屋の中に広がった。律儀にいただきます、と手を合わせたところで「あ、そうだ。お金まだだったね」とあかねさんは手を止める。私は別にいいですよと言ったのだが、あかねさんは譲らず、千円札を私に握らせた。
「本当に助かったわ」
あかねさんはよっぽどお腹が空いていたのか、それなりにボリュームのあったミックス弁当をあっという間に平らげてしまった。私は何と言えばいいのか分からず頷いてコーヒーを飲んだ。
「私、一応あのグループに五年属してたんだけどさぁ、終わるのは本当に一瞬だったわ」
そう言ってあかねさんは煙草に火をつけてくすくすと笑う。
「小さなネット記事よ。大々的に週刊文春とかフライデーみたいなメジャーな週刊誌にすっぱ抜かれたわけでもなくて。そもそも私そこまで知名度ないしね。そりゃあ、まぁ、若干ツイッターのトレンドには入ったけど、それもほんの一瞬の話で、流れ星みたいなものよ。だけど事務所的にはその流れ星を見た人が多いか少ないかってところじゃなくて、一人でも『いる』ってことが許せないのよね。まぁ、記事は残るからさ、分からなくはないけど。あの記事が出るって連絡が発信元から事務所に入ったのが午前十時で、午後一に呼び出されて、夕方にはもう脱退も解雇も決まってたからね。笑えるわよ。けっきょくメンバーにも一回も会ってないのよ。五年も一緒にやってきたのに」
あかねさんは誰か他の人の話をして笑っているかのように見えた。でも違う。それは紛れもなくあかねさん自身の話なのだ。
「何で笑ってるんですか?」
私は耐えきれずに聞いてしまった。
「え、だって笑えるくない?」
「笑えないですよ。あかねさん、今まで積み上げてきた物を全部失ったんですよ」
アイドルとしての商品価値を失ったんですよ、とまではさすがに言えなかった。でもそうなのだ。アイドルグループの一員としての商品、桜町未来はもういない。
「別に、そんなことはないよ」
「だって脱退で解雇なんですよね?」
「それはそうなんだけど、ほら、見てよこの部屋」
あかねさんはそう言って指でくるりと部屋の中をなぞった。見渡すとそこにはたくさんの物達が並んでいて、部屋の中心に座る私とあかねさんを囲んでいた。
「ね、脱退させられても解雇させられても皆変わらずここにいるでしょ。これらの物は全部、私。確かにキューズの桜町未来はもういない。それはもちろん私だって残念なのよ。でもあくまでそれは私の一部分の話。全部を失ったわけじゃない。私は私で今ここにちゃんといるし、空っぽになったわけでもなく、密度だって高いと思うよ」
あかねさんはそう言ってまた煙草に火をつけた。確かにこうして話していてもあかねさんはあかねさんで何も変わっていない。受ける印象としては、髪を切った後のような、爪の色を変えた後のような、そんなくらいの変化に近い。持っていた色を失っても本質は変わらずここにいる。
「何か一つの物に固執するなんて馬鹿馬鹿しいじゃない」
この前と同じ灰皿がテーブルの上には置いてあって、あかねさんはその上に灰を落とした。本当に何も変わっていない。
私は「明日は仕事なので今日は帰ります」と言って早々にあかねさんの部屋を出た。帰り道、自分とは思えないくらいの速度で自転車を飛ばす。遠くから誰かが誰がを咎めるクラクションの音が聞こえる。それは私に対してではない。でも無意識のにちに舌打ちをしていた。辺りはもうすっかり暗くて、私はとにかく一秒でも早く自分の部屋に帰り着きたかった。
扉を開くとそこには出掛ける前と同じままの私の部屋があった。あかねさんの部屋とは比べものにならないくらい物が無い。それはつまりあかねさんの理論で言うと私は空っぽな人間だということになるのか? 本当にここにある物達こそが私だと言うのか? 私は部屋の中を見回す。フローリングの上に直で置かれた電子レンジが目についた。これは三年前に家電量販店の決算セールで買った物だ。ではこの電子レンジは私自身か? いや、違う。これはただの電子レンジだ。それ以上でも以下でもない。ましてや私ではない。私であるはずがない。では私は、私とは、何だ。何なのだ。簡単だ。私は予備校講師で、数学の知識を生徒に伝える人。それが私だ。私はそれをひたすら売り続けることで証明してきた。トリバイにしても同じだ。「売る」ことこそ私が私である証明だった。物を買うことで自分を証明するなんて絶対に間違っている。
私は難国Sクラスの担当を外された。そしてあかねさんはアイドルグループを脱退処分になったうえに事務所まで解雇された。規模の大小はあれど、二人とも何かを失ったのは同じだ。なのになぜ、あかねさんはあんなふうに笑っていられるのか? 私は正直に言って、室長に担当交代を告げられた日からずっと苦しくて仕方がなかった。私は自分が何も売れなくなることが一番怖い。「何か一つの物に固執するなんて馬鹿馬鹿しいじゃない」とあかねさんは言っていた。私だ。それは私だ。私は「売る」ためにずっと自分を尖らせてきた(それはやはりいつか花見さんが言っていたミニマリストとは違う)。それ以外の私なんて私は知らない。何も売れない私は死んだも同然だ。死ぬ。サバンナでは生きていけない。喉が乾いて水道水を飲む。私は初めて泣いた。
俺、やっぱ予備校辞めるわ、と小野君から電話がかかってきたのはちょうど授業終わりの自動販売機の前、紙コップにコーヒーが注がれるのを待っている時だった。
「どうしたのよ、急に」
「ん、まぁ、ちょっと親とゴタゴタがあって」
「受験したくないって言ったの?」
「うん。そしたら両親ともに血相変えて大変だった」
血相を変えた、か。親としては正しいリアクションだと思う。まぁ、小野君は成績も良かったし期待をしていたのだろう。この流れで私も難国Sの担当を外されたことを言おうかと思ったがそれはやめておいた。
「参考書をトリバイで売ったこととかも全部話したよ」
「あぁ、そう。怒ってたでしょ?」
「怒ってた。そりゃそうだよね」
「まぁね。で、それで予備校辞めることになったの? なったっていうかそれって多分小野君の意思よね」
「うん。親が正式に認めたわけじゃないけど、俺はもう行くつもりはない」
「そう。それでこれからどうするつもりなの?」
「分からないけど、とりあえず高校はちゃんと卒業するつもり」
そう言われて初めて小野君はまだ高校生なのだということを思い出した。じゃあ何だと思っていたのだという話なのだが。
電話を切り、もうひと頑張り次の授業の準備(担当交代を告げられた後も私は変わらず授業に取り組んでいた)をして帰ろうと思っていたらまた電話がかかってきた。今度はあかねさんからだった。
「マチちゃーん。お疲れ様。まだ仕事中?」
相変わらずの明るい声だった。外からの電話のようで、後ろで車が走る音が聞こえた。
「授業は終わりましたけど、まだ職場です。どうしたんですか?」
「実は家追い出されちゃってさぁ。あのマンション、事務所の契約だったのよね。で、解雇されたからいられなくなっちゃって」
「はぁ」
「とりあえず今マチちゃんの家向かってるんだけどさぁ。何時くらいに帰ってくる?」
「え、二十二時半くらいには帰れると思いますけど」
「そっか。じゃとりあえず家の前で待ってるわ。仕事頑張ってー」
それだけ言ってあかねさんは電話を切った。私の家の前で待つ? わけが分からない。
とりあえずやろうと思っていた授業の準備をしようと思ったのだが、あかねさんのことが気になって上手く仕事に集中できなかった。けっきょく、三十分頑張ったが私は仕事を諦めた。急いで家に帰ると私の部屋のドアの前に大きなスーツケースが置いてあった。近づいてみるとそれは二つあって、その間にあかねさんが座り込んでいた。「お疲れ様」と私を見て笑う。少し疲れているように見えた。
「大丈夫ですか?」
「うん。まぁ、とりあえずさ、ご飯食べない?」
そう言ってあかねさんはコンビニのレジ袋に入ったお弁当を私に差し出した。私は戸惑いながらもそれを受け取る。中には唐揚げ弁当が二つとこの前私が買ってきたものと同じ野菜ジュースが二つ入っていた。
「え、ここに住んでるの?」
私の部屋に入ったあかねさんは悲鳴に近い驚きの声を上げた。
「そうですよ」
「だって、冷蔵庫は?」
「無いです。その都度食べる物買って食べるんで保存しておく必要ないですし」
「でもテレビとか」
「無いですよ。見ないですから」
「いったいどんな暮らししてんのよ」
あかねさんは驚きで口が開いたままになっていた。でもお互い様だ。私もあかねさんの家に初めて行った時は相当驚いた。電子レンジも売ってしまっていたので、私達はお弁当を温めずにそのまま食べた。あかねさんの持ってきた二つのスーツケースは部屋の隅に置いていた。その大きさは異様な威圧感があって、まるであかねさんのボディーガードが二人部屋の隅に立っているようで落ち着かなかった。
「単刀直入に言うけど、しばらくここに置いてもらいたいのよ」
あかねさんがそう言ったのは二人ともお弁当を食べ終わり一息ついた時だった。
「ここにですか」
と、言いつつ何となくそんな予感はしていた。
「そう、ここに。お願い。次に住む場所が決まるまででいいから」
「でも、狭いですよ」
なぜか最初にそんな言葉が出た。もっと他に言うべきことがあるような気がするのだが。
「別に私はそんなこと気にしない」
「そうですか。で、あれば、まぁ」
と私が言うと、あかねさんは「わあ、ありがとう」と言ってテーブルの上を乗り出して私を抱きしめた。いい匂いがして、頭が一瞬くらっとした。今日からよろしくね、と耳元であかねさんの声がして私は壊れた人形のようにこくこくと頷いた。
ただ、私としてはいろいろと現実的な心配もあった。何せ私の家には物がない。最低限(おそらくあかねさんにとっては最低限の基準よりもはるか下)の物しかない。別にそこに対して何の文句を言われる筋合いも無いし、別に言わないと思うのだが、現実的にベッドは一つしかないし、今やコップだって一つしかない。そのことをあかねさんに伝えると、「あぁ、心配しないで」と言って部屋の隅からスーツケースを持ってきてその中から毛布やらマグカップやらを取り出してテーブルの上に置いた。「とりあえず必需品は持ってきたから」と言って笑うのだが、その量がまた尋常じゃない。毛布はキティちゃんとキキララが一枚ずつで計二枚、マグカップなんて一つあれば事足りるのに不思議の国のアリスの五つセットのものをまるまる持ってきていた。
あかねさんはそのままの勢いでスーツケースの中身をどんどんテーブルに出していく。机の上はあっという間に物でいっぱいになってしまったのだが、それでもまだ一つ目のスーツケースの半分程度の量だった。
「スーツケースに入りきらなかった物はいったん貸倉庫に預けてるのよ」
その言葉を聞いて私は嫌な予感がしたのだが、その予感は見事に的中してしまう。
次の日から毎日あかねさんはスーツケースを使ってその貸倉庫から私の部屋に物を運んできた。
仕事から帰ると朝と比べて明らかに部屋の中の物が増えている。「おかえり」と明るい声で出迎えてくれるあかねさん。その日によってご飯を作ってくれていたり買ってきてくれていたりした。昨日までは無かった冷蔵庫から冷たいジュースを取り出して、初めて見るガラスのコップに注いでくれた。「揚げ物はレンジで温めるよりオーブンでやる方がカリッとしていいよ」とスーパーのお惣菜の唐揚げをレンジではなくオーブンで温める。ついこの間までそんなものはどちらもなかった。
気付いたら三百六十度どこを見てもぬいぐるみに囲まれていた。壁にはポスターが貼られ、フローリングの床には肌触りの良いカーペットが敷かれている。洗面所には大量の化粧品が所狭しと並べられ、まるで映画の中の世界のようだった。タオル掛けにはいかにも性能の良さそうな大きなドライヤーが掛けられていて、私の元々持っていた小さなドライヤーは端っこに追いやられていた。不憫だった。一週間も経たないうちに私の部屋はあかねさん色に染まっていた。
「わ、どしたのこれ?」
と、日曜日の午後にふらっと遊びに来た小野君は部屋を見て驚いた。
驚くのも無理はない。前に小野君が見た私の部屋とはギャップがあり過ぎる。その時、私達はあかねさんが午前中に貸倉庫から持ち帰った荷物の荷解きをしていた(私は別にこの状況を受け入れていたわけではないのだが、目まぐるしく搬入される物達に頭が付いていけなくて、あかねさんに言われるがままに物を指定される場所に並べていた)。
「あ、いつかの受験生」
あかねさんは髪を頭の上で括り、白ティーシャツ、下はアディダスのハーフパンツというラフな格好だった。
「確か、あの、キューズの……」
「もうクビになったけどね。あなたも手伝いなさい」
と、言われなぜか小野君まで巻き込まれる。
ドンマイ、小野君と思っていたのだが、意外と小野君は楽しそうだった。
「これ、懐かしいね」
と、小野君はポムポムプリンのぬいぐるみを見て笑う。
「若いのにそんなの知ってるんだ」
「うん。小さい頃テレビで見てた」
「うそ。テレビでやってたんだ」
と、なんだか二人は楽しそう。考えてみれば、小野君は今いろいろな物に触れていろいろなことを知りたい時期で、一方のあかねさんは尋常じゃないくらいたくさんの物を持っている。ぴったりではないか。
その日以来、小野君も頻繁に私の家に来るようになった。毎日仕事から帰ると、二人してたくさんの物に囲まれて笑っていた。「おかえり」と二人は言ってくれるものの、もはや私の部屋は私の部屋であって私の部屋ではなくなっていた。
部屋の中は宇宙のようだった。私は寝ても覚めても小惑星に囲まれて宇宙空間を漂っているような感じがして、気持ちがまったく休まらなかった。
「マチちゃんて、本当に仕事大変なのね」
と、言ってあかねさんは二十三時に帰ってきた私に自作の野菜炒めを出してくれた。あかねさんの料理は意外と美味しい(失礼な言い方だけど)。塩と胡椒しかなかった台所にも今や様々な種類の調味料が置いてあって、おそらくあれを上手く組み合わせて料理をしているのだろう。ご飯だって美味しい。私は長年パックのご飯かコンビニ弁当のご飯しか食べていなかったのだが、炊飯器(しかも釜炊き)で炊くご飯がこんなに美味しいものだとは思わなかった。
「そんなに頑張って身体壊さないの?」
と、二十三時にもかかわらずまだ小野君もいる。ポチャッコのぬいぐるみを手で遊んでいた。普通に考えて高校生がフラついていていい時間ではないのだが、二人があまりに楽しそうなので私は注意することができなかった。
「大丈夫。何とかやってますよ」
私はそう言って野菜炒めを食べる。やっぱり美味しい。カップ麺やコンビニ弁当より格段に美味しい。
「あんまり無理しちゃダメよ」
「そうそう。身体が資本だからね」
なんて二人は毎日帰りの遅い私の身体を心配してくれる。確かに担当交代まであと二週間で、私は以前にも増して授業の準備に力を入れていた。
深夜一時、小野君がそろそろ帰るよ、と言って立ち上がり、同時にあかねさんもコンビニで荷物を受け取って来るね、と言って、二人揃って部屋から出て行った。それで一気に部屋の中が静かになる。でもうるさかった。見渡すといろいろな物がある。私は何だか、自分があかねさんの身体の中にいるような感覚を覚えた。私もあかねさんの一部になったよう感覚。実際、もうすでにそうなのかもしれない。こうやって黙って座っていると私もぬいぐるみ達も何も違いがない。そんなことを思った。少し疲れていた。
その二日後、二人の心配は現実のものとなってしまう。私は高熱を出して倒れてしまった。
授業がある日の朝、いつも通りの時間に起きたのだが、どうも身体がだるい。食欲もまったくなくて、額に手を当てると熱かった。悪いとは思ったのだが、まだ眠っているあかねさんを起こして体温計を持っていないかを聞いた。思っていた通りあかねさんは体温計を持っていて(セーラームーンの柄だだった)、測ってみると三十九度も熱があった。
「うわー、言わんこっちゃない」
と、あかねさんは顔を顰めた。私は体温計に表示された数字を見てドッとしんどさが増し、何も言い返すことができなかった。
最近は新型ウイルスのことがあるので熱があるのであれば職場に行ってはいけないことになっている。さらに解熱後一週間は自宅待機をしなければならないことになっていた。担当交代まで授業数も残り少ない。無念ではあったのだが、ルールはルールなので私は泣く泣く室長に欠勤の連絡を入れた。
私は本当に泣いていた。商品を送る準備は完璧なのに、発送ができないというのは悔しいことだ。室長は無理するなよ、と優しい言葉をかけてくれたが、念のためPCR検査だけは受けておいてくれ、と現実的なことも言っていた。PCR検査か、それは確かにそうである。
「病院、行かないと」
私は絞り出すような声であかねさんに言った。
「ちょっと、フラフラじゃない。大丈夫なの? 付いて行くよ」
「いや、大丈夫です。うつしたら悪いですし。タクシーだけ呼んでもらえますか?」
「えー。本当に大丈夫?」
あかねさんがそんなに言うのだから私は相当しんどそうに見えるのだろう、と少し客観的なことを考えられるくらいの思考的余裕はあったものの、身体は本当に重く、生暖かい固まりとなってベッドに沈んでいた。その後もあかねさんは何度も付いて行くと言ってくれたのだが、けっきょく私はそれを断って一人でタクシーに乗り、最寄りの病院に行った。行ってみて分かったのだが、今は風邪症状の診察の場合、事前の連絡が必要らしかった。私は病院の外で待たされ、同居者に同様の症状を持つ人がいないかや、この二~四週間の間に渡航歴がないか等、形式的な質問を受けた。その間、私の具合はどんどん悪くなっていた。唯一救いだったのがその病院が検査実施可能な機関だったこと。私は少し待たされた後、無事その病院でPCR検査を受けることができた(検査実施をしていない病院だったら違う病院を案内させられるようで、考えただけでもゾッとする)。結果が出るまで二~三日かかるらしい。それまでは自宅で安静にしておくように言われたが、家にはあかねさんがいる。
それで私は、数駅先にあるビジネスホテルの予約を取った。重い身体を引きずり、もう一度タクシーに乗る。後部座席に沈み目を瞑った。これは多分、新型のウイルスなんかじゃない。何故だか確信的なところがあった。
おそらく私は物に酔ったのだ。いきなりあまりにも大量の物に囲まれて身体がそれに追いつかなかったのだ。だから発熱してしまったのだろう。
ビジネスホテルにチェックインをして、とりあえずあかねさんに連絡を入れた。
「大丈夫? どうだった?」
「無事検査は受けられました」
「あぁ、良かった。結果はすぐには出ないの?」
「数日かかるみたいです。なのでしばらくはホテルで自主隔離します」
「ホテル?」
あかねさんは驚いた声で言った。
「ホテルです。まぁ、安いビジネスホテルですよ」
「え、それなら私が出るからマチちゃんは家でゆっくりしなよ」
「いえ、大丈夫です。もうチェックインしましたから」
あの部屋に戻ってもおそらくゆっくりなんてできない。私はまた連絡します、と言って電話を切った。掛け布団がピチッと固定されたシングルベッドに腰掛けて部屋の中を見回してみる。小さなテレビと冷蔵庫、一人用の机と椅子。それだけだった。当たり前だが、ここにはぬいぐるみもマグカップもない。でもその何もなさが久しぶりで懐かしかった。
二日後には熱も平熱まで下がり、身体のだるい感じもかなり抜けた。二日間、汗をたくさんかいた。着替えは近くにあったユニクロで買って、毎日浴室で洗濯をした。食欲もだんだん出てきて、ビジネスホテルの下にあるコンビニでお弁当やカップ麺を買って部屋で食べた。買い物に出る僅かな時間を除いて、私はほとんどの時間をホテルの部屋で一人で過ごした。それは何も無い部屋で何もしない、ただただ空白なだけの時間だった。
PCR検査の結果は陰性で、思っていた通り私の体調不良は新型ウイルスによるものではなかった。違うとは思っていたが、正式に結果が出て安心した。万が一陽性だったら大事になっていた。そして、この場所にきて順調に回復しているところを見ると、ほぼ間違いなく原因は「物酔い」だと私は確信した。
シングルベッドに横たわりくすんだ天井を見上げる。とりあえず熱が下がって良かったと思った。出勤が許されるのは解熱から一週間後なので、この分だとギリギリ担当交代前の最後の授業には間に合う。
陰性なことが分かり熱も下がった今、もはやこのビジネスホテルに留まる意味はない。でも私はどうしてもここを出て自分の部屋に戻る気にはならなかった。あかねさんも小野君も度々連絡をくれて、「まだ帰ってこないの?」と聞かれたが、その都度私は「まだちょっと調子が悪くて」と言って誤魔化した。
ここは何もないから落ち着く。あかねさんの来る前のかつての私の部屋と似ていた。
私は、やはり人生は引き算だなと思った。自分の持っている物を売って、売って、それで自分という存在が浮かび上がる。トリバイで持っている物を売る、予備校で私の数学の知識を売る(ただし、数学の知識は無形物なのでいくら売って引かれ続けようとも無くならない。それは、私の中に海のようにあるから)、それの繰り返しこそが人生だ。そうやって自分の存在意義が生まれるのだ。そう考えると、部屋がシンプルになるのは当たり前のことだと思う。
足し算こそが人生だなんて考えはやはり間違っている。どんなに物を買って積み重ねても、それはただ積み重ねただけで、結局はそんなものは形に過ぎない。大事なのは売ること、送ること。シングルベッドの上、固いシーツに包まりなぜだか笑えた。久しぶりに私が私になれたような気がした。
「そんなんじゃサバンナで生きていけないぞ」
アスファルトの小石のとげとげの上にうずくまった私の斜め上からお父さんのあの言葉が聞こえる。「痛いよぉ」と弱々しい言葉を吐くのは小二の私。秋の日だった。
お父さんは「まったく」とつぶやいてそんな私を背中におぶった。お父さんの腰から私の二本の足がにゅっと伸びていた。膝から血が出ているのが見えた。
「血、出てる」
「これくらい大丈夫だ」
お父さんはそう言ってゆっくりと歩き出した。夕暮れ時、どこからか夕飯の、胡麻油の匂いがかすかにした。一歩一歩と歩みを進める度に身体が上下に揺れる。心地よいが、お父さんのシャツに血が付いてしまわないか気になった。
「お父さん、サバンナってどんなところなの?」
「そりゃあ厳しいところだよ。実千、弱肉強食って言葉を知ってるか?」
「ううん。知らない」
「まぁ、つまりは弱い動物は強い動物に食べられてしまうということだよ」
「ふぅん。じゃあ、サバンナには強い動物しかいないの?」
「いや、それはそういうわけじゃない。ちゃんと弱い動物だっている」
「え、何で。だって弱いと食べられちゃうんでしょ」
「まともにいくとな。でも弱い動物だってただ黙って食べられるわけじゃない。ちゃんと考えて、どうやったら強い動物に食べられずに生きていけるかを考えるんだ。弱肉強食ってのはそんなに単純なものじゃない。弱くても賢い動物はちゃんと生き残れる。だからそう考えると、弱くても賢かったら強いんだよ、ある意味。要は生きるために何を身につけるかということなんだよな」
と、お父さんは自分で言って自分で納得していた。その時の私はお父さんの言葉を半分くらいしか理解できていなかった。
「同じだよ。サバンナも、実千が生きていくこの場所も。厳しいのは一緒だ。だから転んでも立ち上がって、次はどうしたら転ばないかを考えればいい。それはけっきょく、どうやったら生きていけるのかを考えるのと同じだから。生きればいいんだよ必要な物を必要なだけ身に付けて」
その話をした時、お父さんはいったいどんな顔をしていたのだろう。私は背中に顔を埋めていたから分からなかった。深い深い、そして遠い記憶。
深夜に唐突に目が覚めた時、「ここは私の部屋ではない」ということを強烈に感じた。
スマホを見るとまだ午前三時で、当然あたりは真っ暗だった。明日は職場復帰の日だ。担当交代前の最後の授業がある。
もう一度眠ろうと思って布団を被ったのだが上手く眠れなかった。寝返りを打った時に自分がびっしょりと汗をかいていることに気づいた。そして、どうにも消せない「ここは私の部屋ではない」という強い感覚。窓の外、遠くから差す月明かりに無機質な部屋が照らされていた。違う。ここは私の部屋ではない。簡素で、物がなくて、かつての私の部屋によく似ている。でも違うのだ。ここにある物は何一つ私の物ではない。売りたい。でも売れない。私はここにある物を売ってはいけない。ここには私が私を証明できる物は何一つなかった。
私はこんなところで何をしているのだ? と思った。こんな気持ちの悪い部屋に閉じこもって何をするつもりだったのだ? 私は、どんなに辛くとも自分の部屋に戻るべきだったと後悔した。熱が出たせいでもう一週間も授業をしていない。それに明日の授業をもって難国Sの担当も外される。トリバイにしてもそうだ。あかねさんが来てからは何かとばたばたしていて最近は何も出品できていなかった。私はしばらく自分が何も売らずに生活していたことに気づきゾッとした。
よろよろとベッドから立ち上がる。何かを売りたい。しかし何もなかった。売れる物など何もなかった。悔しくて涙が出てきた。
私は苦肉の策でスマホからスマホケースを外してその写真を撮った。「二年前に購入した物です。多少傷があります」と、苦しい商品紹介しか浮かばなかった。実際のところ私が使っていたスマホケースは特に珍しい物でもなく、購入以来ずっと使っていたから綺麗でもない完全な中古品だった。自分でもこれが誰かに売れるとは思えなかった。それでも送料もあるので八百円で出品をしたのだが、思っていた通りまったく反応は無かった。売れ筋の商品ならば、たとえ深夜であろうと出品するとすぐに閲覧数が伸び、いいね! が付いて場合によっては売れる。しかし私のスマホケースはいいね! はおろか、閲覧数も3で止まっていた。気持ちが落ち着かなかった。それどころか心の中はさらに混沌として、吐いてしまいそうなくらい気持ちが悪かった。
私は着ていたパジャマを脱いで布団を外したベッドの上に並べた。このパジャマはここで生活するにあたり近隣のユニクロで買った物だ。人型に並べたパジャマはどう見ても私の抜け殻で、下着姿になって写真を撮っているとまるで脱皮したかのような気持ちになった。「購入後、数回しか使用していません。特に目立った汚れはありません」こちらも八百円で出品したがスマホケースと同様に反応は無かった。もうこれ以上売れる物はなく、私はカーペットの床に座り込んでしまった。
売れないことがこんなに辛いと思ったのは初めてだった。売れない物に価値は無い、とすると今の私には価値が無いということになる。必死に身につけてきた数学の能力も、トリバイのテクニックも、売れないのならば何も意味がない。では私とは何だ。存在意義の無い私が今ここに存在しているとはどういうことなのだ。肉体は、ある。確かにある。冷蔵庫から水を取り出して一口飲んだ。冷たい水はやはり美味しかった。もう一度ぬるい水道水に戻るのは少し難しいことなのかもしれない。そんなことを考えながら写真を撮るためにつけていた部屋の明かりを消すと、月明かりが優しく私を照らす。それは嫌味なくらいに優しい光だった。部屋の壁に付けられた全身鏡に下着姿の私が映っていた。情けない顔、情けない身体だった。私はブラジャーを外しパンツも脱いで裸になる。生まれたままの姿の私がそこにあった。
いや、違う。生まれたままでは決してない。微弱ながらも私の胸はかつてはこんなふうに膨らんではいなかった。陰毛なんてものは子供の頃には無かった。学生時代の頃と比べると少し痩せた。髪がだいぶ伸びた。思えば忙しくてしばらく切りに行っていなかった。そしてこの身体の中には私が苦労して手に入れた数学の知識が詰まっている。トリバイのテクニックもだ。生まれたままだなんてとんでもない。多くの足し算と引き算が繰り返されたうえで今の私が成り立っているのだ。気が遠くなるほどに膨大な計算式の果て。導き出される私という値。思えば、それはどう考えても引き算だけでは成り立たない値だ。そしてそれはまだ計算の途中なのだ。
そっと鏡の中の自分に触れてみる。
「もう一度サバンナへ帰ろう」
私は鏡の中の私に向けて小さくつぶやいた。
けっきょくその晩はそれから一睡もできなかった。私は午前十時にビジネスホテルをチェックアウトした。外の世界にちゃんと出るのは九日ぶりだった。ホテルから直接予備校へ向かおうと思い、仕事用の服を昨日あらかじめユニクロで買っていた。コットン生地の柔らかいビジネスシャツ。太陽の光を吸って白く輝く。肌触りが良かった。
予備校までは電車で二駅だった。私は久しぶりに電車に乗った。普段はずっと自転車行動なので、電車に乗るなどいつぶりか分からないくらいだった。昼間の電車は意外と混んでいた。噂には聞いていたが皆マスクを付けていて、換気のために開けた窓から風が入ってきてバサバサとうるさい。
悪気はなかったのだか、横に立つお爺ちゃんのスマホの中のメール文面が見えてしまった。「きゅうりは五本買ったので買わなくていいよ」。大丈夫、ちゃんと世界は平和だ。何人家族なのかは分からないが、五本もあればきゅうりはこれ以上買わなくてもいいと私も思う。
予備校の下で偶然花見さんと鉢合わせた。
「もう体調は大丈夫なのか?」
「ええ、もうすっかり」
「その割にはなんか目の下のクマすごいぞ」
「昨日ちょっと眠れなくて」
私は泣き腫らした顔を見られるのが嫌で、誤魔化すように目を逸らした。エレベーターが私達の前で開く。
「あんまり無理すんなよ」
「はい。あ、今日で最後なんですよ難国S」
「おう。そうだよな。何だ、もっとヘコんでるのかと思ってた。藤田、けっこうプライドあるじゃん。数学に関しては」
「そりゃあヘコみましたよ」
確かに私はヘコんでいた。今はなんだかそれを素直に認められる。
「何か、ふっきれたみたいだな」
「ですかね?」
事務所にいたほとんどの人が大丈夫だった? 検査ってどんななの? と私に声をかけてきた。身体が丈夫な人が多い予備校なのか、ウイルス騒ぎになってからのこの一年、生徒も教師も誰一人体調を崩す人はいなかった(少なくとも騒ぎになるような人は)。なのでみんな物珍しかったのだろう。私は笑顔でそれらの言葉を躱した。頭はもう完全に数学モードだった。久しぶりに数式に触れる。アドレナリンがあたたかい源泉のように脳内で湧き出る。私は数学が好きなのだ。売るとか、それ以前にまず好きなのだ。そんなことを思うのは初めてだった。
その日の授業は完璧だった。多分、今までの講師人生の中で最高の出来だった。説明のリズムも良かったし声も出ていた。至福の時間だった。これが、これこそが私のやりたかったことなのだなと思いながら授業をしていた。良いところで質問が飛び、上手い具合に詳細説明をしたかった部分へと繋がる。私が作った別途資料で知識の補足を行い、授業の最後に行った理解度を測る小テスト(これも私が作った)で、自分の知識が上手に生徒達に伝わったことをちゃんと確認できた。
売れた。感無量だった。
授業終わり、気がつくと生徒達が皆私を見ていた。生徒達も素晴らしい授業に感動してくれているのかと思ったが、違う。私は「売れた」という事実にホッとして、チャイムが鳴ったのに授業の終わりを宣言していなかったのだ。だから皆、終わっていいのかどうか分からず私を見ていたのだ。
正直言って授業を終わらせたくなかった。このままずっと続けていたかった。でもそういうわけにもいかず、とりあえず生徒達は皆私の一言を待っているので、私が何かを言わなければならなかった。
「えー、お疲れ様です。あの、私は今日でこの予備校を辞めます」
私の言葉に生徒達はざわついた。私自身も自分の言葉に驚いた。そんな思いで今日、教壇に立ったわけではなかった。しかし、まぁ、それも悪くないかなとも思った。それくらい今日の授業の出来には満足がいっていた。やり切った思いがあった。
そんな簡単に捨ててしまっていいのか? と思うところもあったが、口に出してしまったものは仕方がない。こうなったらもう、今思っていることを全て正直に言ってしまおうと思った。
「とにかく、私は今日でこの難国Sを受け持つのは最後です。来週からは豊橋先生が授業をします。これは、えーと、私としては非常に不本意なことでした。あ、でもだからと言って辞めると言ったわけではないです。そこは別にネガティブな思いからではないので、あの、大丈夫というのもおかしいですが、大丈夫です。話を元に戻すと、多分単純な数学の知識だけでいうと私の方が豊橋先生より上だと思います。別に豊橋先生がダメだと言っているわけではないですよ。豊橋先生は良い先生です。ただ、数学では私の方が上だという話です。じゃあ何で私は担当を外されるのか、それは授業とは全然別の話で、まぁ、中にはご存知の方、というか現に私のそういうところが気に食わないと予備校に訴えられた方もいると思うので分かると思いますが、要は授業外での振る舞いです。あ、別に告発した人を責めているわけではないですよ。間違っているとは思いませんし、私だって本当は分かっています。そりゃあ授業外でも相談に乗ってくれる講師の方がいいですよね、どう考えても。でも、私にそれはできなかった。やりたくもなかった」
生徒達は皆、シーンとして私の話を聞いていた。意外なことに誰一人として私を笑わなかった。私は続ける。
「今になっても、私はどうしてもあなた達の進路になんて興味を持てない。別に、誰がどんな大学に行こうと正直言ってどうだっていいです。もちろん受かってほしいとは思っています。でも、基本的に私が考えていることは需要と供給の成り立ちだけです。分かります? あなた達は大学に受かりたい、そのために試験に必要な数学の知識が欲しい、そして私はそれを持っている、あなた達に供給することができる、だから売る、あなた達はお金を出して買う。これが需要と供給の成り立ちです。あなた達がどんな大学に受かってどうなりたいかなんてことは関係ない、でも欲しいのなら売ります。私は精一杯、全身全霊をかけて売ります」
私の熱弁に生徒達は皆ポカンとしていて、誰も席を立たなかった。
「何にかは知りませんが、各自、私が売った知識を上手く使ってください。行きたい大学に合格して、なりたい自分になってください。そして要らなくなったらどうぞ捨ててくださっても構いません。脳のメモリーは限られていると思うので不要な知識となるのであれば忘れてください。まぁ、物は今や簡単に売れますけどね。それは参考書とか、教材的なのは。そういう物は捨てるくらいならトリバイで売ったらいいですよ。これは余談ですけど。あの、もちろん、大学受験が終わっても、私が売った知識を使ってくださるのであればそれに越したことはありません。この中に、科学者になりたい方はいらっしゃいますか? お医者さんとか、別に経理でも、私みたいな数学教師でもいいです。私が売った知識を使って、今度はあなた達が何かを売ってくだされば、それはとても素敵なことだと思います。人生は、何かを買って何かを売ることの連続です。恐れずにどんどん買って買って、売って売って、自分を形成していってください。その結果、割と理想に近いはずの『あなた』という人間が出来上がるはずです。お互い頑張りましょう。ありがとうございました。またサバンナでお会いしましょう」
私はそう言ってそのまま教室を出た。途中、室長とすれ違い、何か私に言いたいことがあるかのような顔をしていたが無視してそのまま通り過ぎた。事務所に戻り、自分の鞄を持ってそのまま教室を後にした。エレベーターを降りて外に出ると、気持ちの良い夜の風が吹いていた。
「あ、やっと出て来た」
聞いたことのある声だと思い見てみると、ロータリーにあかねさんがいた。小野君も一緒だった。なぜか二人は車に乗っていた。見たこともない車だった。
「何してるんですか?」
「何してるじゃないわよ。マチちゃん、昨日から連絡途絶えてたから心配したのよ」
「すみません」
そういえばメッセージも電話ももらっていたのに返していなかった。
「今も何回も電話してたんだよ」
と、小野君が言って、スマホを見ると確かに二人から大量の着信が入っていた。「まぁ、とりあえず乗りなよ」と、運転席のあかねさんが言う。私は言われるがままに後部座席のドアを開けてギョッとした。後部座席には座席はもちろん、床までびっしりとむちむちした植物が並べられていて、詳しくは知らないが「熱帯雨林」という言葉が頭によぎった。
「なんですかこれ」
「何って、多肉植物よ。ホームセンター行ったらたまたま多肉植物の特売してて。一目惚れして買っちゃたの」
「一目惚れって」
またすごい量だ。
「あ、てかゴメン座るとこないね」
と言ってあかねさんは運転席から降り、いくつかの多肉植物を後部座席からトランクに移して私の座る場所をギリギリ作ってくれた。
「この車はあかねさんの車なんですか?」
私は動き出した車の中で尋ねる。
「いや、うちの姉貴の車」
と、助手席に座る小野君が言う。
「そんなの使っちゃっていいの?」
「いいの、いいの。姉貴、たまにしか乗らないし」
そういう問題なのか? と思ったが言わなかった。
「どこを目指して走ってるんですか?」
「回転寿司でも食べようかなぁ、って二人で話してて」
「回転寿司ですか」
私がいない一週間で二人はまた、より仲良くなっているようだった。回転寿司は、少し食べたい。
「そういえば私、予備校を辞めました」
言ってみた。「うそ、何で?」と、小野君は驚いていたが、あかねさんは別に驚いた様子はなく、深くも聞かなかった。
まぁ、しかし冷静になって考えてみると、正式な退職の手続きを何も踏んでいない。あんなふうに言ってしまったが、本当に辞められるのだろうか? でも今更引くのはカッコ悪い。
「長い人生そんなこともある。大丈夫よ。マチちゃんはマチちゃんなんだから。こうして私達もいるんだから」
と、あかねさんは交差点、ハンドルを右に切りながら言った。ゆっくりと車が曲がる。確かに私は私なのだ。予備校講師でなくともちゃんと私だ。
「退職祝いにその中から一つ、好きなのを選んでいいよ。あげる」
と、言ってあかねさんは前を見たまま後部座席の多肉植物を指差した。それで私はたくさんの多肉植物の中からアロエを一つ手に取った。ムチムチしていて可愛いアロエだった。膝に置いてじっくりと見てみる。
「あかねさん、これ買います。いくらでした?」
「え、いいよ。あげるよ。退職祝いだって言ったじゃん」
「買いたいんです。今は気分的に」
「何よそれ」
と、あかねさんは笑う。
車はやがて回転寿司の駐車場に入り、私はちゃんとあかねさんにアロエの分のお金を払った。あかねさんは不本意そうな顔をしていたが、しぶしぶそれを受け取った。必要と差し迫られている物意外で何かを買うのは随分久しぶりのことだった。
さぁ、食べようか、と言ってあかねさんが車を降り、私と小野君もそれに続く。夜の闇に回転寿司の看板が明るかった。
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