第3話
電車とバスを乗り継いで二時間弱。私は半年ぶりに帰省していた。実家の最寄りのバス停は路線の終点で、私が乗ってきたバスは寂れたロータリーでぐるりと旋回し再び駅の方向へ戻って行った。緑の匂い。ここまで来ると実家はもう目と鼻の先である。
私の実家。最寄り駅の駅前はそれなりに栄えているのだが、そこからバスでさらに二十分くらい行ったところにあり、そうなるともう「田舎」と言っても良いような光景になる。住宅と畑が三対七くらいの比率であり、辺りは山や川に囲まれている。「となりのトトロ」ほどとまではいかないが、雰囲気的には近いものはあった。良く言えば緑がたくさん、悪く言えば何もない。それは人それぞれの捉え方である。ただ、バスで二十分行けば街に出られるのでそこまでの生活の不自由は無く、普通にここから働きに出ている人もたくさんいて、少し田舎なベッドタウンという感じだった。
インターホンを鳴らすも何故か返事は無くて、勝手に玄関の引き戸を開けるとお母さんと鉢合わせた。ちょうど向こうも戸を開けようとしていたところだったようだ。お母さんに会うのは半年ぶりだったが見た感じ何も変わっていなかった。それは多分お互い様なのだが。
「どうしたのよ? お正月以外に実千が帰ってくるなんて珍しい」
「まぁ、ちょっとね」
靴を脱いで玄関を上がると懐かしい実家の匂いがした。それは古い木造住宅の匂い。もう何十年もそこに敷かれている絨毯の足の裏の感触だとか、実家はその全てが安心感に満ちていた。
「今日は泊まっていくんでしょ?」
「うん。明日帰るつもり」
襖が開いたままの居間でお父さんが横になってテレビを観ているのが廊下から見えた。休みの日に家にいるなんて珍しい。相変わらずの大きな身体。横になったその様子は冬眠から明け切らない熊のようだった。「よぉ」と言われて何となく隣に座る。「元気なの?」と、私はとりあえず定型文みたいな挨拶をした。「まぁ、まぁ、だな。最近腰がちょっと痛いけど」とお父さんは欠伸をして言う。
「それはゴルフのやり過ぎよ」
お父さんは私が学生の頃から仕事関係プライベート関係を問わず年中ゴルフにばかり行っていた。今日家にいるのが奇跡的なくらいだった。
「お前は仕事は順調なのか?」
「まぁ、順調だよ」
すぐに「まぁ」なんて言って言葉の輪郭をぼやかすのが私の癖だということに最近気付いた。本当は昨年度の大学合格率もまずまずで、仕事の調子は良かった。でもそれをストレートに言ってしまうのはどこか照れ臭さがあった。
「良いことだ。教師なんてのも最近は大変な仕事だろ。親も変な奴が多いし、生徒に手でも上げたらすぐに大問題だ」
「うん。でも、お父さん。私前にも何度も言ったけど、教師じゃなくて予備校講師ね。だから基本的にそんなややこしい問題は無いよ。ただ数学を教えるだけの仕事だから」
「とはいえ教師は教師だろ」
この前、小野君ともこんな話をしたことを思い出して溜息をつく。どうもみんな理解してくれない。
二階に上がり自分の部屋のドアを開けると久々の主の帰省に驚いたかのように封じ込められていた空気がもわっと溢れ出した。畳の匂い、とりあえず窓を開ける。それで私は早速物色を始めた。
今回の帰省の理由は実はここにあった。私は何か「売る物」を探すためにわざわざ実家まで帰ってきたのだ。自分の家にある要らないものはもう大方売ってしまった。でも何かを売りたいという熱は依然として冷めず、しかし売るために何かを探して買うような間違ったことはしたくなかったので、そうなると実家で眠っている物を発掘して売るという選択肢しかなかったのだ。
勉強机の引き出しを開ける。予想はしていたが大したものは入っていなかった。半分くらいの長さになった鉛筆、色褪せた高校の行事日程のプリント、自分でも引いてしまうくらい付箋が貼られた参考書。どう頑張っても売れそうにない。さらに別の引き出しを開ける。ぼろぼろの布製の筆箱(中身は分度器とかコンパスとか、人生のある特定の時期を共に色濃く過ごしたアイテム達が入っていたのだが)のチャックに付いた懐かしいストラップを見つけた。それは中学生の頃に流行ったお菓子のキャラクターのストラップだった。確かこのストラップは期間限定のおまけだったはず。調べてみるといくつか同じ物が出品されていて、数千円で売れている商品もあった。私はすぐにそれを筆箱から外して畳の上の日当たりの良い場所に置き、写真を撮った。這いつくばって古いストラップの写真を様々な角度から撮る私は、側から見ると変な人だろうか。どう映るだろうか。だが今、私が気にしているのは写真のクオリティだけだった。何度撮ってもどうしてもストラップの布部分の変色が目立つ。古い物だしけっこう長い期間使用していたから仕方ないと言えば仕方ないのだが。しかし一応今となれば手に入りづらい物であることは確かなので、とりあえず千円で出品してみることにした。布部分の変色のことはちゃんと商品紹介に書いた。問題部分のアップの写真も撮って載せた。
勉強机からはそれ以外にもいくつか売れそうな物が見つかった。私はその都度畳に這いつくばり写真を撮ってトリバイに出品した。次は戸棚だった。基本的には本がメインだったが何か掘り出し物が見つかるかもしれない(本は古本屋もあるし、送料のことを考えるとあまり売りやすい物ではなかった)。その時、戸棚の右端三分の一くらいに見覚えのない箱が積まれていることに気付いた。見るとそれはガンダムのプラモデルの箱だった。そもそもここに何を置いていたのか覚えていないが、とりあえずこれは私の物ではない。お兄ちゃんの物だ。
兄、裕一は私の二歳上なのだが、ガンダムだとかエヴァンゲリオンだとか、よく知らないがそういう類のロボットものが大好きなのだ。学生の頃から熱心にプラモデルを集めていて、それは三十を過ぎた今もまだ続いている。いや、続いているというより、この様子を見ると年々過熱しているのかもしれない。おそらく自分の部屋に置き切れなくなり、誰もいないのをいいことに私の部屋を使い出したのだろう。お兄ちゃんは未だ独身で実家暮らし(独身なことについては人のことを言えないのだが)。今もおそらく隣の部屋にいるのだと思う。
夕飯は出前のお寿司だった。私としては久しぶりにお母さんの手料理を食べたい気持ちもあったのだが、これはこれでお母さんとしては私に気を遣っているのだ。
「またどうせカップ麺ばかり食べてるんでしょう」
お母さんは出前とは別に作ったシーザーサラダを私の前に置いて言った。
「最近はそうでもないよ」
嘘だった。仕事のある日はほぼ百パーセントでカップ麺かコンビニ弁当の二択だった。昔から私の中で「食べる」という行為はかなり重要度が低い。
食卓は整ったというのにお兄ちゃんはまだ部屋から出てこない。しびれを切らしたお母さんが二階に向かってお兄ちゃんを呼ぶ。やがてお兄ちゃんが降りてきて、食卓に私がいるのを見つけると「うおっ、実千じゃん」と驚きの声を上げた。お兄ちゃんはガンダムの絵がプリントされた白いティーシャツにアディダスのジャージのズボン姿。どう見てもオタクの部屋着なのだが、お兄ちゃんが着るとそこまで酷いものには見えなかった。
厄介なことに私のお兄ちゃんはかなり整った顔立ちをしている。背も高く、学生の頃はよく目立ってモテていた。バレンタインの時は大きな袋に大量のチョコレートを入れて持って帰ってきたし、ラブレター的なものが実家のポストに直接投函されていたことも何度もあった。私達は高校は違ったが、中学までは同じ学校に通っていて、その頃はよく「藤田先輩の妹」と言われたものだった。興味本位で教室までわざわざ私を見に来る人達もいた。「藤田先輩の妹なのに何か普通」みたいなことを言われた時はさすがに少し腹が立った。
「お兄ちゃん、私の部屋にプラモデル置いてるでしょ」
私はサーモンのお寿司を食べながら言った。
「あ、バレた?」
「そんなのバレるに決まってるじゃない。勝手に人の部屋に置かないでよ」
「いいじゃん。実千全然家にいないんだから」
「そういう問題じゃないでしょ。自分の部屋に置いてよ」
するとお母さんが「もういっぱいよ。この人の部屋」と口を挟んだ。私は溜息をつく。私の部屋にまで置いているということはおそらくそういうことなのだろうと予想はしていたが、少しは注意するべきではないかと思う。お父さんもお母さんもお兄ちゃんのプラモデル趣味のことにあまり干渉しない。私が高校生の頃、一度お兄ちゃんの部屋の中を覗いたことがあるのだが、信じられないくらいのプラモデル達がいろいろなポーズで並べられていて引いた。箱の量もすごかった。その頃のお兄ちゃんは大学生で、休みの日はだいたい部屋に閉じこもってプラモデルを作っていた。
私はお父さんに「お兄ちゃんはあんなんでいいの? あれでサバンナで生きていけるの?」と聞いたことがある。お父さんは苦笑いで「あれはあれで生きていけそうだよなぁ」と言った。何となく言いたいことは分かったが、私としてはあまり納得がいかなかった。
「最近はさぁ、復刻版も出るし新しいのも出るしでいろいろ大変なんだよ」
と、お兄ちゃんは笑う。私は少しも笑えずに淡々とハマチを口に運ぶ。
お兄ちゃんは、モデルとか俳優とかそういう人になればいいと私は思っていた。
あんなに学校中の憧れの的だったのだ。今からでも遅くない。きっと売れると思う。しかしあのプラモデル達がそれを邪魔するのだ。憎らしい。というか間違っている。お兄ちゃんが三十を過ぎてもモデルや俳優どころか結婚しないのも家を出ようとしないのも全てはプラモデルのせいだ。
売りたい、と思った。お兄ちゃんをダメにするプラモデルを全て売りたいと思った。そうするべきだと思った。「お兄ちゃんの持ってるプラモデル、全部売ったらそれなりにいい値段になるんじゃない?」と私は言ってみた。
「お、何だ。実千も興味あるのか?」
「いや、別に興味はないよ。でも売ったら高そうだなって思っただけ」
「そりゃ物によるけど、高いやつは高いよ」
「私が売ろうか? 家にあるもの全部」
「何言ってんだよ」
お兄ちゃんは笑う。冗談だと思っている。そういう感じでマグロを頬張っている。でももちろん私は冗談で言っていない。そういう感じでお兄ちゃんを見る。
「分かったよ。自分の部屋に戻すからそんなに怒るなよ」
お兄ちゃんは溜息をついて言った。違う。私は別にお兄ちゃんに怒っているわけではない。私はただ、間違った物であればそれはもう売ってしまう方が正しいと思っただけだ。それだけなのだ。憎らしいのはお兄ちゃんではなくプラモデルなのだ。でもこれ以上言うと今度はお兄ちゃんの方が怒り出しそうだったので何も言わなかった。
お風呂上がりにスマホを見ると今日出品したストラップが売れていた。売れそうな額を考えて設定したのに、値引きもなく出品した額そのままで即日売れたとなるともう少し値段を上げておいてもよかったのではないかと思ってしまう。私は階段を降りて台所で新聞を読むお母さんに声をかける。
「ねぇ、緩衝材って家に無い?」
「何よ緩衝材って」
「ほら、プチプチの。商品を包んだりするやつ」
「そんなのすぐに捨てちゃうわよ」
なんて勿体ない、と私は心の中で呟く。例えストラップ一本だとしでも緩衝材無しで商品を送るのは抵抗があった。いつの間にかそれが私の最低ラインのマナーになっていた。私は今夜中にストラップを送ることを諦めた。ストラップの購入者、夜うさぎさんに「購入ありがとうございます。明日発送いたします」とメッセージを送る。
部屋に戻るとお兄ちゃんのプラモデルの箱は変わらず同じ場所に置かれていた。私が帰った後に自室に戻すつもりなのだろうか。それともこのまま有耶無耶にしてここに置きっぱなしにするつもりなのだろうか。
私はプラモデルの箱を戸棚から出して畳の上に並べる。全部で四箱だった。這いつくばり、良い感じの角度から写真を撮る。テープ留めが無く箱を開けられるものは中身の写真も撮った。それで心の中で商品紹介を考える。
「新品、未使用、買ったまま未組み立ての状態です。陽の当たらない場所で保管していました。箱にも目立った傷汚れはありません」
箱に書いてある商品名をトリバイで検索してみる。同じロボットでも物によって値段がまちまちだった。そういえば夕飯の時お兄ちゃんが復刻版がどうこうと言っていた。よく分からないがおそらくいろいろと細かな種類があるのだろう。同じパッケージの商品からだいたいの売値を考える。導き出した価格は四箱合計で一万二千円。うん。悪くない。本気で売ってやろうかと思った。このプラモデルを本当に手にすべき正しい人達へ正しく商品を送る。それはどう考えても間違ったことではない。
しかしけっきょく出品しなかった。いくら正しいこととは言え、このプラモデルはお兄ちゃんがお金を出して買った物なのだ。それを私が勝手に売ることは間違っている。撮った写真はスマホに残しておいた。次もし会った時はただじゃ済まないぞ、と脅しをかけるような気持ちだった。
次の朝、昼前のバスに乗って自宅へ帰った。すぐにストラップを緩衝材に包み送る。普通郵便で八十四円だった。
あの夜以来、初めて小野君を予備校で見た。私の授業を受けていたわけではなく、廊下でちらっと見かけただけだったが。その時は声もかけなかった。
私は少し安心した。とりあえず予備校に来ているということは受験勉強を完全に止めたわけではないのだろう。予備校講師の勧めで参考書やらをトリバイで売って受験勉強を止めたなんてことになると、これは少し問題になりそうな話である(ただし私は間違ったことを言ったとは思ってはいない。需要と供給のバランスが崩れるくらいなら物事を正しい方向へ進めるべきだと思う)。
春は思っていた通りすぐに終わり、街は例年よりもずっと早く梅雨入りした。何だか少し損をしたような気持ちになった。今の御時世、どこに出掛けるということもないけれど、もう少しちょうど良い季節を与えてくれてもいいのにと思った。私は暑いのも寒いのも好きではない。二十一時半、雨が降っていると思い傘を片手に予備校を出る。でも雨は降っておらず、小野君があの日あの時とまったく同じ位置に座っていた。
「まさかまた家出?」
声をかけると「遅いよ」と言われた。遅いも何も約束をした覚えがない。
「またご飯行こうよ」
「あのねぇ」
「できれば居酒屋に行きたいな」
「この時間じゃどこも開いてないよ」
「え、そうなの?」
また新型のウイルスの感染者数が増えていて、最近は二十一時にはだいたいの飲食店が閉まる。確かお酒の提供も規制されているはずだ。
「だいたいなんで居酒屋なのよ。あなたまだ未成年でしょ」
「お酒は飲めないけどさ、なんて言うか、あの独特の雰囲気を味わってみたいって思ったんだよ」
「私もお酒はあんまり飲めないよ」
「ね、一応本当に開いてないか駅の反対側まで見に行ってみようよ」
駅の反対側には居酒屋が幾つか集まる区間があった。開いていないとは思うが、普段は全然行かない辺りなので絶対に閉まっているとも言い切れなかった。それで反対側まで歩いてみる。予想通り居酒屋はどこも閉まっていた。マクドナルドでさえも店内での飲食を中止していた。この感じだとおそらくこの前小野君と行ったファミレスも閉まっているだろう。感染が広がっている中、今は仕方がないのだが、シャッターの閉まった街並みを歩くのは少し気が滅入る。世界はこれからどうなってしまうのだろうなんて考えてしまう。「本当にどこも開いてないなぁ」と小野君は残念そうに言った。
「そこのコンビニでコーヒーくらい買ってあげるよ。今日はそれで帰りなさい」
小野君は不服そうではあったがそれしか選択肢が無いのも事実で、仕方なく頷いた。私が缶のブラックコーヒーを選ぶと小野君も同じ物を選んだ。しかしいざ飲んでみると「ブラックってこんな苦いんだ」と綺麗な顔をくしゃっとしかめて言った。
「何でブラックにしたのよ」
「飲んだことなかったから試してみようと思って」
「それで結果合わなかったと」
小野君は苦笑いで頷く。
「まぁ、これは自分なりの模索だね。俺、この前何でも手に入ったって言ってたでしょ? でももちろん持ってない物もたくさんあるんだよ。それはけっきょく自分も周りも特に望んでこなかった物なんだけどね。今はそういう物、物だけじゃなくて経験もそうだけど、少しでも興味を持てたらとにかくチャレンジしてみようと思って。そうすれば自分が本当に欲しい物が見えてくるかなってね」
「良い心がけだと思うよ。チャレンジしてみて自分に合わない物はまた売ればいいんだから。コーヒーは飲んだらなくなっちゃうけど」
小野君は頷き、ブラックコーヒーをぐびっと飲んだ。無理をしている感じだった。
「受験はどうする気なの?」
「どうしよう。正直迷ってる。親にはまだ何も言ってないけど」
「それは早く言った方がいいと思うよ。急に受験するのを止めるなんて言ったら多分驚くと思うから」
「うん。ただ、持ってた参考書類はもう全部売っちゃったけどね」
「そんなの必要になればまた買えばいいのよ。今要らないと思うなら売って正解だったと思うよ」
そう言うと小野君は「やっぱり先生はちょっと変わってるよ」と笑った。心外だった。私は別に変なことを言っていない。要る物は要る、要らない物は要らない。ただそれだけの話だ。
ポケットでスマホが震えたので見てみると、思っていた通り先日売ったストラップの受領通知だった。購入者が商品を確認したらトリバイから出品者に受領通知のメールが届く仕組みになっていた。これで売上が出品者に入り取引終了となるのだ。ストラップを発送した日から考えて、そろそろ来る頃合いだと思っていた。
「何にやにやしてるの。もしかして彼氏からの連絡?」
「違う。トリバイの受領通知。彼氏なんていないよ」
「なんだ」
「ねぇ、私、そんなににやにやしてた?」
「してたよ。何か、嬉しそうな顔だった」
小野君はそう言って私の顔をじっと見た。私は目を逸らして「ふぅん」と流してみたものの少し恥ずかしかった。その時、ピンクの髪が私達の横を通り過ぎ、コンビニに入る手前でピタっと足を止めてこちらを振り返った。
「マチちゃん?」
あかねさんだった。
「あぁ、どうも」
と、急なあかねさんの登場に私の声はかなり戸惑い気味だった。あかねさんは私の隣にいる小野君を見て「あ、この前の彼氏?」と嬉しそうに言った。今日のあかねさんは髪を後ろで束ねて青のワンピースを着ていた。大人っぽい感じで、私はまたも今までに会ったあかねさんとは違う印象を受けた。この人はいったいどれだけの自分を持っているのか。
「違います。私、彼氏なんていません」
と、数分前も同じことを言ったような気がする。あかねさんは構わず小野君に「どうも」と会釈し、小野君もそれに返す。客観的に二人を見ると美男美女で、何だか私だけが場違いのように思えた。気を取り直して「予備校の生徒ですよ」と説明する。
「へぇ、受験生なんだ」
「まぁ一応。ギリギリですけどね」
「何よ、ギリギリって。ウケる」
と、あかねさんは笑う。何となくこの二人は気が合いそうだなと思った。「じゃあ、私商品の受け取りがあるから」と、あかねさんは手を振ってコンビニの中に入って行った。私がコンビニで商品を送るのと同じようにコンビニで商品を受け取る人もいるのだな、と当たり前のことなのだがそんなことを改めて思った。
「先生の友達?」
「友達ってほどじゃないけど。そうだ、小野君、キューズってアイドルグループ知ってる?」
「いや、知らない。俺そういうのあんまり詳しくないから」
「そっか」
コンビニの中を覗き込むとレジに立つあかねさんが見えた。コンビニ受け取り用のサービス「トリバイ便スタイル」専用の発送用ダンボールを三つも受け取っている。受領のサインをするあかねさんはにやにやした笑みを浮かべていた。受領通知を確認していた時、私もこんな顔をしていたのだろうか。
深夜、私が出品していたヴァレンティノのイヤリング(実家に帰った時、要らないからとお母さんにもらったものだ)にコメントが付いた。
「すみません。三千五百円への値下げは厳しいですかー? 即決いたします」
五千円からいきなり三千五百円への値下げ要請。ちょっと図々しくもあるが、出品してからもう一週間が経ち、いいね! もあまり付いていなかったのでまったく飲めない話ではなかった。コメントを付けてきたシルクスキーさん、そのアカウント名には見覚えがあった。アクセサリー関係をよく出品している人だ。
「転売目的のために値切るのはやめてください」
と、私が対応を考えていたら別の人がまたコメントを付けてきた。鋭いコメント。自分が言われたわけでもないのに緊張した。アカウント名、KSKさん。アイコンは名前は知らないがどこかで見たことのあるアニメのキャラクターだった。
「あのー、別にKSKさんには関係ないですよね?」
と、シルクスキーさんの返信は早かった。
「関係ないかもしれないけど見ていて気分が悪いんです。あなた、どうせ転売するために買うんでしょ?」
「転売転売って、そんなに悪いですか? 別に買った物を無駄にするわけでもないですし、ちゃんと誰かに売るんですよ? 失礼ですけど、私の方がマチさんよりフォロワー数も多いから商品も売れやすいですし、物とそれを欲しい人の間に誰かが入ることはそんなに悪ですか」
トリバイでは、何かを出品したら自動的にその人をフォローしているフォロワーに通知が届く仕組みになっていた。だからフォロワー数が多い方が商品が売れやすいというのは事実だ。見てみると、シルクスキーさんのフォロワー数は確かに私よりもはるかに多かった。
ただ、露骨な転売行為はトリバイ上では禁止されている。運営が一つ一つの取引をチェックできているわけではなくアラートレベルではあるが、販売行為はあくまで「自分が使用するつもりだったもの」「自分が使用しなくなったもの」に対してでなければならない。そもそも細かい話、正当に転売を行うためには古物商許可が必要だ(物によっては転売そのものが禁止されている場合があるが)。多分、シルクスキーさんはそのことを知らないで話している。
「綺麗事言わないでください。それでマージンを取って儲けているくせに」
「手間がかかることにマージンが発生するのは当たり前でしょ」
「じゃあそんな手間がかかることはやめたらいいじゃないですか。あなたの行為は商品を汚しているだけです」
「は? 意味分からないんだけど。汚してるって何? 転売だろうとなんだろうと、綺麗な商品は綺麗なまま届くよ。何が問題なの? 全然分からない」
「転売目的で商品を購入することはいわば奴隷の人身売買と同じです。ただ売られるのを待つためだけにあなたみたいな人に保有されるわけなんだから。どうせ買ったって一度も使わないんでしょ? だって、あなたが欲しいのはヴァレンティノのイヤリングじゃなくて売上のマージンなんですものね。私はそのための物の売買が正しい取引だとはどうしても思えません」
「ほんとウザいんだけど。最終的にはちゃんと欲しい人に欲しい物を届けるんだから別に文句無いでしょ。売れないでずっと残ってるより全然いいじゃない」
「自惚れないでください。あなたみたいな人がいなくても、いつかちゃんとそれを欲しがる人が現れますよ」
「もういいよ。あんたみたいなのと言い合ったってマジで時間の無駄。そんなに転売が気に食わないならそもそもフリマアプリになんか来ないで実際のお店で買ったら? 言っておくけど、実際のお店だって別のどこかから仕入れた物を売っているんだからね。それは良くて転売はダメって考え方もよく分からないんだけど、もういいわ。マジで腹立つ。別にこのままの値段でいいから買うわ」
シルクスキーさんがそうコメントした次の瞬間、KSKさんが私のヴァレンティノのイヤリングを購入した。購入済みの商品にはそれ以上はコメントできない。それで二人の会話は唐突に終わった。
KSKさんから「よろしくお願いします」とシンプルな取引メッセージが来た。さっきの一連のやり取りを見ていたから何だか怖かった。「コメント欄を荒らしてしまい申し訳ありません。あの人、前から気になってたんです」と、続いてメッセージが来る。「ああいう人がいると正当な取引ができなくなってしまうので困ります。しかも転売が悪いって自覚全然なかったんですね。頭が悪いとしか思えないです。さっきのコメントがあの人の転売行為の証拠になると思うので、運営にも報告しておきますね」と、ぽんぽんとKSKさんからのコメントが続く。「報告しておきますね」と言われても、嬉しくも何ともなかった。これは、私のために報告しておくという意味なのだろうか? だとしたら私は別にそんなことを望んでいない。
二人の一連のやり取りを見て、私はどちらかというとKSKさんの方に嫌悪感を抱いていた。
もちろん転売行為を繰り返すシルクスキーさんは良くない。意見としてはKSKさんの言っていることの方が正しいと思う。転売なんかしなくてもいずれ商品はそれを望む人のところに届くはずだ。だから悪戯に値段を上げる転売行為は止めるべきだという気持ちも分かる。だがしかし、私の商品を購入したことに対しては納得がいかなかった。
転売目的で商品を購入することは奴隷の人身売買と同じだとKSKさんは言った。しかし、転売だろうが何だろうが、例えそれを人身売買と呼ぼうが、物の売買、需要と供給という意味では、その取引は正しい方向へ進んでいる。私は単純に物を、それを欲しがっている誰かに売るという行為に対しての考え方としてはシルクスキーさんの言っていることが間違っているとは思わなかった。ルール違反を咎めたい気持ちは分かる。それを防ぎたいのも分かる。ただ、大事なことは商品がそれを必要としている人の手元にちゃんと届くことである。そこがブレたら全ての話がおかしくなる。強引に購入した私の商品をKSKさんはどうするつもりなのだろうか? 一度も使わないのはKSKさんも同じではないのだろうか? いずれもったいなくなってリサイクルショップなんかに売るのであろうか? であれば、それはある意味シルクスキーさんの転売よりも間違った行為だと私には思えた。
私は初めて「売る」ことを躊躇した。この取引はどう考えても間違っている。私は納得できないことを納得するのが苦手だ。どんな方向から考えてみても納得できないことはやはり納得できない。
迷ったが、私は商品の破損を発見したと嘘をつき、KSKさんに取引の中止をお願いした。取引の中止は双方が合意したうえで初めて成立する。KSKさんとしてもやはり特別欲しかった物ではなかったのだろう。あっさり取引の中止に応じた。
私は出品中の商品からヴァレンティノのイヤリングを削除して、ベッドの上、頭から布団をかぶった。
授業終わりに室長から面談室に呼び出されたのは、今の生徒達の状況を聞くだとか、夏期講習に向けた個別の相談だとか、そういう理由でだと思った。だから、難国Sの担当を外れてほしいと言われた時は耳を疑った。すぐに理解ができなかった。
「何でなんですか?」
絞り出された言葉が声になる。今自分がどんな顔をしているのか想像がつかなかった。
自惚れているわけではないが、私ほど上手に数学の知識を売れる講師はこの予備校にはいない。その私が一番難しい授業を受け持つのは当然で、理にかなったことだと思う。それ以外に選択肢が無いと言ってもいいくらいだ。
「いや、別に完全に外れてくれと言っているわけじゃないんだよ」
室長はそう言って頭を掻く。室長の大原さん。身体つきがいいのか太っているのか判断しづらい体型で、とりあえずいつも半袖のカッターシャツがぱつんぱつんになっている。以前、私と干支が同じだと言っていたのでおそらく今四十一歳だ。この教室の室長になったのは二年前で、その頃と比べると少し髪が薄くなったような気がする。確かこの春から娘さんが中学に上がったと言っていた。
「完全に、とは?」
「藤田先生の作る独自の教材は分かりやすいって評判だし、そこは今まで通り作成をお願いしたいんだよ。でも、教壇に立って教えるところだけは豊橋先生に代わってもらおうかと思ってて」
言っている意味が分からなかった。教壇に立って教えるだけ、なんて言うが、それこそが予備校講師のメインの仕事ではないのか。正しくは教材を作成するだけ、を私に任せたいという話ではないのか、と思った時に初めて自分が気を遣われているのだということに気付いた。
豊橋先生は室長と同じくらいの年齢の男の人で。丸い眼鏡とカーディガンがトレードマークの先輩講師だ。物腰も柔らかく面倒見もいい人だが、こと数学の知識に関して言えば私の方が数段上だ。
「なぜそんなことをするんですか? 私が授業をすることが何か問題ですか?」
「いや、問題というか」
と、言って室長は言葉を切る。私は納得がいかなかった。私が作る教材はあくまで私の知識を上手く生徒達に伝えるためのツールであり、他の誰かの知識伝達の助けをするものでは断じてない。不穏な空気が面談室に流れる。やがて室長は観念したかのように話し出した。
「ちょっとね、藤田先生にクレームが入ってるんだよ」
「クレーム?」
突拍子もない言葉に驚いた。
「あ、授業自体は何も問題無いんだよ。成果も出てるし、僕としてもありがたいくらいなんだ」
「だったら何のクレームがあるんですか?」
「ほら、藤田先生って、進路相談に来た生徒に対してけっこう冷たいとこあるじゃない」
そう言われて私は狐につままれたような気持ちになった。進路相談。それがいったいどうしたというのだ。
「どこの学部がおすすめかとか、今の自分の学力だったらどこを受けたらいいかとか。生徒のそういう相談に藤田先生はいつも自分で考えなさいって答えるでしょ? 僕もね、それはちょっとどうかと思ってたんだ」
「お言葉ですが、室長。私達の仕事はそれぞれの特化した教科の知識を生徒に伝えることであって、それをもってどこの大学を受けるかという話は生徒側の問題ではないですか?」
「いや、まぁ藤田先生の言うことも分かるんだけどね。受験生としてはやっぱりそういうところの相談にも乗ってほしいんだよ。みんな不安を抱えてるわけだからさ。僕等としてもちゃんと後悔のない大学を選んで受かってほしいじゃない? だからそのための相談にはちゃんと乗らないとね」
私は溜息をついてしまいそうだったが、我慢して「はぁ」と答えた。結果、溜息とあまり変わらないような声だった。
「進路相談に対して藤田先生にそういう対応をされたってクレームが予備校に何件か入ってるんだよ。中にはけっこう怒ってる人もいて、それはちょっとややこしい親御さんなんだけど、予備校側としても何らかの対応を求められていて、納得できない気持ちも分かるんだけどとりあえず一度担当を外れてほしい。申し訳ないんだけど、少なくとも教壇に立つ部分は」
そこまではっきりと言われてしまうともう引き下がらざるを得ない。納得はできていない。だけど、もうどうしようもないことなのだということは理解できた。豊橋先生に担当を代わるのは来月からとのこと。今月いっぱいはまだ私が教壇に立つ。
そんな話を聞いた後でも、私はいつも通り次の授業の準備をした。生徒達に知識を伝えるための資料を作った。二十三時、退勤して外に出ると真っ暗だが梅雨の中休みの雲一つない六月の空がどこまでも広がっていた。気持ちの良い夜だったのだが、心のもやもやは消えない。私は思った以上にショックを受けていた。
飲めないが、お酒を飲みたいと思った。こんなことは生まれて初めてだった。コンビニで銀色の缶ビールを二本買って帰った。玄関のドアを開け、真っ暗な部屋の電気をつける。生命力を取り戻したかのようにLEDは光り輝いたが、逆に私はどっと疲れた。力なく床に座り込み、缶ビールの一本目を一気に半分くらいまで飲んだ。ビールを飲むのは入社した時の新人歓迎の飲み会以来で、思えば七年ぶりだった。相変わらず美味しくない。こんなものを好んで飲む人の気が知れなかった。なんとか無理をして一本は飲んだが、もう一本飲む気にはなれずそのまま冷蔵庫に入れた。
少し気分が悪くてフローリングの床に横になる。担当を外されたことについて、未だに納得はできず悔しいのだが、それよりも今はなぜか教育実習の記憶が蘇った。結城君と奄美君。未だに顔も名前もちゃんと覚えている。私はまたあの壁にぶつかったのだ。
なぜ、何をどうしても変なところで足を引っ張られてしまうのか。数学の知識を売りたい。ただそれだけなのになぜそれだけではいさせてくれないのか。喧嘩の仲裁? 進路相談? そんなものは私の仕事ではない。私の売るものではない。頼むから集中させてくれ。混じり気の無い需要と供給の中でパフォーマンスをさせてくれ。ただただ送るからそれをただただ受け取ってくれ。それ以外のことを私に要求しないでくれ。横になったままの視線の高さで冷蔵庫が見えた。「売りたい」と思った。
私は起き上がり冷蔵庫の中身を全て取り出した(とは言ってもほとんど何も入っていなかったが)。外見も中の様子も写真に撮りまくる。無音の部屋に乾いたシャッター音だけが響き続けた。必死だった。とにかく何かを売って自分を証明したかった。
「シャープ製です。三年前に購入しました。動作確認済みです。問題なく動きます。目立った傷、汚れはありません」
大型商品となるので、調べたら送料が八千円もかかった。私はこんな大きな物を売るのは初めてだった。送料込み二万五千円で出品すると、意外にも三十分で売れた。
時計を見るといつの間にかもう深夜一時過ぎだった。さすがにこの時間から冷蔵庫を発送する気力は残っていなかった。コンセントを抜き、ダメになりそうな物だけ捨てた。そのまま冷たいフローリングの上で眠った。
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